ピッツバーグの兵士と水兵の記念博物館、ここで
ちょっと他にはない珍しい展示が現れました。
いきなり結論を言うと、
タイムカプセル
です。
1908年10月2日、完成を2年後に控えたここピッツバーグの記念博物館の前には
コーナーストーンの設置セレモニーのために招待された多くの群衆が集まっていました。
画面の奥に見られるGAR(南北戦争ヴェテランの軍人会)の旗は、
このコーナーストーンセレモニーの日、ヴェテランたちが持って行進したもので、
2年後、記念館が完成したときには再び行進につかわれたものです。
cornerstoneというのは日本語だと礎石(そせき)、隅石の意味ですが、
レンガや石造りの大きな建物の隅に置く記念の礎石を「定礎」といいます。
定礎とは本来は礎石建物の基礎となる礎石を定めることですが、
ヨーロッパでも古来から建物の基準となる石に着工時に印をつけ、
建物の完成や存続を祈るという慣習が行われてきました。
日本では西洋建築が普及しだすとともにこの定礎の慣習も始まり、
ビルの入口などには「定礎」と刻まれた板が設置されたりします。
で、ここからが本題なのですが、この「定礎」の中には
鉛・銅・ステンレス製などの金属製の定礎箱が
建物の図面・定礎式当日の新聞・出資者名簿などが
入れられたタイムカプセルとして埋め込まれている
ということを皆さんはご存知だったでしょうか。
つまり、当博物館の「定礎」すなわちコーナーストーンが
1908年(完成後)設置されたということです。
ここでいきなり余談なんですが、つい先日、韓国のソウルにある
韓国銀行の旧本店の建物の礎石「定礎」の文字が、
伊藤博文の直筆だと確認されたというニュースがありましたよね。
筆跡を鑑定したのが「韓国の専門家」というのと、その照合の方法が
インターネットで公開されている伊藤博文の資料を見て判断、
というのが限りなく当てにならないという気がしますが、
今後韓国ではにっくき伊藤の直筆を削るか、それとも保存して
前に看板を立てるかということを検討中だということです。
そこでわたしがふと思ったのは、定礎の文字のことばかりに目が行っている
韓国の人たちは、もしかして「定礎」の下にある「定礎箱」については
何の知識もなくそこにそんなものがあることも知らないのではないかと言うことです。
もし「定礎」の文字を削除するのならば、その部分を取り壊すことになりますが、
そこで初めてタイムカプセルの存在に気づいた彼らは中身をどうするでしょうか。
歴史的に貴重なもののはずなので、そのときにはぜひ日本に返してもらいたいものですが、
まあ・・・無理だろうなあ(笑)
閑話休題、この兵士と水兵のための記念博物館のコーナーストーン設置を報じる新聞です。
慣習の通りであるとすれば、コーナーストーンは建物の南東角に置かれます。
セレモニーでスピーチを行なったお歴々の中には、
当時合衆国副大統領だったチャールズ・フェアバンクス、ペンシルバニア州知事、
そして南北戦争のヴェテランであるホレス・ポーター将軍などがいました。
11時すぎ、コーナーストーンが定位置に差し入れられました。
ANNO DOMINI、省略してA.Dは西暦紀元です。
MCMVIII
は1908をあらわすローマ数字です。
ローマ数字換算サイトが見つかったのでキャプチャしておきました。
「私」は「I」が自動翻訳されてしまったのでしょう(´・ω・`)
こちらの定礎は、ローマ数字で礎石を置いた日を記すのが慣習です。
そして、コーナーストーンを入れるその前に、歴史的資料が収められた
銅製のケースが内部に収められたのでした。
ちなみに、当日の新聞(ピッツバーグ・サン・テレグラフ)が報じた「箱の中身」とは。
1、ルーズベルト(セオドアですよ)大統領、スチュアート前大統領、
前知事サミュエル・ペニーパッカーなどの写真
2、博物館の設計図コピー
3、当博物館コミッティーの選挙議事録
4、ピッツバーグで発行されている主要新聞4紙
5、アレゲニー郡地図
6、投稿者名簿
7、ユニオン軍第一野営地のヴェテラン名簿
8、戦争捕虜になった北軍兵士のバッジと名簿
9、米西戦争第15駐屯地ヴェテランの名簿
10、米西戦争アルフレッド・ハント・駐屯地ヴェテラン名簿
11、海外任務ヴェテラン名簿
12、G.A.R名簿と襟章
13、マクファーソン開放部隊の名簿
14、北軍女性補助部隊の名簿
15、南軍発行の1ドル札
16、アレゲニー郡最高裁判所判事の写真
17、ピッツバーグ銀行(市で最初に創立された銀行)の歴史
18、ピッツバーグに最初に創立された長老派教会(プレスバイテイリアン)の歴史
19、アメリカ合衆国国旗
以上です。
タイムカプセルの箱は今、ここに見ることができます。
その理由は、コーナーストーン設置からまるまる102年後の2010年、
つまり設置したのと同じ10月2日に、建物から取り出されたからです。
1908年に花崗岩のブロックの空間に差し込まれ、
そして、102年間、当博物館の建物の角に収められていた銅のボックス。
作業を行った石工たちはCost companyという、1927年創業の
90年レンガ積み一筋!の地元会社から派遣されていました。
日本ではレンガ積み職人などいるのかどうかもわかりませんが、
アメリカではいまでも煉瓦の建物が普通にあちこちに現存しているので、
そのメンテナンスだけでも結構な仕事が請け負えるのだと思われます。
ボックスとハンダ付されていなかった蓋は全く濡れておらず、
コンディションも大変良かったので、中身もおそらく
いい状態で保存されているのではと期待されていました。
ところが・・・・・・・!
