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兄弟艦(きょうだいぶね)駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」〜バッファロー&エリー郡海軍軍事博物館

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エリー湖岸に偶然見つけた海軍&軍事公園の展示から、
今日は最後の係留展示となる駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」をご紹介します。

まず、「ザ・サリヴァンズ」の係留されている位置ですが、潜水艦「クローカー」の後方岸壁、
ミサイル巡洋艦「リトル・ロック」の内側となります。

「リトル・ロック」の艦内見学のためには、「ザ・サリヴァンズ」から乗って
「クローカー」経由で降りてくるというコースとなっているようです。

「ザ・サリヴァンズ」、ただいま絶賛修復修理中。
中共ウィルスによる閉鎖の期間、多くの博物館や展示場は
再開に向けて内部を改装したり修復したりしているようです。

それではまず、当博物館の説明翻訳から参ります。

USS The Sullivans 

廃止されたU​​SS「ザ・サリヴァンズ」は、第二次世界大戦で使用された
米国駆逐艦の最大かつ最も重要なクラスである「フレッチャー」級駆逐艦の好例です。

 

バッファロー海軍公園の「フレッチャー」級駆逐艦DD-537は、
第二次世界大戦で使用された米国駆逐艦の最大かつ最も重要なクラスでした。

USS「サリヴァンズ」は、アイオワ州ウォータールーの5人の兄弟にちなんで名付けられました。
海軍で複数の人物にちなんで名付けられた唯一の軍艦です。

彼女は1943年に就役し、太平洋戦争で初戦デビューを行いました。
8機の日本軍の飛行機を撃墜し、硫黄島と沖縄を砲撃し、
アメリカのパイロットと乗組員を艦の燃焼や沈没から救いました。

彼女はまた、朝鮮戦争とキューバミサイル危機の間に行動をおこないました。

USS「サリバンズ」は1965年に廃止され、功績のあるパフォーマンスによって
合計11のバトルスターを獲得しました。

現在はバッファローウォーターフロントに係留されている歴史的建造物です。

艦内見学では、310人の乗員とともに彼女が

「ティンカン・セイラー」

としての役割を果たした様子がわかります。
彼女はまた、一緒に亡くなった5人のサリバンの息子たちへの追悼と記憶の場でもあります。

この記憶は、彼女のモットーである「We Stick Together!」に裏付けられました。

DD-537

長さ: 376.6フィート (114.76m)
ビーム: 39 .8フィート (12.09m)
ドラフト:  17.9フィート(5.41m)
排水量: 2,100ロングトン(2,080トン)

兵装: 5インチ/ 38口径砲 4門 3インチ/ 50口径砲1門 ツイン40mm機関砲2基
   ディプス・チャージ(爆雷)
人員: 310名

ところで、これを確認するためにウィキペディアを見たところ、
全長が153.9m、とあったので、どういうことだ!とびっくりして
最後まで読んだら、同名の軍艦でした。

ミサイル駆逐艦 USS「ザ・サリヴァンズ」DDG-68

 

 


● サリヴァン兄弟

軍艦二代にわたってその名前を残す「ザ・サリヴァンズ」とはどういう兄弟でしょうか。
なお、英語では家族、兄弟を表す時「ザ」をつけなくてはいけないので、
本艦を単に「サリヴァンズ」と称するのは間違いとなります。

ザ・サリヴァンズはアイオワのウォータールーに住む
アイルランド系の移民の夫婦に生まれた男ばかり5人の兄弟です。

左からジョージ、マット、アル、フランク、ジョー  

なお、長男から順番に

長男 ジョージ・トーマス 27歳(1914年生)二等掌砲手

次男 フランシス・ヘンリー "フランク" 26歳(1916年生)操舵手

三男 ジョセフ・ユージーン "ジョー"  24歳(1918年生)二等水兵

四男 マディソン・アベル "マット" 23歳(1919年生)二等水兵

五男 アルバート・レオ "アル" 20歳(1922年生)二等水兵

この頃は多産の家は珍しいことではなかったのかもしれませんが、
7年間の間に子供を6人産み続けたカーチャンとか、そのうち5人が
男ばかりだったこととか、その5人が全員海軍に入ったこととか、
しかもその5人が5人とも同じフネに乗っていたために
そのフネがやられて全員戦死してしまったこととか、   ・・・・・・・・とにかくどれ一つとっても実現の確率が低すぎて
突っ込みどころ満載という珍しいことばかりではあります。

 

 

● 「唯一の生存者政策」

だからこそ海軍も、彼らの死をレガシーとして扱い、
その名前が遺されることになったのでありましょう。
その死はその後のアメリカ海軍の運用にも影響を与えました。

たとえば戦争局は「ソール・サバイバー・ポリシー」(唯一の生存者政策)を定め、
このことは映画「プライベート・ライアン」の題材として取り上げられています。

この政策は、サリヴァン兄弟の死後、1948年に制定されましたが、それ以前にも
家族の唯一の生存者が現役から免除される例はあったそうです。

たとえば、1944年、立て続けに息子(双子含む)5人を戦死で失った
ボルグストローム兄弟の両親は、申し立てによって末の息子の徴兵を
正式に免除させることに成功したという事例です。

