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戦略爆撃 カール・スパーツとアイラ・イーカー〜陸軍航空のパイオニア

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引き続き、スミソニアン博物館の陸軍航空のパイオニアという展示から
今日は戦略爆撃を指揮した二人の軍人をご紹介したいと思いますが、
その前に、皆様は映画「メンフィス・ベル」をご覧になったことがあるでしょうか。

■ ピクルス桶=細密攻撃

同名のアメリカ軍爆撃機を扱った小説とドキュメンタリーをベースに、
1990年台に制作されたイギリス映画で、わたしなど歌手のハリー・コニックJr.が出演し
劇中「ダニーボーイ」を歌うシーン観たさに録画を手に入れたものです。

(当時は今のように映画が簡単に手に入る時代ではなかったので)

劇中、これが終われば搭乗員全員国に帰れるという25回目の爆撃ミッションに出撃した
爆撃機「メンフィス・ベル」が、工場を昼間攻撃するために
ドイツ上空に差し掛かったとき、爆撃予定地に雲がかかっていたので、
マシュー・モディーン演じる機長のデニス・ディアボーン大尉が、
爆弾投下命令をなかなか出すことができず、

「もし細密攻撃に失敗したら大勢の無実の人々を殺すことになる」

というと、副機長のルーク・シンクレア中尉(沙婆ではライフガードをしていた)が、

「それがなんだ?どうせみんなナチじゃないか!」

と適当に落として一刻も早くここを離れるように機長を急かすというシーンがあります。

このとき、デニス大尉は、

”Drop these bombs right in the pickle barrel ”

という言葉を使っているのですが、この「ピクルス桶」というのは
物のたとえとかではなく、割と正式な「極精密攻撃」という意味になります。

pickle barrel bombing

モデルとなった実際の「メンフィス・ベル」はアメリカ陸軍第8空軍の

B-17F-10-BOフライングフォートレス爆撃機

で、ドイツ軍に対する戦略爆撃を昼間行う任務を担っていました。

 

■ 戦術爆撃と戦略爆撃の違い

第一次世界大戦から軍航空についてここで順を追ってお話しするうち、
戦略爆撃のなんたるかがようやく明確にわかってきたわたしですが、
ここでもう一度おさらいをしておきましょう。

まず、航空機によって行われる爆撃には、戦場で敵の部隊を攻撃する
「戦術爆撃」と、それ以外の「戦略爆撃」があります。

たとえて言えば、ミッドウェイ海戦のとき、日本軍が最初に
ミッドウェイ島を攻撃したのが典型的な戦術爆撃というわけです。

対して戦略爆撃をざっくり言うと、敵国本土に対する爆撃ということになります。
こちらは対象が敵国民とその施設であり、「戦略」=ストラテジックとは
つまり、非戦闘員の士気を失わせることによって結果的に終戦を早める、
というどこかで聞いたような理屈のことと思っていただければいいでしょう。

戦略爆撃をさらにその対象によって細分化すると

精密爆撃=工場、港、油田など軍的リソースを破壊する

都市爆撃(無差別爆撃)=敵国住民の住居地は商業地区を破壊する

に分けられます。

ドレスデン爆撃、東京大空襲、広島・長崎への原爆投下は後者であり、
「メンフィス・ベル」の第8空軍が行ったのが精密爆撃となります。

前者の目的は言わずもがなですが、後者の「国民の士気を喪失させる」は、
前にも書いたように、第一次世界大戦の時にイタリア軍の将校、
ジュリオ・ドゥーエなどが提唱して以来、ビリー・ミッチェルや
ハップ・アーノルドなどによって受け継がれてきた

「一見非人道的な爆撃をあえて行う理由」

となります。



ところで我が海軍は1941年12月8日真珠湾で軍基地を攻撃したわけですが、
どっこいその時は日米は開戦しておらず、もちろんハワイは戦場ではないので、
これは戦術爆撃と戦略爆撃ともカテゴリ分けすることはできません。

それではその仕返し?の意味で行われたドーリットルの東京爆撃はというと、
彼らは敵軍施設と工場などを狙う「細密爆撃」を目指していましたが、
行きがかり上あちこちで無差別攻撃を行うこととなり、そのせいで
捕虜になった搭乗員が裁判で有罪判決を受け、処刑されてしまいました。

