ビリー・ミッチェルについては、第一次世界大戦の航空について
述べたスミソニアン博物館の展示紹介の時に
「航空の(ひとり)十字軍」
と勝手にキャッチフレーズを与えてお話ししたことがありますが、
先日終了した「海軍航空の黄金時代」のコーナーに、バランス上当然ですが
陸軍航空のパイオニアも紹介されていました。
何度も取り上げてもうたくさん、という方もおられるかもしれませんが、
スミソニアンがこのようにこの人を何回も紹介しているのに倣い、
当ブログも違ったアプローチでミッチェルを語ってみることにします。
過去何回もこの人物を扱ううち、陸軍航空とその後の軍航空を語るのに、
この人物を語らねば何も始まらない、ということがはっきりしてきました。
彼は一言で言うと「空軍の父」ということになるのですが、
彼自身は死後そう呼ばれること渇望しつつも、そうなる前に亡くなっています。
ピート・ミッチェルのことを「闘う愚か者」と言ったのはハルゼーでしたが、
生前の彼は、独立空軍の創設のためにたった一人で当時の航空不要論、
大艦巨砲主義に立ち向かう愚か者と見なされていました。
その姿は、まるで風車と闘うドン・キホーテのように当時の人々には見えたことでしょう。
【第一次世界大戦後】
1918年11月11日、第一次世界大戦が終わりました。
陸軍の航空サービスは、戦闘の時代から、平和な時代の
「何か別のもの」へと変わっていくことになりました。
エアレース、記録挑戦のための飛行、そして航空ショー。
それらはどれもエキサイティングで一般人の刺激に訴えるもので、
陸軍のパイロットたちもその分野で活動を行っていました。
しかしその中で陸軍のコントロールから独立した空軍を創設しようとする努力、
戦略的爆撃の教義の開発、そして重爆撃機の模索は、次の戦争までの20年間という
激動の期間、軍にとって最重要課題となっていました。
「ミッチェル時代 The Mitchell Era 1919−1925」
ウィリアム・レンドラム「ビリー」・ミッチェル
William Rendrum "Billy" Mitchell 1879-1936
1918年 陸軍第1航空サービス AEF司令に
1921年 第一次世界大戦で捕獲したドイツ軍艦を爆撃で沈没させる実験を行う
冒頭のスミソニアン制作による絵をみていただければ、ミッチェルの右側に
爆撃実験で沈んだドイツ戦艦「オストフリースラント」の姿が描かれています。
この実験については当ブログでもう一度お話ししていますので、
今回はビリー・ミッチェルの前半生から始めたいと思います。
1917年 アメリカ陸軍将校として初めて敵線を超える
名誉メダルを贈られる
独立空軍の設立を提案におけるパイオニア
冒頭絵によるミッチェルの説明はこうなっています。
【初期の人生〜少佐】
裕福なウィスコンシン州上院議員の父ジョンと妻のハリエットの間に
1879年生を受けたミッチェルは、ミルウォーキー郊外にある邸宅で育ちました。
生まれたのは両親が滞在していたフランスのニースだった、というのが
家庭の並なみならぬ裕福さをうかがわせます。
彼の祖父はスコットランド人で、 ミルウォーキーロード鉄道とマリン銀行の創始者。
街の所々に祖父の名前があるというお家柄です。
ミッチェルは、ジョージワシントン大学を卒業し、米西戦争が始まると
18歳でウィスコンシンの歩兵連隊に民間人として入隊し、その後
米陸軍信号隊に加わっています。
戦後も彼は陸軍に留まり、信号部隊の副官として ワシントンーアラスカ間の
軍用ケーブルおよび電信システム (WAMCATS)の建設を監督しました。
この頃、彼は将来の戦争はは地上ではなく空中で起こると予測しています。
そして同時期にライト兄弟の飛行デモを観て感銘を受けた彼は、
すぐさまカーティス航空学校で飛行レッスンを受けました。
このときのレッスンは本格的なものではなかったようです。
1912年3月、 彼は32歳と最年少で参謀本部の21名のうちの一人に任命されます。
そして日露戦争の戦場を見学し、こう結論付けました。
アメリカと日本はいつか干戈を交える日がくるだろう。
これは彼だけが慧眼だったために思いついたことではありません。
つまり、世界の、特に支配側の国にとって「遅れてきた脅威」である日本を
叩き潰す未来は、日露戦争に勝利した瞬間に決まっていたということなのです。
翌年1913年、彼は カーティス航空学校でプライベートレッスンを受けました。
当時彼の年齢(30代)と階級(大尉)は飛行訓練を法律で禁止されていたため、
現在で350万円の費用を彼は自費で払いました。
ところで彼の最初の結婚は無残な失敗に終わっています。
24歳で結婚した最初の妻、キャロラインとの結婚生活は、
彼が大量に飲酒し不安定な精神状態であったことから破局しました。
キャロライン、彼女の弁護士、伝記作家は全てミッチェルに責任を負わせ、
彼は子供の親権を取られ多額の慰謝料を払うことになります。