また、チャールズ、ジョセフ、ヘンリーの3人のビュートホーン兄弟の場合、
長兄のチャールズが1944年にフランスで戦死し、ジョセフが1945年に太平洋で戦死した後、
イタリアの陸軍空軍に勤務していたヘンリーは陸軍省から帰国を命じられています。

 

「プライベート・ライアン」の直接のモデルになったニーランド兄弟の場合は、
4人の兄弟のうち1人を除くすべてが戦死したとされていたところ、
米陸軍空軍の長兄であるエドワード・ニランド技術軍曹は、
後にビルマの捕虜収容所に収容されていたことが判明しています。

 

サリヴァン兄弟の件と同様、ボルグストロム兄弟、ビュートホーン兄弟の件は、
どちらも「唯一の生存者政策」の成立に直接寄与することになりました。

最近の例では、2004年、イラクで戦死したジャレッド・ハバードの兄弟である
ジェイソンとネイサンが陸軍に入隊後、ネイサンがヘリコプター事故で亡くなり、
これを受けて軍当局はジェイソンに帰還を命じたということがありました。

アフガニスタンでも、ワイズ兄弟のジェレミー、ベン、ボーのうち、
ネイビーシールズのジェレミーが自爆テロで死亡、つづいて
衛生兵だったベンが重傷を負い死亡したのち、ボーに帰国命令が出されました。

この法案の適用は、生き残った本人が要求し申請することができ、
その対象は下士官兵、士官のいずれを問いません。

ただし、本人が家族の死亡の通知を受けた後であっても自発的に
再入隊または自発的に現役を延長した場合はこの資格を放棄したとみなされます。

 

● サリヴァン兄弟の最後

さて、彼らの経歴を見てここからもわかるように、長男と次男は
兄弟に先駆けて海軍に入隊しており、三男から以降3人は
同時に(1942年1月3日)海軍入りして階級が同じです。

三男以降の3名が海軍に入った時期を考えるに、彼ら兄弟は
日本との開戦を知り、兄二人に続き国のために海軍で敵と戦うのだ、
と話し合ってそれを決めたのだと思われます。

そして、5名は全て同じ軍艦、

軽巡洋艦 USS 「ジュノー」

に乗り組むことを志望しました。

兄弟全員が一つの艦に乗ることの危険性を海軍はよくわかっていたはずですが、
サリヴァン兄弟の熱意に負けたのか、これも一つのアピールになると考えたのか、
最終的に海軍はこれを許し、5人のサリヴァンは「ジュノー」乗組となりました。

 

 

軽巡「ジュノー」は1942年8月からガダルカナルに展開していましたが、
1942年11月13日、伊号潜水艦26の魚雷攻撃による弾倉爆発が原因で沈没しました。

このとき、フランク(次男)ジョー(三男)マット(四男)の3名は爆発で即死しています。

ジョージとアルを含む「ジュノー」乗員のうち約100名は海に逃れていましたが、
軽巡洋艦USS 「ヘレナ」艦長と機動部隊指揮官は、生存者の望み薄い海域で
日本の潜水艦の攻撃にさらされることを躊躇い、捜索を行わなかったうえ、
沈没を知っていたB-17爆撃機の乗組員は、無線封止命令を受けていたため、
数時間後に着陸するまで、生存者確認の報告を提出できませんでした。

しかも!
この報告は他の保留中の事務処理と混じってしまい、数日間放置されていました。

数日後、本部はようやく生存者報告に気づき、捜索を命じましたが、
この間海上の「ジュノー」の生存者(多くが重傷を負っていた)は
空腹、喉の渇き、そして繰り返されるサメによる襲撃にさらされることになり、
沈没から8日後、カタリナ捜索機が救出できた生存者はわずか10名でした。

この生存者の報告によって、生き残っていたサリヴァン家の兄弟のうち、
海に逃れたアル(五男)は翌日溺死し、長男のジョージは4〜5日生きていた、
ということがわかっています。

彼らの語ったジョージの最後というのは、つぎのようなものでした。

「漂流中の高ナトリウム血症とおそらく兄弟を失った悲しみから
譫妄(せんもう)を起こし、『悲しみのあまり精神に異常をきたし』
自ら筏の柵を乗り越えていき、それっきり乗員は彼の姿を見ることはなかった」

戦争中なのでこれは仕方のないことだったかもしれませんが、
海軍は敵に情報を与えることになるため「ジュノー」の喪失を発表しませんでした。

しかし、息子たちから全く手紙が届かなくなったのを不審に思った両親が
人事局に何度も問い合わせをするようになります。

 

そしてある朝、五人の兄弟の父親であるトムが出勤準備をしていると、
軍服を着た3人の男性(副司令官、医師、および兵曹)が訪れ、
そのうち士官が父親にこう口を開きました。

「あなたの息子さんについてお知らせしなければならないことがあります」

「誰についてですか」(”Which who?")

士官はこう答えました。

「お気の毒ですが5名全員です」


長くなったので二日に分けます。

 


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