エリー湖の河畔にとつ現れたネイバルパーク、
バッファロー・エリー郡海軍軍事博物館。
そこには三隻の米海軍艦船が係留展示されています。
前回、そのうちの一隻、駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」の紹介を始めたところ、
命名の理由となったサリバン5兄弟の戦死と、そのことから生まれた
「最後の生存者保護」の法律について説明していたら一項を費やしてしまいました。
というわけで、今日はこの駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」についての続きと参ります。
「ザ・サリヴァンズ」の煙突は二本、その前方には
艦のシンボルでもあるクローバーが描かれています。
正式なエンブレムはクローバーの中に艦影が浮かんでいるというもの。
ボストンのバトルシップコーブに展示されているJFKの兄の名前を冠した駆逐艦、
「ジョセフ・P・ケネディJr.」にもクローバーが描かれており、
これは
「クローバーではなくシャムロックと呼ぶケネディ家の印」
とその見学報告の際にここで書いたことがあります。
そのとき、セントパトリックデーというアイルランド系移民の祭りが
緑色とシャムロックで埋め尽くされること、ケネディ家が
アイルランド移民の子孫であることからこのマークが選ばれた、
ということも書きましたが、当駆逐艦の命名元となった5人兄弟の
「サリヴァン」という家名は典型的なアイリッシュを表します。
サリヴァン家の本国でのもともとの名前は「オサリヴァン(O' Sullivan)」で、
彼らもまた他の一部の移民のようにアメリカに来てから名前を一部変更したのでしょう。
彼らがアイリッシュ系であることに敬意を払い、その名を冠した艦には
そのルーツを象徴するシャムロックがあしらわれたのだと思われます。
なお、エンブレムにある言葉、
We Stick Together!
は、「我々は堅く結ばれている」「俺たちの絆は強い」「ガッチリ行こうぜ」
「我々はいつも一緒」「俺たちズッ友だぜ」という感じでしょうか。
つまりサリヴァン兄弟の絆の強さを受け継ぎ、強いチームワークで戦うぞ、
という意味が込められたモットーなのです。
ちなみに、このモットーは現在就役中であるミサイル駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」
DDG-68にもそっくりそのまま受け継がれています。
エンブレムは変更されていますが、中央にシャムロックがあしらわれているのに注意。
並んで係留されている「リトル・ロック」の構造物が映り込んでいるので、
「ザ・サリヴァンズ」の構造物は右端のレーダー塔となります。
艦橋の上部に備えられているのはボフォース40m単装機関砲と思われます。
現役時代には5基ありましたが、展示艦になってからは2基だけです。
舷側にはエリコンFF20ミリ機関砲が現役の姿のままに備えられています。
この2基は比較的近いところ、岸壁から見えるところにあります。
本来は7基装備されていたそうですが、展示艦にはこの2基だけで、
左舷側にあったものは取り外されているということです。
構造物の壁には歴史的ランドマークに指定されたことを表す
このようなプラーク(記念板)が設置されていました。
「ザ・サリヴァンズ」を歴史的遺跡に指定したのは、
「United States Department of the interior」
(インテリアデパートメントって何、と思ったら内務省だった)
の、国立公園管理局(NPC)であり、指定は1986年であると書かれています。
赤文字で「走るな」。
これは博物艦では超当たり前ですが、もちろん現役時代にはなかった注意書きです。
そして、最近付け足された警告として、
「立ち入り禁止」船はビデオで監視されています
とあります。
博物館として公開されていた頃はラッタルが下されていたので、
深夜誰もいない時に忍び込もうと思えばできた、ということでもあります。
その上にある金属プレートにあるのは現役時代のものです。
REPLENISHMENT AT SEA GEAR
FITTING STATIC TEST LOAD
HIGHLINE PADEYE 50,000 LBS.
