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「ヒトラーの秘密兵器」ナショナル・ローフと国民戦時体制〜兵士と水兵の記念博物館@ピッツバーグ

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ピッツバーグの「兵士と水兵の記念博物館」の回廊を進むと、
殺伐とした展示にいきなりアメリカンアットホームな色彩が!

 

■ 戦時民間防衛

その印象の一員は、この女性のマネキンだと思うんですがね。
しかし、彼女は戦時中の女子勤労動員の労働スタイルで、

「ウィ・キャン・ドゥー・イット!」

のポスターの女性と似たポーズを取っています。

ところで、このポスターについては過去何度か語ってきましたが、
今回初めて、この制作をピッツバーグ在住のアーティスト、ハワード・ミラーに
依頼したのがウェスティングハウス・エレクトリック、
あのジョージ・ウェスティングハウスの興した電気部門であったことを知りました。

しかも、これはウェスティングハウス・エレクトリック社内部のための
まあ言うならば「みんなで頑張りましょうね」程度のポスターでしかなく、
Weとはウェスティングハウスの社員一同のことであり、もちろんのこと、
よく勘違いされるように、男性のいない職場に女性を駆り立てると言うような
プロパガンダの意味合いは全くなかったのです。

しかもウェスティングハウスでこのポスターが公開されていたのは
わずか1ヶ月の間で、もちろんのこと社外にはほとんど知られていません。

有名になったのは1980年台以降で、しかも本来の意味とは無関係の
フェミニズム系の発言に多用されていたようです。

まあただ、ここでは戦争に行った男性の代わりにそれまでの男性の職場で
働くようになった女性の象徴のように扱っている節はあります。

ポスターの横には工場で働く女性工員の様子を視察するお偉いさんという写真が。

女性は白黒写真でもはっきりわかるほど当時流行の真っ赤な口紅をつけており、
おそらく彼女はインタビュー用に用意された「ミス職場」だったのではと思われます。

女性、しかもアフリカ系が白人男性の職場だったところで
このように作業するという姿も当時であれば宣伝になりました。

どこかで見たマークだと思ったら、民間防衛組織です。
自分の過去ブログによると、このマークは航空監視員の徽章です。

真珠湾攻撃以降、空爆または砲撃の可能性が存在するとして、
アメリカでは民間防衛部隊が編成されることになりました。

1000万人ものボランティアが民間航空パトロール隊や、市民防衛隊を組織していました。

右側は民間防衛組織のボランティアを募集するパンフレット。
左は民間人配布されたガスマスクです。

映画「1941」で、子供がガスマスクをかぶってスープを飲んでいましたが、
真珠湾攻撃後、アメリカ民間人が東からの攻撃に怯え、子供や赤ちゃんにも
ガスマスクをつけさせている笑えない写真は動画は数多く残されています。

終末感漂う、戦時中の子供向けガスマスクとそれを付けた子供たちの古写真 : カラパイア

右側の看護師さん、マスクごと赤さんをぶら下げてないか?

■ ウォータイム・レーション(戦時配給)

トマトジュース10セント、ドーナツ5セント、ミートローフ30セント、
シタビラメのフィレフライ35セント・・・・・。

後ろのメニューは何かというと、「レーション」つまり配給の値段です。
アメリカでも食料が配給制だったってことですか。

アメリカのレーションブックとチケットです。

調べてみると、アメリカでもイギリスでも、第二次世界大戦中は
配給が一般的になった時期だそうです。

 イギリスでの配給ノート。
アメリカで配給ノートが配られ始めたのは1942年5月といいますから、
日本との戦争が正式に始まって半年後には配給制が始まっていたということになります。

最初に配給制になった食品は、砂糖だったそうです。

続いてコーヒー。
5週間ごとに1ポンド(450g)という割当てでした。
砂糖にコーヒーというと、まさにアメリカ人が死んでもやめられないものですよね。

そのあと配給制になった物品は以下の通りです。

ラード、ショートニング、オイル、チーズ、バター、マーガリン、加工食品、
ドライフルーツ、缶詰の牛乳、ジャム、ゼリー、フルーツバター

これらはつまりどれも戦地に送ることができるものばかりです。
また、食べ物以外でも

タイプライター、ガソリン、自転車、履き物、シルク、ナイロン、
燃料油、ストーブ、薪、石炭

などは1943年11月まで配給されていました。
ちなみに上の民間防衛のヘルメットと一緒に写っているのは配給のストッキングです。

■ 国民のパン(ナショナルローフ)

この配給については、まずイギリスが率先して始め、アメリカにこれを勧告し、
アメリカが追随したという背景があります。

 

