「赤城」の慰霊碑のあと、大講堂の来客用入り口の方向に案内されました。
「足元に気をつけてください」
注意を受けるまでもなく、道でもなんでもない坂の斜面を
所々にでている岩を避けながら歩いていくのですが、
うっかりしていると砂で滑りそうです。
「ちょっと面白いものをお見せしましょう」
連れてきていただいたのは、大講堂の画面上に見えている池の前でした。
「あれ、おわかりですか。日本列島があります」
いわれてみれば日本列島に見える形が海に見立てた池に確認できます。
「四国がないような・・・・」
「四国ありますよ」
あー、あったあった。
小さくて草が生えていないので、見つけられませんでした。
いつこんなものができたのかはわかりませんが、
経年劣化でセメントの日本列島のあちこちに亀裂が入っています。
縁起を担ぐ向きには実に不穏な状態に見えてしまったりするでしょう(笑)
「日本列島の上にあるのが朝鮮半島なんですよ」
「おお、確かにあります」
「当時あそこは日本でしたから」
なるほど。
「韓国軍から見学がきてもこれは見せられません」
歴史的な事実だったとはいえ、お互い気まずいことになるのは必至(笑)
さらに、北海道のうえをみていただくと、1905年の
ポーツマス条約で割譲された樺太らしきものが見えます。
池の奥側にも何か陸地をかたどった造形物があります。
「あそこは何を意味しているのでしょう」
「北方領土じゃないでしょうか」
全く島に見えないんですが、この池のテーマから鑑みるに
日本の領土であることは間違い無いでしょう。
しかし、国後島などの現在ロシアとの間で問題となっている
島にしてはちょっと離れすぎてやしませんかね。
そこで考えたのですが、この池が建造された当時、
北方は北方でも、
占守島
を意味しているのではないでしょうか。
え?物理的に全く形が似ておらんぞ、って?
占守島は1875年(明治8年)以降、樺太と交換されたので
日本領として北洋漁業の操業が行われ、陸軍要塞もありましたが、
昭和20年8月18日、ポツダム宣言受諾の三日後に、
ソ連軍が侵攻してきて、日本軍との間に
といわれる激戦が繰り広げられたところです。
その後ソ連が一方的に自国領土編入を行い、
実効支配されたままになっているのはご存知の通り。
この池、どこから水が流れ込んでくるのかわかりませんが、
もし池の水を抜いたらいろいろと年代物のゴミが出てきそう。
夏場はこの池のせいで蚊が湧いたりしないのかな、
と余計な心配をしてしまいました。
戦後、連合国軍がここに進駐してきたときも、
当時の大日本帝国の領土を表している池だと彼らが気付いたら、
おそらく1日で壊してしまっていたと思われるのですが、
今日まで残されているそのわけは・・・・・・。
もともと素人仕事というか、地図そのものがあまり正確でないので、
地図を現したものだと連合軍の誰も気づかなかったんじゃないか、
とわたしは思ったのですが、いかがなもんでしょう。
そのあと旧八方園神社の斜面下の道の案内がありました。
ここに「留魂碑」という石碑があることは、校内の移動の際
マイクロバスが前を通ることが何度もあり、知っていました。
歩いてその前を通るのは昨日に続き二度目で、
近くで碑を見たのは初めてです。
間近で碑文の写真を撮ることができましたので、
その文字も書き起こしておきます。
留魂碑之記
われら海軍兵学校四十一期会員は
明治四十三年九月十二日入校
大正二年十二月十九日卒業
同三年十二月任官
第一次世界大戦勃発直後 我が国海上防衛の第一線に立てり
大正五年はじめて級友の死に際会せる時
われわれは生まれた時と所を異にするも
倶に志を同じくして江田島に集まり
互いに死生を誓い 生涯同じ道を進むものなり
死後は 魂の故里江田島に集まらんとの議起り
之を決定して大正八年十月五日古鷹山麓教法寺の境内にこの留魂碑を建立せり
題字はわれらの敬慕する校長山下源太郎大将の筆になるものなり
爾来われわれは時に留魂碑の下に相集まり
戦没級友の霊を慰め同期の誓を固めきたれり
昭和四十七年留魂碑の永久保存のため之を母校の一隅に移して
海上自衛隊第一術科学校に寄贈し その管理を託すことになりぬ
同年十月二十五日移転移管を完了せり
先人いわく死生命あり忠魂不滅と
碑文中、
「大正5年の初めての級友の死」
とありますが、その少し前の第一次世界大戦で戦死者を出さなかった
海兵41期生徒たちが、初めてクラスメートの死に直面したのは
戦争ではなく、戦艦「金剛」艦内で事故が起きたときでした。
この事故が起こった当時、41期は全員が中尉になっていました。
海上自衛隊では卒業と同時に士官任官しますが、当時は卒業後
士官候補生として遠洋実習航海を行い、卒業1年後任官になりました。
この碑文によると、彼らは2年後、中尉に昇進していたことになりますが、