この時の法廷は未必の故意として一般人殺害が予期される攻撃だったので、
国際法においては有罪である、という裁判結果を出したわけです。


しかしながら、戦争が進むに従って、アメリカでは国民の士気を喪失させれば
それだけ終戦が早められる、という超理論がいつの間にかスタンダードとなり、
むしろ「人道的な攻撃だ」とする理屈(屁理屈?)が罷り通るようになりました。

経緯を慮るに、これを主流にした張本人は、

「航空を支援任務に甘んじさせず第三の独立した軍にするべきだ」

とする航空軍独立派のビリー・ミッチェルであり、
イギリス空軍のトレンチャードではなかったかと思われます。

戦略爆撃は彼らに言わせると美点をそなえた画期的な発明だったのです。

 


今日ご紹介する二人はビリー・ミッチェルの正統な後継者であり、
どちらもが戦略爆撃に大きく関わった航空出身の指揮官です。

まず、このスミソニアンの似顔絵の人物は、

カール・アンドリュー・”トゥーイ”・スパーツ 
Carl Andrew 'Tooey' Spaatz1891−1974

まず、その説明に

前線パイロット 1918年

とありますね。

スパーツは戦闘機パイロットとして第一次世界大戦に参戦していましたが、
帰国命令を受け取ってから、ヴェルダン攻防戦が始まることを知りました。
彼は帰国を返上して前線パイロットに志願し3週間にわたる戦闘を続け、
その期間に多数の敵機と交戦し、3機を撃墜しています。

第一次世界大戦におけるパイロットの平均寿命と言うものを知っていれば、
彼の前線への志願は大変勇気と自信の要ることといえます。

このとき激しい航空戦を戦って燃料切れでかろうじて味方側に不時着し、
生き延びた彼は功労十字勲章を授与されると言う名誉を得ました。

Carl Spaatz.jpgスパーツ

イラストで彼の後ろに描かれている空中給油中の飛行機をご覧ください。
「?」のペイントされたこの飛行機は「クゥエスチョンマーク」号です。

彼は38歳で、後述のアイラ・イーカー大尉、エルウッド・ケサダ中尉とともに
空中給油を行いながら無着陸で対空時間に挑戦するプロジェクトに参加したのが
後の出世のきっかけとなったということになっていますが、
彼の後世の評価を見る限り、単に人のいない航空界だからパイオニアになれた、
ということだけでなく、たいへん能力のある人物だったようで、飛行の腕に加え、
作戦立案にかけてもキレる頭脳を持ち、指揮官として優秀でした。


戦後、アイゼンハワーは、オマー・ブラッドレーと彼の二人を

「勝利に最も貢献した二人のアメリカ将校」

と褒め称えたということです。

あくまで彼の周りにいる人限定なので、他にも貢献した人物はいたと思いますが・・。

 

これも前述しましたが、彼は、ビリー・ミッチェル大佐が海軍上層部を非難し、
軍法会議で訴えられた「ビリー・ミッチェル裁判」で、彼を擁護する証言を
アイラ・イーカー大尉、エルウッド・ケサダ中尉とともに行っています。

ミッチェル裁判は要するにメンツを潰された海軍による報復のようなもので、
第一次世界大戦で戦闘パイロットとして戦った彼やイーカーにしてみれば、
航空は決して海軍の支援のためにある補助ではなく独立した武力であり、
こんなご時世に偵察しかできない鈍重な飛行船などというものを
呑気に運用している海軍は(といったわけではありませんが、多分)
国家防衛に対して反逆的ですらある、というミッチェルの考えは
なんらおかしくない、という立場であったのでしょう。

 

第二次世界大戦開始後、第8空軍の司令官としてイギリスに渡ったスパーツは、
そこでドイツに対する戦略爆撃作戦を指揮することになります。

連合軍最高司令官アイゼンハワーの下にあって、友人同士でもある彼とは
何度も戦略問題で議論を行い、

「それだけで戦争を終わらせる航空作戦の”キメラ”は存在しない」

として、味方航空機に損害が出ているというイギリス軍の不満を退け、
あくまでも昼間の精密攻撃にこだわりました。

 

もちろんこれは「メンフィス・ベル」の機長が呟いたような
「一般市民への被害」を避けるのが目的だったわけがありません。
繰り返しますが、そこに「敵国民の生命に対する人道上の配慮」などは
かけらもなく、あるのは効率的な爆撃、そしてその先にある早い終戦だけです。