イギリスは1939年9月の戦争の勃発までに、穀物の70%を輸入に頼っており、
その大部分は、現在のように、カナダから北大西洋を越えて輸送されていました。

輸送は船護送船団で行われましたが、Uボートによる攻撃に対して脆弱でした。

イギリスの計画担当省は、国民1日あたりに必要な最小限のパンのために
年間25万トンの小麦を30隻の船で輸入する必要があると計算しました。
パンに使う小麦だけでその量です。

この輸送費は、戦争遂行のためのその他の資材と割合を食い合うため、
英国政府としても小麦を減らして戦争資材を輸入したいのは山々でしたが、
パンの問題は直接士気に関わるため、なかなか配給に踏み切れませんでした。

食品省は、小麦の輸入量を減らし、到着したものを最大限に活用すると同時に、
人々が食品から最適な栄養価を確実に受け取れるにはどうするか考え始めました。

そこで、

「もしUボートによって全ての輸入が不可能になった時、
英国は国内の食糧生産だけでやっていくことができるか」

というシミュレーションを行い、また、このときに
ビタミンとミネラルを含む食べ物を摂取する必要などを模索し始めたのです。

ちなみにこれは現代の栄養学的思考の基礎となりました。

先般日本学術会議が日本の科学者に軍事研究につながる基礎研究を
行わせないという声明のもとに、実際に防衛省依頼の研究を潰していたことがわかり、

「およそ世の近代科学というものは全てもとを辿れば軍事研究なのを知らないのか」

と馬鹿にされていましたが、これなど瓢箪から駒的成果とはいえ、
戦争をシミュレーションした結果生み出されたわけですから、
軍事研究から生まれたといっても全く差し支えないかと思います。

 

さて、話を元に戻して、彼らが到達した解決策は、1942年の春に
「全粒小麦粉」または「全粒粉」を作成することにより、
輸入した小麦をさらに進化させることでした。

栄養学の研究により、パンは精白したものより全粒粉の方が栄養価が高い、
などという今日では周知のことも初めて理論的に裏付けされたため、

「国民のパン」(National Loaf)

というカルシウムとビタミンを加えた全粒粉のパンを「パン職人連盟」という
国民のパンを作るために設立された組織によって作らせたのです。

ナショナルローフはなぜか灰色をしており、おまけにドロドロで、
なかなか食欲をそそる代物とはいえず、どうやって調べたのか知りませんが、
なんでもこれを好んだのはイギリス国民の七人に一人という割合だったようです。

イギリス人でもこうですから、こんなものを政府から押し付けられた日には
フランスだったらもう一度革命が起きていたかもしれません。

 

イギリス政府はUボートの件もあって、食料輸送の割合を節約し、
かつ小麦の在庫をできるだけ有効活用するために、国民の不評も物ともせず、

「白パンがなければ国民のパンを食べればいいじゃない」

とばかりにこれをバッキンガム宮殿でも出していました。
1942年に訪英したエレノア・ルーズベルトは、

「金と銀の食器で提供された食事にこの”戦争パン”が出てきた」

と証言しています。

「ナショナル・フラワー(国民の小麦粉)」は、殻付き小麦粒から抽出された
無漂白小麦粉でした。
胚乳、小麦胚芽、およびふすまふすまも残してあるため、もとの小麦の
85%の内容が残されることになりました。

一般的に白い小麦粉は70%が残りますから、たとえば100kgの小麦粒なら
いままで70キロだったのが、これだとから85kg残ることを意味します。


そうやって多くの成分を残して製粉した小麦粉は、なぜか灰色をしていました。
最近は日本でも全粒粉のパンが普通に市場に出回わっているので
ご存知の方も多いと思いますが、全粒粉のパンは普通灰色をしていません。

わたしなどアメリカに行くとかならずイングリッシュマフィンも全粒粉を選ぶのですが、
(これは「白物好き」のMKにはめっぽう評判が悪く、わたし専用になっています)
それだって決して灰色ではありません。

これはふすまの一部分が残っているせいの色だそうです。

確かにビタミンBの含有量は格段に上がるでしょうが、問題は
それに比例して食感も悪くなっていくことです。(つまりまずい)

しかも、政府は抽出量をあるとき90%に引き上げました。
これはもうほとんど小麦の外側しか取っていない状態です。
さすがに不評だったらしく、再び85%にまで引き下げられました。

不人気の原因には良かれと思って入れられたカルシウムなどの添加物もありました。

このの目的は、カルシウムの吸収を妨げ、子供にくる病を引き起こす可能性のある、
より高い抽出粉中のより高いフィチン酸の割合を相殺することでした。

1942年4月6日、イギリス政府は白パンの商業的流通を禁止する法律を発効しました。
この禁止破りを防ぐため、パンは包装せず、スライスもせずに販売しなければならず、
製造された翌日のみ販売でき、当日は販売できませんでした。