ちなみに妻が引き取った子供たちは、彼が亡くなった時
葬式に誰一人顔を見せなかったということです。
【第一次世界大戦】
アメリカが参戦することが決まった時、ミッチェルはちょうどヨーロッパにおり、
パリに到着するとイギリスおよびフランスの航空指導者と連携をとって
戦略を練り航空機を研究する本拠地を設置しました。
4月24日、彼はアメリカ人将校として初めてドイツの防御ラインを
飛行機で飛び、それが彼を一躍有名にします。
そこで航空隊司令として十分な経験を積んだミッチェルは、大胆で華やか、
かつ精力的なリーダーとしての評価を急速に獲得していくことになります。
1917年5月に中佐に昇進し、5ヶ月後には 一時大佐に昇格するという出世ぶりでした。
そして1918年9月、彼は歴史上初めてとされる空軍の攻勢、
「サンミッシェルの戦い」の航空作戦で総勢1500機の英・仏・伊軍の指揮を執り、
その結果一時的に 准将に昇格し、在仏アメリカ空軍部隊の指揮官になりました。
また、彼自身戦闘飛行士として彼の親友であるエディ・リッケンバッカーと並び
ヨーロッパで最も有名なアメリカ人といわれていました。
功労十字 、 功労勲章 、など多数の勲章を授与され、パイロットとして、
そして戦闘指揮官としてこの時が彼の絶頂期だったかもしれません。
しかし、wikiにはその華やかな経歴の中に気になる一言が添えられています。
「優れたリーダーシップと優れた戦闘記録にもかかわらず、
彼はフランスでの18か月の任務中および任務後に上司の多くを遠ざけた」
「海軍との相克」
1919年、ミッチェルはアメリカに戻ってきました。
ヨーロッパで得た名声から、彼は戦後航空局長に抜擢されるものと
誰もが思っていたのですが、実際にその任についたのは、やはりフランス帰りの
砲兵師団指揮官、チャールズ・メノヘール少将でした。
この人事は、彼の同級生だったパーシングの口利きだったと言う話があります。
その後、陸軍の再編成によって航空サービスは歩兵、砲兵に次ぐ戦闘隊として
認められることになり、ミッチェルは准将としての航空部長に昇任します。
ミッチェルはこの頃、第一次世界大戦の経験から、
「征服に野心を持っている普通の国が将来の戦争で航空に力を注いだら、
それはかつての国が大陸を支配したよりも簡単に全世界を支配できるだろう」
として航空力を高評価していました。
彼は近い将来、空軍が主力の戦争が起こり、その時には
陸軍と海軍と同レベルの規模でありながら独立した空軍が必要となる、
という強い信念を持ってヨーロッパから帰国してきました。
そして、考えを同じくする政治家への働きかけを行うようになります。
ミッチェルの統合案は海軍の現場の飛行士には受け入れられませんでした。
彼らにとって海上飛行の要件を理解していない陸軍出身飛行士は
邪魔以外の何者でもないという理由です。
ミッチェルはそんな海軍に向かって水上艦隊は陳腐化が進んでいるため、
海軍航空を開発するようにと提言するついでに、
「飛行機は適切な爆弾によって戦艦を沈めることができる」
「陸海空協力による国防組織はこれから不可欠のものになる」
と提言しましたが、海軍からの反応は冷たいものでした。
特に彼を強く公に非難していたのはルーズベルトだったそうです。
そこで彼は、自論を証明するために実験を行うことを表明しました。
それがあのプロジェクトB、「オストフリートラント」爆撃実験です。
【プロジェクトBののち】
この実験については前回にも詳しく触れましたので、
そのものの経過については割愛しますが、実験の後、しばらくの間
新聞の風刺漫画はネタに困らなかったと言われています。
そのうちの一つをご覧ください。
一コマ目;
海軍軍人が「USバトルシップ」の艦上に立って実験を指差し、
「固定されている上全く防御のない軍艦。
なのにこれを沈めるのに爆撃機はどれくらい時間をかけましたか?」
二コマ目;
爆撃機の上から沈んだ軍艦を指差し、陸軍パイロットが
「はい。しかし、我々はとにかく沈めましたよ?そうでしょう?」
ミッチェルは戦時条件での実験を強調していましたが、実際は
静的な条件下で爆撃が行われた上、海軍の調査によると
「オストフリースラント」は爆弾による上部の損傷はほとんどなく、
艦に搭載された即効型のダメコン装備(どういうこと?)によって引き起こされた
浸水が進むことによって沈没していたことがわかりました。
しかし、ミッチェルは同等の実験をその後繰り返し、持論の補強を行ったため、
海軍はこれらの
「海軍の脆弱さを証明しようとする卑怯なデモンストレーション」
に激怒し、ミッチェルの主張を合同委員会ぐるみで潰しにかかりました。
メノヘールもカンカンになってミッチェルを辞任させようとするに至って、
この混乱をなんとか治めるために配置されたのが、
メイソン・パトリック少将
でした。
パトリック(左)とミッチェル
このパトリック少将はじつに人間ができているというか、意欲的というか、
