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◯将クレア・リー・シェンノート〜陸軍航空のパイオニア

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スミソニアン博物館の「陸軍航空のパイオニア」シリーズ、
最後の人物は、

クレア・リー・シェンノート
Clare Lee Chennalt 1893-1958

でした。

どうもわたしはこの人物、色々と個人的に好きになれないのですが(笑)
アメリカの航空界にとってパイオニアであることは間違いなさそうなので、
個人的な好悪はできるだけ控えつつ本稿を無事終了させようと思います。

まず、スミソニアンの紹介に描かれている絵の印象は、頑固で融通が効かず、
その分自他ともに規律に厳しそうな人物に見えます。

愛称で呼ばれるような人物ではなかったためAKAはありませんが、
ニックネームは唯一、

”Old Leatherface" オールドレザーフェイス

だったそうで、確かに細かいシワが無数に刻まれた愛想のない顔は、
使い込んだ皮っぽい、水分の全くなさそうな質感です。

 

名前の下にはこうあります。

戦闘機戦術のパイオニア

蒋介石の飛行隊のアドバイザー

後者は言わずと知れたフライングタイガースとして知られる志願飛行隊です。
前者の戦闘機戦術というのは、その指揮官として日本軍と戦うために
戦術を開発したほぼ最初の人物だったということかと思われます。

 

■ 曲技飛行チーム

以前彼の名前、「Chennault」がフランス系なので、正式な読み方は
「シェンノー」だったのではないか、と書いたことがあります。
その時にはちゃんと英語の文献をあたらなかったので想像に止まりましたが、
今回それは正しかったことがわかりました。

「クレア・リー」というファースト&ミドルネームが表す通り、
彼はフランス系アメリカ人で、名前の読み方も正しくは「シェンノー」ですが、
郷に入れば郷に従って、両親はアメリカ式に「シェンノート」と発音したそうです。

シェンノートは士官学校卒ではなく、ルイジアナ州立大学、しかも中退しています。
一応ROTCのトレーニングを受けた予備士官として第一次世界大戦に参戦しました。

そのとき正規の訓練ではなく、教官と親しくなって操縦できるようになったそうです。
その後航空部隊が発足した陸軍では初頭飛行訓練の責任者となりました。

「戦闘機戦術のパイオニア」

とされているのは、この追撃部門訓練教官の時代に

「防御的追撃の役割」

という論文をまとめたからでしょう。
これは、空戦を一対一ではなく二機1組で迎撃することを主張したものですが、
ただでさえ第一次世界大戦後の戦闘機不要論優勢の時代、この論文は
関係者からも嘲笑される結果となってしまいました。

 

1930年代には曲技飛行チームの一員として活動しました。

これまでお話ししてきたように、第一次世界大戦が終わってから
第二次世界大戦が始まるまでの20年間には、航空界では
記録挑戦、エアレース、そしてエアショーが盛んに行われました。

それにはカール・スパーツやアイラ・イーカー、ジミー・ドーリットルなど、
軍航空パイロットが航空発展のために奨励されて参加していたわけですが、
戦技を研究し磨くために軍航空部隊がアクロバットチームを結成し、
エアショーを行って一般にアピールするというシステムもこの頃生まれました。

記録挑戦もエアレースも昔のような形ではもう行われませんが、
今でも世界の空軍の多くが、広報と技術研究の精華を目的とした
アクロバット航空チームを持ち、一般にも親しまれています。

シェンノートが参加していたチームは「三銃士」”Three Musketeers”といい、
彼はチームを率いてナショナルエアレースにも参加しています。

のちに彼はメンバー替えしたチームに
「空中ブランコ3人組」”Three Men on the Flying Trapeze"
という名前をつけました。

アクロバットチームを「〇〇サーカス」という慣習は、
この頃に生まれたものと思われます。

「空飛ぶ空中ブランコ3人組」のころのシェンノート大尉。
この頃はまだ「レザーフェイス」ではありません。

 

■ 宋美齢との出会い

ところがシェンノート、1937年、40歳という中途半端な年齢で
陸軍を辞任せざるを得なくなります。

聴覚障害があり、慢性気管支炎持ちという健康上の問題に加え、
上とうまくいかずしょっちゅうぶつかっていたこと、そして
経歴も昇進に相応しいものではなかったことが全て原因となったためで、
彼は大尉の階級で軍を辞め、中国に向かいました。