せめて焼きたてならちょっとはましだったのかもしれませんが・・。

 

そのうち、小麦粉をオートミールまたはジャガイモ粉で希釈したり、
大麦粉、オート麦粉、馬鈴薯粉を混ぜることも始まりました。
長持ちさせるためにかなりの量の塩を入れることも定められました。

これらの小うるさい規定に従わなければならない当時のパン職人は、
ほとほと嫌気が指していたでしょう。

そしてこの国民のパンを、皮肉屋のイギリス人は、

「ヒトラーの秘密兵器」

と呼んで蛇蝎のように嫌いました。

見た目だけでなく、食感はまさにおがくずそのもの。
焼いてから1日置かないと販売が許可されないというのに、
購入したときにはすでに乾いて硬くなって噛み切るのに顎が痛くなる代物です。

唯一、食品省の上層部から意図的にリークされたと思しき、
「ビタミンEを多く含むので生殖能力を高める」という噂があるにはあったそうです。

 

戦時下の国民に不自由を強いることはどこの国でもあることですが、
そうなると国民の側に「自警団」が生まれ、国民を国民が摘発するのが
あの時代の日本だったのに引き換え、イギリス人は国民のパンに対して
声を大にして公に不平を言い続けました。

しかも不思議なことに、パンの消費量は国民の不平の声の大きさと比例して?
戦前より増えていきました。

むしろこれはパンというものに対する執着を煽られたための補填行為かもしれません。
って逆効果じゃん。

 

そして1950年、ついにスライスし、包装された白いパンが解禁になりましたが、
慣れとは恐ろしいもので、あんなに文句を言っていたのにもかかわらず、
健康上の理由から、国民のパンを維持すべきだという声があったそうです。

1956年、ナショナルローフはついに廃止されました。


ちなみに、ナショナルローフを開発した研究者の一人、
ハリエット・チックは、英国で最初に有給で雇われた女性科学者となり、
戦後、この貢献により1949年に大英帝国勲章を授与されました。

【ナショナルローフのレシピ】

出典:帝国戦争博物館

10斤の場合(1斤の場合、10で割る)
全粒粉 5220 g
馬鈴薯粉 1740 g
水 4740 ml
ビタミンC 6 g
酵母 210g

1. ミキサーですべての材料を3〜5分間混合します
2. 生地を軽く油を塗った容器に入れ、45分間休ませます
3.   さらに45分間休ませます
4.    1kgでスケーリングし、10〜15分間休ませます
5.   油を塗ったベーキング缶にパンを入れ、28-32 度で45-60分置く
6.   上部204度下部208度で焼きます
7.    25分後にベントを開き、さらに25分間焼きます
8.   すぐに缶から取り出し、ラックで冷やします

 

■ VICTORYガーデン

アメリカの配給メニューの前においてあるこの缶は、
Vメールの送信用コンテナです。

Vメールとは、1942年6月から1945年11月まで運用された軍事郵便の一種で、
本国と海外の戦地間で輸送される郵便物の量を減らし、サービスを迅速化するため
専用の用紙に書かれた手紙マイクロフィルムに転写し、フィルムの状態で輸送して
到着地で印刷されてから配達されていました。

つまりこの缶の中にはフィルムが入っているのですが、こんなかさばる状態でも
手紙よりは輸送の量が減らせるということだったようです。

右上のVを形作っているタバコのラベルが表すのは、
この中身が外国の戦地にタバコを送る郵便であるということです。
おそらく無料で郵送ができたのだと思われます。

戦争遂行に利するものにはなんでも『V』をつけていた当時のアメリカには
「ビクトリーガーデン」と名付けられる畑がありました。

商業的農業に対する軍の要求を優先させる目的から、民間人は
戦争遂行を助けるために彼ら自身の食糧を育てることを奨励されました。
庭に畑を作って自給自足し、商品は戦地に回しましょうというわけです。

ラッキーストライクとは「大当たり」の意味です。
発売された頃のアメリカはゴールドラッシュで湧いていました。
左の緑色の背景に赤い丸がオリジナルです。

1942年、デザインが右の白地に赤に変更されました。
緑系インクには金属を必要とするのですが、戦争中だったため、
金属を節約する意味で緑は廃止されました。

「ラッキーグリーンは戦場に行った」

というコピーは、戦意高揚と宣伝を兼ねているのです。

窓辺のサービスバナー(任務旗)は、南北戦争の時代からアメリカ人の家庭が
戦争協力を世間にアピールする目的で掲揚してきたもので、
星が青である旗はその家の誰かが出征中であることを表し、この旗のように
黄色い星の旗は、家族が戦死したという印でした。

 

これは何か意味があるのかと思ったのですが、説明がありませんでした。
ただの装飾かな?

 

続く。


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