偉くなってから航空サービスの司令官になってしまったので、
59歳にして飛行機の操縦をゼロから始め、免許をとったという人です。
60の手習いパイロット
そのせいで航空にも理解があり、ミッチェルの主張にも同情的でした。
しかしミッチェルを抑えるためにメノヘールの後任にされたといってもいい彼は、
当然彼に向かって
「わたしは君の専門知識を尊重するが、全ての決定は私が行う」
と言うことを宣言せねばなりませんでした。
その後彼はパトリックの指示によってウェストバージニアに派遣され、そこで
紛争を制圧する際爆撃機で催涙ガスを落とし、ここでもやはり
航空機の有用性をアピールして「悦に入っていた」ということです。
【ミッチェル、真珠湾攻撃を予測】
恐るべき事実ですが、日本との戦争が起こることを断言していたミッチェルは、
さらにハワイに赴いた時、
「日本軍のパールハーバーへの航空攻撃を含め、将来の戦争を予測」
した300ページ以上にわたるレポートを作成しています。
実際と違っていた点があるとすれば、彼は日本軍のハワイへの航空攻撃は
太平洋の島々から陸上飛行機によって行われるとしていたことでした。
当時空母は最初の離着艦実験を終えて10年くらい経っていたのに、
ミッチェルともあろうものがこの動きを全く知らなかったことになります。
このことは、あまりにも彼が海軍と衝突しすぎたせいで、公平かつ冷静な目が曇り、
海軍の船が運用される可能性を個人的嫌悪から排除したからではなかったか、
とわたしは考えますが、いかがなものでしょうか。
【軍法会議】
さて、あまりにも海軍はもちろん陸軍内でも摩擦を起こしすぎたミッチェルは
准将から大佐に戻り、陸軍でも重要でない閑職に回され、誰が見ても
懲罰と左遷であるとわかる人事に甘んじることになります。
そんな折、以前も当ブログでお話しした飛行船「シェナンドー」が墜落します。
黙っていればいいものを、ミッチェル、ここぞと上級指導者を非難する声明を
「国防組織のほとんど反逆ともいえる管理の結果である」
などと激しい言葉を使い発表したため、告発されてしまうのでした。
この裁判についても繰り返しになるので割愛しますが、
付け足しておくと、裁判官を務めた13人の軍人誰一人として航空経験はなく、
ハップ・アーノルドやアイラ・エーカーなどの擁護的証言にもかかわらず、
かれは全ての告発に対して有罪、という判決を受けることになります。
その結果退役し、一般人になってからも彼は空軍創立を説いて歩きますが、
かつて自分の敵だったルーズベルトの選挙を空軍創立に役立てようとして
彼と会い、一方的にいい感触を得たと感じていました。
しかし、ルーズベルトにとってミッチェルは過去の人にすぎず、
ルーズベルト政権が誕生した暁には空軍次官補か国防長官に任命されるかも、
というミッチェルの期待は実現することはありませんでした。
【進歩の時代 1925−1935】
しかしながらミッチェルが生きている間に、航空は少しずつ変わりました。
まず、1926年、「エアサービス」という名前は「航空部隊」と代わり、
航空というものが補助的な地位から攻撃力を持つ部隊と認識され始めたのです。
見にくい写真ですが、手前の飛行機に?が描かれているのにご注目ください。
この頃、ミッチェルが航空機を使ってあらゆる記録挑戦を行うことを
航空そのもののために奨励していましたが、その一環として
空中給油を利用して滞空記録に挑戦するという試みがありました。
フォッカーC-2「クェスチョンマーク号」は、機体に?を描いています。
それは
「どれほどこの飛行機は滞空できるのか?」
という質問を意味していました。
次の戦争までの期間、陸軍航空士はこのような記録に挑戦し、
航空の可能性を高めていったのです。
ミッチェルは「戦時条件」での空襲に対し戦艦が脆弱である、
ということを証明するために実験を繰り返しましたが、そのことは
彼の死後に証明されることになります。
第二次世界大戦中 、多くの軍艦は空爆のみで沈没しました。
「コンテ・ディ・カブール 」「 アリゾナ 、」「ユタ 」「 オクラホマ 」
「プリンス・オブ・ウェールズ 」「 レパルス 」「 ローマ」「武蔵」
「ティルピッツ 」「大和」「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン 」
「レムノス 」「 キルキス」「マラット」「伊勢」「日向」・・・・。
彼女らすべて戦闘中投下された爆弾、空中投下の魚雷、航空機から発射された
ミサイルによって沈没しており、いくつかは係留中奇襲攻撃によって破壊されました。
世界の海軍は、ミッチェルの実験、「オストフリーランド」の教訓を
すぐさま自軍の将来の攻撃の姿に取り入れたということになるのです。
1941年に生まれたB-25爆撃機は、 彼の名前に因み「ミッチェル」と名付けられました。
アメリカ軍用機の歴史で機体に人名が命名された唯一の例となります。
続く。