そして、アクロバット飛行時代に声をかけられたという人脈を頼って、
中国空軍の飛行士を訓練するアメリカの民間人のグループに
飛行教官として採用されることになったのです。

契約は3ヶ月、月1000ドルという破格の給料が魅力だったからですが、
このことが彼の運命を大きく変えることになります。

中国軍の航空委員会を担当し、シェンノートの直属上司となったのが
あの宋美齢=マダム・チェンだったのです。

彼が中国に到着して2ヶ月後に日中戦争が勃発すると、宋美齢は
彼を蒋介石(チェン・カイシェク)に引き合わせ、主任顧問にしました。

陸軍をクビになった男が、ここでは空軍の最高責任者として
やりたいように腕を振えるようになったのですから、彼にすれば
宋美齢は幸運の女神のようなものです。

わたしがシェンノートという人物に嫌悪感を抱くのがまさにここで、
宋美齢という手練手管を生まれつき持って生まれてきたような女性に
持ち上げられて「出世」しただけの男、という印象は、
彼の後半生をいかに好意的に辿っても払拭することはできません。

中国空軍の組織と訓練を任されたシェンノートは、顧問として
アメリカを訪問する蒋介石に同行し、ボーイングB−314「カリフォルニアクリッパー」
に乗ってワシントンに「凱旋」を果たしました。

彼がそもそも中国へ行った経緯を思えば、さぞ晴れがましかったことでしょう。

 

■ フライング・タイガース

蒋介石はアメリカ商務長官との交渉で財政援助の約束を取り付け、
中国空軍のための航空機をはじめとする装備一式、
参加する志願者のために資金を引き出すことを、シェンノートらと
財務長官ヘンリー・モルゲンソーとの議論で取り決め、
中国の通貨を安させるための協定を結ぶことに成功しました。

このとき、戦争省とルーズベルト大統領本人から、P-40C戦闘機始め、
整備士航空用品を蒋介石に届ける約束を取り付けたのはシェンノートでした。

映画などでおなじみの、シャークマウスがペイントされることになる
ウォーホークが100梱包されてビルマに送られたのが1941年の春のことです。

シェンノートは300名のアメリカ人パイロットと地上員を募集し、
彼らはシェンノートの下で「フライングタイガース」として組織されました。

旅行者を装って入国してきたアメリカ人採用者たちの中には、
戦闘機経験者だった者も3分の1いましたが、ほとんどは爆撃機経験者で、
そもそも中国を救うという理想に燃えてやってきたのはごく一部でした。

 

しかし、結果的に彼らは圧倒的に優れていた日本軍に対し、
シェンノートの下でいわゆるひとつの

「クラック・ファイティングユニット」
(”クラック”は軍隊や戦隊に『イケてる』という意味で用いる言葉)

に発展し、アジアにおけるアメリカの軍事力の象徴となったのでした。

■ 日本爆撃計画

以前も書いたことがありますが、真珠湾攻撃の1年も前に、シェンノートは
日本軍基地に奇襲攻撃をかけるという計画を立てたことがあります。

今や彼のものといってもいいフライングタイガースは、パイロットもスタッフも
全てアメリカ人でしたが、中国空軍のマークを背負って飛んでいました。

彼はフライングタイガースを使えば「片手で」勝利を得られる、と主張しましたが、
アメリカ陸軍は日本に近い滑走路や基地を用意できない状態で
その攻撃を成功させるのは無理だとして反対しました。
そもそも陸軍はシェンノートという人物を戦闘指揮官として全く信用していなかったのです。

軍事のプロの助言にもかかわらず、文民指導者、モーゲンソーやルーズベルトは

「たった数人のアメリカ人男性と飛行機のおかげで中国が日本との戦争に勝つ」

という素敵な考えにすっかり魅了されてしまい、実現させようと、
その計画のための爆撃機と乗組員を送り込みますが、大変悲しいことに
その計画より先に真珠湾攻撃が起こってしまいました。