それが証拠に?ドイツ降伏後、スパーツは大将に昇進して太平洋戦線に転任、
広島、長崎への原子爆弾投下を含む日本全土への戦略爆撃を監督しています。

アイラ・クラレンス・イーカー 
Ira Clarence Eaker 1896ー1987

 Eakerを「エーカー」と書いている日本の媒体もあるようですが、
どちらかというと「イーカー」がいーかーと思ったのでそう記します。

いかにも強面なパイロットの似顔絵ですが、実際のイーカーも
なかなか一徹そうな面構えの将校です

冗談通じなさそう

こんな雰囲気ですが、ウェストポイント卒ではなく、教員養成大学から
予備将校として入隊し、陸軍在籍中にコロンビア大学で法律を学んだり
南カリフォルニア大学でジャーナリズムの学位をとるといった文系で、
退役後は軍事コラムを書いたり本を出版する仕事が多かったようです。

彼は滞空世界記録を樹立した例の「クェスチョンマーク」号では
機長として参加しており、5歳年上のスパーツが副機長でした。
この際年齢は関係なく、単に彼の方が飛行時間が多かったのかもしれません。

スパーツは指揮官として優れていましたが、イーカーは彼に比べると
現場、つまり飛行士としての功績が認められているといったところです。

さらにイラストのタイトルに

「ブラインド・フライトのパイオニア」

とありますが、これは彼が1930年、初めてとなるアメリカ大陸飛行を
完全に計器だけでおこなう計器飛行を達成したことからきています。

計器だけで大陸横断を試みるというチャレンジは、
有視界飛行が不可能になった場合の代替手段として有用となる
計器飛行の可能性を大きく広げるものであり、また
その後の操縦訓練に採用するための道筋をつけたといえるでしょう。

 

さて、第二次世界大戦では彼もまたヨーロッパで爆撃任務の指揮を執り、
昼間の細密攻撃にあくまでもこだわり続けました。

先ほども書いたようにイギリス軍は昼間攻撃は迎撃されやすく損害が多いとして
夜間の広範囲に対する爆撃を主張し、アメリカ軍にもそれを要求しました。
イーカーはその件についてチャーチルを説得し、
イギリス軍とアメリカ軍のこの件に対する意見の齟齬は、

「1ページのメモで”補完しあうことになった”」

と結論づけていますが、これはどう言うことかと言うと、

「もし王立空軍が夜間攻撃をこれからも続け、
アメリカ軍が日中爆撃を行うならば、
つまり彼らに降り注ぐ爆弾は一日中途切れることなく、
そうなれば悪魔ですら息つく間もなくなるでしょう」

こっちは構わず昼間やるので、互いに昼夜補完し合いましょう、
ということで話がついたようです。

ところでイーカーの英語版wikiには、彼が

「民間人の犠牲を最小限に押さえながら敵の能力を削ぐ攻撃」

を目指したように書かれていますが、この結果を見る限り、
こちらもそんな甘ちゃんな考えから日中に拘ったわけではなさそうですね。

 映画「メンフィス・ベル」では細密爆撃をあたかも人道を重んじる攻撃のように
表現していますが、これも所詮は戦後の価値観で補正されたフィクション、
実際はそんなものではなかったよ、というところです。

ただし、イーカーは軍事のリアリストであり、戦争遂行のために
冷徹に状況を判断していただけあって、攻撃に費用対効果で見合うだけの
戦略的価値があるか、そのバランスを考慮していたことは特筆するべきでしょう。

たとえば、ここでもヒトラーの略奪美術品についての項で話したことがある
モンテカッシーノの爆撃について、イーカーは、この地域への爆撃は
軍事目標として適当ではない、とみなして当初承認しなかったといいます。

後世の歴史家はイーカーの懐疑論は正しく、あまりに甚大な
人類の遺産を失ったモンテカッシーノの爆撃は、
はっきり連合軍の汚点だったと断じています。

ただし彼は陸上部隊の圧力に屈して最終的に作戦計画にサインしているので、
その「懐疑論」というのも、果たして人類の遺産と、ましてや一般人の生命に
配慮した結果だったのであろうか、とわたしは懐疑的に思っておりますが。

 

 

続く。

 

 

 


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