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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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「ドーランを塗った兵士たち」 戦場のエンターテイナー〜兵士と水兵のため博物館@ピッツバーグ

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今アメリカです。

今FOXニュースで、中国人の女スパイにハニトラで引っかかっていた
民主党のスウォルウェル下院議員について、彼が沈黙していることで
ペロシは無関係なのかとかマッカーシーがインタビューを受けています。

「これは国家安全に関わる出来事なんです。
このことについて共和党もも民主党もないでしょう」

この恥ずかしい下院議員、大統領選の民主党代表に立候補してたんですね。
天安門事件の後凍結されていたODAを解除してC共に援助を決めたのはこの人。

ちなみにFOXでは息子の強制捜査と中国との関係について、
All In The Family(家族の全て)とタイトルされたニュースで

”get Joe involved”

であったことを普通に報じています。

CNNは例の盗聴事件で「いろいろと」バレてしまいましたが、アメリカはまだ
「こちら側」を報じるメディアがあるだけ日本よりマシな気がします。



 

さて、先日ご紹介したビリー・ジョエルの「アレンタウン」の歌詞に、

「俺たちの親父らは第二次世界大戦で戦い
休暇にはジャージー海岸ですごし
USO(ユーエスオー)で出会い、ダンスを申し込んでチークを踊り
そして俺たちはアレンタウンに住んでいる」

というフレーズがあったでしょう。
United Service Organization

通称USOは、1941年に当時のルーズベルト大統領の依頼により、
軍人の士気向上を目的にした慰安、娯楽を提供する場として発足しました。
当時戦争の勃発によって急激に拡大されていった軍隊を統制するためにも必要な
エンターテイメントを供給するためのNPO団体で、もちろん国防総省の支援を受けています。

USO主催のダンスパーティ、この日は「ネイビーデイ」の模様。

そういやあの怪作「1945」では、USOのダンスパーティ会場で
陸軍と海軍がマジで喧嘩してましたが、やはりこういうパーティは
ネタではなく「混ぜるな危険」だったんじゃないでしょうか。

また、同作品では、ダンスパーティに出席する女性に対し、

「どんな嫌な男でもそんなフリを見せないこと」
「とにかく兵隊さんたちを慰めるのです」

と言いくるめるやり手婆さんのような「マナー教師」がいましたね。

サクラとして参加していた女性もいた一方、「制服フェチ」もいた、
とあの映画で描かれていましたが、ビリージョエルの歌詞のように
USOのおかげで成婚に至ったカップルももちろん多かったのだと思います。

 

キャンプにエンターテイメントを提供するのもUSOの大事な任務でした。
ハリウッドの大物スターから無名のボードビリアンに至るまで、
キャンプを回ってショーを行ったエンターテイナーは七千人を超えます。

正確な数字を挙げると、1941年の発足から1947年(キャンプ引き揚げまで)まで
USOが提供したパフォーマンスは42万8千521回。

その最盛期は1945年で、この年、最多で1日700回のショーが開催されています。
ただしこれは拡大されていた戦線の場所を問わずということなので、
世界中米軍のキャンプにUSOは最低700人のエンターテイナーと
その関係者を派遣していたということになり、また、このとき、
700回のショーを観覧した聴衆は概算で1万5千名いたといわれます。

そして、戦争が終わるまでに、1500万人がボランティアとしてUSOに協力しました。

 このブースでは、そんなUSO主催で兵士たちの慰問を行った
エンターテイナーたちを紹介しています。

まず、ブースに展示されている最も目を引く白いレースのドレスをご覧ください。

写真の女性が着用しているドレスの実物ですね。
この女性は

ジーン’エリザベス”・ティグナネッリ 
Jean 'Elizabeth’Tignanelli

という歌手で、ピッツバーグにあるナイトクラブで
女性ばかり集めたジャズバンド、

ジョイ・カイラー・バンド(Joy Cayler Band)

が演奏していた時、リードシンガーを募集していた同楽団に19歳で採用された人です。
彼女は歌手としてだけでなくギタリストとしても評価され、
名前を「ティグナネッリ」から短く「トラネル」Tranell、と変えました。

ジョイ・カイラーというのはピアノに座った白いスーツの女性で、
彼女自身はトランペット奏者。   彼女がデンバーで女性ばかりジャズミュージシャンを集め、
ビッグバンドを結成したのは若干16歳のときだったといいますが、
この女性バンドは特にUSOの慰問演奏には大変人気がありました。

女性がジャズをするということに関してはアメリカでもかなり偏見をもたれ、
ジョージ・サイモンというジャズ評論家などは、   「神だけが木を作ることができるように、
男性だけが良いジャズを演奏することができる」   と言い切っていたそうですが、カイラーのバンドは実力がありながら
やはり「見かけ」を重視せざるを得ない事情のため、
オーディションではそこそこルックスのいい者しか採用できませんでした。     カイラー自身「まるでストリッパーのような格好をさせられた」と自嘲しています。
まあ男性を慰安することが第一義なので、仕方がなかったかもですね。   ちなみに彼女らはアメリカ本土をほとんど縦断しながら
各地で演奏活動をしてきましたが、戦後は日本にも来て6ヶ月滞在していたそうです。
兵士慰問のために女性ばかりで結成されたビッグバンドは、実は当時結構たくさんありました。   Frances Carroll & Her Coquettes Featuring Drummer Viola Smith
これもその一つですが、ガールズビッグバンドがどんな演奏をしていたかよくわかります。
その格好で飛んだり跳ねたりするか?っていう(笑)