たとえ間に合っていたとしても、陸軍のいうとおり中国側の基地から
日本に到達する術がなかったので、この考えは実行不可能でした。

■ アメリカの「最初の軍事指導者」

本日の項のサブタイトルに「陸軍航空の」と付けたのは、厳密には
間違いであったことはもうおわかりいただけたでしょう。

シェンノートは陸軍の正規のコースからは脱落して、民間人とし
中国に渡り、蒋介石に雇われた傭兵として出世した人間です。

しかし、中国空軍という名の実質アメリカ人傭兵部隊を率いて
真珠湾より前に日本軍と戦い、それなりの成果を挙げたことにより、
アメリカ政府は彼を公的に

「アメリカ初の軍事指導者」

と認めることになりました。

得意の絶頂期

これはわたしの予想ですが、ルーズベルトやモーゲンソーがこれを推し、
アメリカ陸軍は面白くないと思いつつ渋々賛同したのではないでしょうか。

シェンノートは大佐でいったんいったん陸軍を退役していたので、
もう一度大佐の階級で再入隊し、のちに中将にまでなっています。

フライングタイガースは1942年、正式にアメリカ陸軍航空部隊に編入されました。

陸軍上層部は彼を嫌っていたに違いない、と思った理由の一つに、
シェンノートとジョセフ・スティルウェルの激しい確執があります。

スティルウェルも陸軍軍人として蒋介石の参謀に充てられたわけですが、
蒋介石とは援蒋ルートの考え方の違いから互いを憎み合い、
蒋介石は彼を解任しています。

スティルウェルはルーズベルトなどと違い、蒋介石と宋美齢の本質、
つまり能力のなさや金権体質、ひいては中国国民党軍の腐敗や弱小ぶり、
こののちの敗北までを見抜いていたわけですが、そこでつまり
蒋介石側だったシェンノートとぶつかり合ったのは当然でしょう。

二人が憎み合ったのはニューイングランドのピューリタンだった
誇り高きヤンキー、スティルウェルと、人間の愚かさを自然に受け入れる
南部紳士であるシェンノートという強烈なパーソナリティによるものである、
とある作家が述べたことがあります。

たとえば、シェンノートはパイロットたち=彼の「ボーイズ」のために
桂林に慰安所を開き、英語を話せる女性を雇い入れて管理することを
規則関係なしに必要不可欠であるという考え方だったのですが、
スティルウェルは「シェンノートの慰安所」のことを聞いて激怒し、
すぐにそれを辞めさせ、

「米陸軍航空隊の将校がそのような施設を開くなど恥ずべきこと」

として批難しました。

日本の地上部隊はその後シェンノートの前進基地をゆっくりと、
しかし確実に占領してゆき、1945年、第14空軍の指揮官は
シェンノートからストラテマイヤー中将に置き換えられました。

■ 結婚

わたしが個人的にシェンノートを好きになれないのは、
出世のきっかけが宋美齢という女性の引立てであったことと、
10人も子供をなした糟糠の妻を捨てて、33歳も歳下の中国人ジャーナリストと
57歳で結婚したということで、これはもうなんというか
「生理的嫌悪」とでもいうしかない感覚です。

二人の間にどんな事情があったかは他人には決してわからないとはいえ、
この写真を見て微笑ましく思う気持ちがみじんも湧かないのはどういうわけでしょう。

ちなみにシェンノートの最初の妻は彼の高校時代の同級生で、
再婚相手のチェン・シャンメイ=アンナの最初の夫は肺癌で病死しています。

ジャーナリストといいながら、彼女の本業は蒋介石のロビイストで、
一説には彼女をシェンノートに引き合わせたのはほかならない
宋美齢(つまり政略的なマッチンング)だったという話もあります。

シェンノートは彼女と結婚して10年で他界したわけですが、彼女は
夫の名前をフルに利用し、(「日本の魔の手から中国を救った恩人」として)
アメリカ国内では共産党と民主党、国際的にはアメリカと中国共産党の関係構築に
表に裏に奔走した「大物ナンバーワンロビイスト」となりました。

台湾の総統選挙で勝利した当時の馬英九を表敬訪問するアンナ・シェンノート。

このバーさん、抗日戦争記念館などの発起人に名前もあるというし、
シェンノートが好きになれないのは、どうやらわたしが日本人で
この反日をライフワークにしていた女性に対する反発が大いにありそうです。

クレア・リー・シェンノートは1958年、67歳で、アンナ・シェンノートは
94歳まで暗躍を続け、1918年に亡くなりました。

なぜか彼女は2歳サバを読んで年齢を広報していたため、
死去の際には92歳という報道がいくつかのメディアでは流れたそうです。

 

さて、タイトルの◯の中に、わたしは最初ある一字を入れていたのですが、
もしかしてこの人を高く評価する向きもあるのかと思い直してあえて空白にしました。

智、勇、愚、凡、痴、恥、狡

などの中からなんなりとお好きな字を選んでいただければと思います(投げやり)

 

 

 


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