MESSENGER LINE PADEYE 15,000 LBS
TESTED PHILA.NAV. SHIPYD
DATE OF TEST 9 27 54
デッキに補給作業のために設置されたハイラインやメッセンジャーライン、
(鳥籠みたいなのに人を乗せて別の艦に送るあれ)などのギアを
追加するにあたって、54年9月27日にテストを行ったという
フィラデルフィア海軍工廠の「お墨付き札」のようです。
「ザ・サリヴァンズ」は前回も書いたようにパトナム(Putnam, DD-537)として
サンフランシスコのベスレヘム造船で建造されているのですが、
この時は大西洋に向かう前でニューポートを母港としていたため、
フィラデルフィアで装備を増設したということかもしれません。
防衛徽章については当方全くこれを解読することはできないのですが、
右下に見えている韓国の国旗のようなものは、
「ザ・サリヴァンズ」が朝鮮戦争に参加した印であるのがわかります。
白地の「E」は「バトルE」受賞の印で、斜め線が6本書き込まれているのは、
毎年のようにこれを獲得していたという証拠になります。
バトルEは武器、戦術、作戦遂行に対する最高評価賞です。
この駆逐艦の場合、その艦生命のほとんどを実戦に投じており、
全ての評価はその戦闘結果に対して与えられたということになります。
あ
駆逐艦「ザ・サリヴァンズ」の名は、そもそも日本軍の攻撃によって亡くなった
サリヴァン家の5兄弟の記憶を後世に残すためにつけられたものなので、
その存在意義というか最大にして究極の目的が「彼らの復讐を果たす」ことにあるのは、
もう動かしようもない事実であるわけです。
その結果、ブリッジには大々的にこんなマークがあるわけだ。
アメリカは日本と戦争していたので、当然ながらその戦跡ではイヤでも
このようなものを目にせざるをえないわけで・・・もっとも、
最近は耐性がついてきましたが、昔は潜水艦の発射チューブに描かれた
日の丸を見ただけで心拍数が上がったものですよ。
そのころのわたし「ザ・サリヴァンズ」のこのずらずら並ぶ海軍旗を見たら、
胸がドキドキくらいですんだかどうか・・。
旭日旗には航空機と陸地攻撃をわけるためのイラストが添えられています。
それでは、「ザ・サリヴァンズ」の対日戦をこの戦績を踏まえてまとめておきましょう。
1944年
トラック島
シェイクダウンクルーズ(慣熟航行)ののち、「ザ・サリヴァンズ」は
他の駆逐艦とともに真珠湾に到着、そこからマーシャル諸島に向かいました。
クェゼリン環礁での攻撃に続き、第58機動部隊の一員として、
「エセックス」「イントレピッド」「キャボット」とともに
彼女はトラック島の日本軍基地に対する攻撃を行いました。
基地攻撃マーク2/1(全2機のうち1機め)
トラック島への攻撃は日本軍にとっての真珠湾であった、という人もいるように、
「ザ・サリヴァンズ」艦長はこのときの攻撃について、
「いかなる種類の敵の反撃にも遭遇しなかった。
最初の攻撃は彼らにとって完全な驚きであったことを示している」
と書き残しています。
ハワイでの艦隊修理後、再び彼女はトラック島空襲に参加しますが、
このとき低空飛行で接近してきた敵機に5インチ主砲と40mm連装機銃で迎撃し、
そのうち2機を対空砲火で撃墜、1機は炎上しながら海面に墜落しました。
航空機マーク3/8(全8機のうち3機)
4月下旬、トラックの日本軍基地での空爆の支援に参加。
このとき低空飛行による空爆を試みた日本機を、「ザ・サリヴァンズ」は
40mm連装中と全ての5インチ砲で迎撃し、その結果、3機を撃墜しました。
航空機マーク6/ 8
1944年6月6日、サイパン、テニアン、グアム島攻撃の空母の護衛の際、
「ザ・サリヴァンズ」のレーダーが捉えた敵機を地上部隊が撃墜。
特筆しておきたいのは、このとき「ザ・サリヴァンズ」は
撃沈された日本の民間商船の乗組員の救助を行い、捕虜として彼らを
USS「インディアナポリス」(CA-35)に移送していることです。
このころ、対空戦闘によって「彗星」を撃墜しました。
航空機マーク7/8
フィリピン海戦、硫黄島、台湾
硫黄島では西岸目標を艦砲射撃、駐機していた一式陸攻などを破壊しました。
基地攻撃マーク2/2
このころ、「ザ・サリヴァンズ」は補給作業中に戦艦「マサチューセッツ」
(BB-59)=見学済み=と波に煽られて衝突事故を起こし、この修理中、
大嵐に見舞われまたしても流されて「ウールマン」DD-687と衝突。
修理後台湾と沖縄を空襲する空母の護衛任務で遭遇した航空戦で、
6時間、約50 – 60機の日本軍機の空襲に見舞われた「ザ・サリヴァンズ」は
日没後右舷から低空で接近してきた一式陸攻始め敵機5機の撃破に成功。
この空襲は夜間に及び、日本機はチャフを撒きながら照明弾を投下、
これに対し米艦隊が展開した煙幕の中、戦いは行われました。
この結果、重巡「キャンベラ」「ヒューストン」が雷撃で損傷しています。
損傷した両艦の護衛中、銀河1機を撃墜。
航空機マーク8/8
10月20日、日本側の空襲を受け、一式戦闘機1機撃墜。
航空機マーク9/8??