自衛隊でもそんなものなのでしょうか。
さて、「金剛」の事故で負傷したこの中尉は、事故後、
定係港である横須賀基地の海軍病院に運ばれましたが、亡くなりました。
海軍兵学校の「クラス」の繋がりはどの期も大変濃かったといいますが、
この41期は一入だったようで、その後彼らは級友の死をきっかけに、
「死後は魂の郷里江田島に集まろう」
という思いを込めて、事故の三年後にあたる大正8年、
古鷹山山麓に海軍兵学校設置のために移転していた
教法寺境内にこの「留魂碑」を建立したのでした。
海軍兵学校41期には中将になった草鹿龍之介、保科善四郎、
硫黄島で戦死し「ルーズベルトに与うる書」を遺した市丸利之助、
沖縄決戦で「沖縄県民かく戦えり」の打電を残して自決した太田實、
そしてキスカ作戦で奇跡の日本軍撤退を指揮した木村昌福がいます。
彼らのうち誰一人として、卒業時にクラスヘッドだったとか、
恩賜の短剣組だったという優等生はいないという意味では
(草鹿14位、保科28、市丸46、太田64、木村後ろから12位)
なかなか面白い?クラスでもあります。
この「留魂碑」は、碑文にもある通り、昭和47年に
永久保存のため本校に移動保存されました。
(そのため碑文は現代仮名遣いとなっています。)
その当時41期生はほとんどが80歳となっており、
上記で生存していたのは保科だけ、その保科も
平成3年に100歳の長寿で亡くなりました。
ところでこの「留魂碑」揮毫を行ったのは、彼らが在校時
校長であった山下源太郎中将です。
山下源太郎というと、戦前の人ならば誰でも知っていたという
センセーショナルな事件で、40過ぎて授かった息子を失っています。
それは、佐世保鎮守府長官のときに、当時10歳の四男が、
精神不安定のため待命になっていた海軍大尉飯島弘之に
計画的に刺殺されるという凄惨な事件でした。
この揮毫を行ったのはその4年後で、山下が佐世保の事件跡地を買い取り、
そこに愛息の慰霊碑を建てるなどしていた(今でもあるらしい)頃ですが、
察するにまだその心の傷も癒えていなかったことでしょう。
阿川弘之著『米内光政』の作中にはその事件が登場します。
山下の三男、佐世保市内八幡小学校の三年生だった四郎は、
二月九日の午後、授業を終ってしばらくキャッチボールをして遊んでいたあと、
級友たちといっしょに校門を出た。
そこへ、緋の着物と銘仙の羽織を着た若い男が近寄って来て、
「長官の坊ちゃんはどれか」と子供らに聞き、
「貴様が山下だな」
「うん。僕、山下だよ」
答えて八幡谷の坂を下って行こうとする四郎に、いきなりつかみかかった。
泣き叫ぶのを坂道の途中にねじ伏せ、隠していた海軍ナイフで
右の耳下から左耳下へ、頸部を掻き切った。
先生や近所の大人や巡査がかけつけた時、子供はすでに絶命していた。
市役所の方へ逃げて行く犯人が、間もなく逮捕された。
「なぜあんなことをやったか」
と聞かれて、「僕を侮辱するからだ」と男は答えた。
子供の遺体は、取り敢えず担架にのせて海兵団の医務室に運び込まれた。
急報を聞いて来た山下夫人の徳子は、ランドセルを背負ったまま
血に染まって死んでいる息子を見ると、
「四郎ちゃん」と言ったきり、気を失った。
これだけでも大事件だったが、犯人が飯島弘之という
海軍大尉だとわかって、騒ぎが大きくなる。
いろんな噂が立った。
飯島弘之は今でいう統合失調症で、自分の待命とは
何の関係もない佐世保鎮守府長官の、しかも息子を、下調べまでして
計画的に殺害したのは、全て被害妄想からきた行動だと言われているようです。
さてその山下の書いた「留魂碑」の文字なのですが、どういう理由なのか、
ノの字の払いがわざわざ消されています。
揮毫者の何らかの意図があっての省略だとしか思えないのですが、
山下源太郎がかつての教え子の早すぎる死と、愛息子の死を
重ね合わせた心情に意味があるのではないかというのは考え過ぎでしょうか。
一般見学のスタートとなる江田島クラブを出ると、
向かいの校舎の屋上角にこのような拡声機があるのを
ご覧になったことがあるかたも多いと思います。
わたしはこれをずっと海軍兵学校時代からある校内放送の
スピーカーだと思っていたのですが、このとき伺った説明によると、
これは戦後になって設置されたものなのだそうですが、
当時江田島には消防署がなく、火事になったときには
このサイレンで近隣に知らせるということをしていたのだそうです。
進駐軍が付けたのかどうかは聞き忘れましたが、
ここには進駐軍時代も、海上自衛隊になっても
消火用の車があったからだそうですが、道を少し行ったところに
消防署ができてからは使われなくなりました。
理化学講堂は現在武道具などを保管する物置として使われていました。
旧海軍兵学校跡見学・おわり