1943年公開の

「ジョーという名の男」   というMGM映画のポスターです。 スペンサー・トレイシーといえば、あの   「東京上空三十秒前」   でドーリットルを演じていたのを思い出しますが、これはその前年度作品で、 B-25搭乗員である主人公が、女性輸送飛行隊のパイロットであるヒロインをめぐって
P-38ライトニングのパイロットと三角関係になる話。

色々盛りだくさんな感じですが、こういう映画も、つまりは
キャンプの将兵にUSO主催の映画上映会を通じてみせることを
目的に制作された「士気高揚映画」でした。     特にヨーロッパにいる連合国軍のキャンプを慰問し、G.I.たちに絶大に人気のあった姉妹トリオ、
「アンドリュース・シスターズ」。 特に「素敵なあなた」"Bei Mir Bistu Shein"(イディッシュ語。
ドイツ語でBei mir bist du schönという表記もあり)「ブギウギ・ビューグル・ボーイ」
などはジャズ好きなら知らない人はいないほどヒットしました。   彼女ら自身はミネアポリスの出身ですが、父親はギリシャ人、母はノルウェー出身です。
これは「星は天国の窓」というタイトルの楽譜かあるいはレコードジャケットでしょうか。   Stars Are The Windows Of Heaven (1950) - The Andrews Sisters  
ピッツバーグ大学の学生だったカーティス・グリーンバーグは、1943年、
USOのショーに出演したあのジーン・ケリーからこれを贈呈されました。
グリーンバーグは当時陸軍に徴兵されたいわゆる「学徒兵」でしたが、
ダンサーとしてなかなか才能があったらしく、USOのショーに出演していました。
詳しい経緯は説明がないのですが、おそらくジーン・ケリーのUSOのショーで
彼はバックダンサーとして踊り、兵隊であることを知ったケリーが
この若い兵隊にヴァイオリンをプレゼントしたのではないかと思われます。       ピッツバーグ出身のトランペット奏者、   レオナルド・ブレア・ロイド(Lepmard Blair Loyd)   の愛用していた楽器が展示されています。
彼はイングランドのボドニー航空基地に展開していた
第352爆撃グループの第8空軍部隊に所属していました。   「娑婆」ではミュージシャンだった彼は戦地に楽器を持っていき、
USO主催の慰問ツァーにはメンバーを内部で選抜して参加していたそうです。
彼の写真の横に書かれているタイトルは、   「ダブル・デューティ・・・戦線の前方と後方で」   とありますから、どうも本物?の搭乗員だったようです。  

 

アメリカでは、兵士の慰問のために戦線に赴くことも辞さなかった
エンターテイナーたちをして、

soldiers in greasepiant

と呼びました。
「グリースペイント」とは、舞台化粧に使うドーランのことで、
文字通り「ドーランを塗った兵士たち」の意味です。

そして実際、そのうちの何名かは戦地から帰ることはありませんでした。
戦う男たちの傍らで戦死したり、あるいは移動中の飛行機が墜落し
亡くなった人もいます。

Glen miller.jpg

作曲家でクラリネット奏者、ビッグバンド、グレン・ミラー楽団の指揮者
グレン・ミラー少佐もその一人でした。

グレン・ミラーは第二次世界大戦が始まるとほとんど同時に
USOからの派遣で慰問活動を開始し、米陸軍航空隊に入隊しました。

そして精力的に慰問演奏を続けていた1944年12月15日、慰問演奏のため
イギリスからフランスへ移動するために乗った専用機(UC-64)が
イギリス海峡上で消息を絶ち、死亡認定されました。

ドイツへの爆撃から帰還する途中のイギリス空軍の爆撃機が、
上空で投棄した爆弾が乗機に当たり墜落したとする説の他、
イギリス軍機の誤射で撃墜されたとする説などがありましたが、
現在では機体の不具合による墜落であるという説が有力です。

いずれにせよ、ミラーの飛行機も遺体も今日まで見つかっていない以上、
事故原因は推測の域を出ていません。

 

記録では第二次世界大戦中に「戦死」した「ドーランの兵士」は
ミラーを含め26名とも37名ともいわれています。

飛行機の墜落で死亡したロシア系アメリカ歌手、
タマラ・ドレイシンなどもその一人でした。

Tamara Drasin.jpg

そして、我が日本軍にも戦死した「ドーランの戦士」がいたことを
最後にお話ししておきます。

満州事変が始まったあと、満州駐屯軍に慰問演芸団が派遣されました。

「エンタツ・アチャコ」もこの時派遣された芸人です。

1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると朝日新聞が企画して
吉本の慰問団「わらわし隊」(荒鷲隊のもじり)が派遣されるようになりました。

桂金吾・花園愛子

昭和16年に派遣された慰問団が、移動中に中国軍の襲撃を受け、その際、
桂金吾と夫婦コンビを組んでいた花園愛子が、撃たれた将校を抱き起こそうとして、
自らの大腿部にも2発の弾を受け、出血多量で4時間後に息を引き取ったのです。

花園愛子は唯一の「国のために戦ったドーランの戦士」として靖國神社に合祀されています。

 

続く。

 


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