11月25日、対空戦闘で1機撃墜。
航空機マーク10/8??
12月18日コブラ台風に襲われるも、煙突のシャムロックのおかげで被害なし。
1945年 硫黄島、沖縄、本土攻撃東京、その他本土空襲の任務に参加。
硫黄島地上目標を攻撃。
海戦で損傷した「ハルゼー・パウエル」護衛中接近する銀河を撃墜。
航空機マーク11/8??
沖縄攻撃中同行の「バンカー・ヒル」に特攻機が突入し大炎上。
破壊の酷い区画から炎に追い立てられた166名の乗員を救出しました。
別の日、九州を空襲中、特攻機の攻撃を受け、1機を撃墜。
航空機マーク12/8??
これが第二次世界大戦最後の戦闘となったわけですが、
カウントしていくと、ここにある旭日旗の数を4機もオーバーしています。
旭日旗を12も描くのは大変だったので、省略したとか・・まさかね?
デッキを後方に歩いてくると、「リトル・ロック」と並んだ
「ザ・サリヴァンズ」の曲線を帯びたシェイプの艦尾を眺める位置にきます。
デッキは気候が良いとのんびり艦を愛でながら憩えることができ、
そんな観光客のために季節にはプランターに花が植えられます。
これは爆雷投下のためのラックです。
左側のカバーをかけてあるものはエリコン銃だと思うのですが・・。
後部甲板には5インチ単装砲が2基高低に配置されています。
現役時には5基装備していましたが、展示艦になってからは前後2基ずつ計4基です。
兵装はこの他ヘッジホッグ対戦迫撃砲があるはずですが、外からはわかりません。
朝鮮戦争の時「ザ・サリヴァンズ」は横須賀を根拠として
そこから海上封鎖や地上攻撃任務に出撃しています。
その戦闘中、彼女は雨霰と地上砲撃を受けましたが全く被害はありませんでした。
二つの戦争を通じて、味方艦との衝突はあっても、敵の攻撃を全く受けず、
生き残ったことを、乗員たちはマジで幸運のクローバーのおかげと思ったに違いありません。
最後に、命名のもとになったサリヴァン家関係の話をもう少ししておきます。
亡くなった5人兄弟のうち、五男のアルは20歳にもかかわらず結婚していて、
しかも息子がいました。
彼は長じて海軍に入隊し、祖母が進水を行ったUSS「ザ・サリヴァンズ」の乗員となっています。
そして二代目となる同名のミサイル駆逐艦の進水を執り行ったのは彼の娘、つまり
アルの孫にあたるケリー・アン・サリヴァン・ローレンでした。
また、なぜサリヴァン兄弟が全員海軍に入隊したのか、
その本当の理由が次のことからわかりました。
彼ら男兄弟には一人だけジェヌビエーブという姉妹がいたのですが、
彼女は長兄、次兄と同時期に海軍入隊してWAVEとして真珠湾基地に勤務しており、
職場恋愛で水兵ビル・ボールと付き合っていました。
そして真珠湾攻撃発生。
USS「アリゾナ」勤務であったビルは、このとき戦死します。
サリヴァン家の男たちが全員海軍に入隊したのは、愛する姉妹、
ジェヌビエーブと彼女の恋人の復讐のために日本と戦う決意をしたからでした。
彼らの名前をつけられた「ザ・サリヴァンズ」は兄弟の意思もまた受け継ぎ、
日本に対し十分と言えるほどの復讐を果たして、戦争を終えました。
そして、アメリカが新たな敵に立ち向かうことになったとき、
彼女が向かったのは、かつての敵国である日本だったのです。
彼女が横須賀を根拠地としていた時、基地にある国防省管轄の小学校には
サリヴァン兄弟に敬意を表してその名前が付けられることになりました。
「サリヴァンズ・エレメンタリー・スクール」
Sullivans elementary school
は、今でも第七艦隊関係者の子弟が通う基地内の小学校として存在しています。
続く。