ここにはその中身が展示してあるわけですが、結論から言うと
大変残念なことに、セメントは長年の間に水分を吸い込み、
それが銅製の箱の中を侵食してしまっていました。
中のものはこんなになってしまっていたのです。
箱が気密ではなかったため、写真に見られるように、内部に結露が形成され、
内容物が飽和パルプと汚れの塊に化してしまいました。
銅製の箱の蓋を取った博物館のキュレーターたちが一斉に
「ああ〜・・・・・」(´・ω・`)
と落胆の声を上げた様子が目に浮かぶようです。
この茶色の塊、劣化した紙の束のかたまりは、1908年の礎石の
タイムカプセルに入っていたオリジナルの内容そのものです。
内容のほとんどが名簿などの紙だったことが残念な結果になってしまいました。
何年にもわたり、封印されなかった銅の箱の内側に
結露が形成され続け、中に収められていた紙、写真、そしてメダル、
これらの堆積物に文字通り雨が降り続けていたようなものです。
塊からなんとか水分が排出されると、今度は箱の内部に残っている
いくつかのメダルを、最新のテクノロジーで見つけることができるか、
そこが興味の焦点となりました。
2012年2月。
アレゲニー郡監察医事務所がこの「ケーキ」をX線撮影し、
そこに南北戦争のベテランのメダルの輪郭をはっきりと捉えました。
「ケーキ」のレイヤーの中にははっきりとメダルの存在が認められます。
赤の画鋲を打ってあるのは同じ場所となります。
このX線写真を撮るのにどうして検死官(監察医)事務所に依頼したのかは謎ですが、
そもそもこういう「ややこしいもの」があるところに出張してくれて
対象の何に関わらずX線を撮ってくれる組織というのはよく考えたら
法医学研究部門を持つ検死官事務所くらいしかないかもしれません。
監察医というのは日本でもよくドラマで描かれますが、
誰かが亡くなった時、その死体を検査し、死因の特定を行い、
死亡診断書を発行し、法執行機関と緊密に協力するのが仕事です。
犯罪現場を訪れたり、法廷で証言したりというドラマでお馴染みのシーンは
よくあることで、このために検死官は法医学の知識を専門としています。
まあしかし、この場合はX線照射だけですぐにメダルの存在がわかる
非常に「楽な」仕事だったことでしょう。
ついでに、日本のドラマだと、髪の毛の長い若いきれいなおねーちゃんが
検死官だったりする嘘くさい設定が多いのですが、昔医学部の人に聞いた話だと、
法医学の人は、六畳一間の(そんな部屋あるのか)荒屋に住んで、
一升瓶を抱えて飲んでいるような(本当にそういった)
「やっぱりちょっと普通じゃない」「世捨て人みたいな」
傾向の人が監察医をやっているということでした。
もちろんこれを聞いたのは昔のことなので、今はどうだか知りません。
アメリカでは現在、あんな広い国なのに監察医は五百人くらいしかいません。
平均年収は1千万から5千万円くらいなんだそうですが、アメリカでは
他の専門医でももっと高い賃金がもらえるわけですから(整形外科とかね)
その仕事の性質もあってなかなか成り手がなく、不足している業種だそうです。
さて、ここには1908年当時、ピッツバーグに存在した
4種類の新聞が展示されています。
茶色いケーキの手前の塊は新聞であることがこの状態でもわかりますが、
タイムカプセルの中にはこれと同じ四紙が収められていたそうです。
この新聞はコーナーストーン設置の日のニュースがトップなので、
タイムカプセルに入れられたのは別の日付のものだと思われます。
この日の新聞に掲載されたコーナーストーン・レイイングセレモニーの様子。
星条旗を持っている陸軍の軍人のズボンの色は青に黄色なのでしょう。
座っている人の右側に、挿入前のコーナーストーンのが見えます。
確認しにくいですが、ボックスにリボンが結ばれているのがおわかりでしょうか。
そこでこれをご覧ください。
これは102年後に取り出されたコーナーストーンの奥部分です。
リボンの名残がセメントにはっきりと刻印されており、
ここに展示されている破片に見ることができます。
この「濡れた塊」が取り除かれたボックスの隅から、
左下の コイン2個が見つかりました。
これはタイムカプセルに意図して収められたものではないと考えられています。
タイムカプセルの中にものを納めたのは、当日招かれた来賓だったのですが、
その誰かのコインが最後の瞬間に滑り落ちたのではないかというのです。
コインのうち一つは1906年のBarber dime(10セント)バーバーという彫刻家が
デザインした1892年〜1916年発行のもので、もう一つは1907年発行の
「インディアンヘッド・ペニー」、(1セント)でしたが、どちらも
内容リストには含まれていないため、アクシデントだったと判断されています。
この右側のケースの中のものが本物です。
これは「ミリタリー・フラット」と呼ばれる小さな錫製の玩具で、
20世紀初め頃のものです。
二人の南北戦争の兵士が馬に乗っている意匠で、これが発見されたのは
花崗岩の基礎の接続部分で、押し込まれていました。
それが2010年にコーナーストーンを外して中のものを取り出した際、
タイムカプセルと一緒に中から出てきたのです。
どこの誰が花崗岩の継ぎ目にこれを入れたのかはわかっていませんが、
可能性としては、1908年にタイムカプセルを納め、コーナーストーンを
設置する作業を行った石工がうっかり落とした(かわざとそこに置いた)
ものと考えられています。
わたしは、石工が「わざと」置いたのだという気がしますが。
石工がいくつか知りませんが、普通こんなものを持って仕事にきませんよね?
彼は、その仕事をするにあたり、何か小さなものを中に置くために
わざわざ家をでるときポケットに入れてきたんじゃないでしょうか。
だって、自分が確実に死んだ100年後に、自分が置いたものが
どんなものであれ、後世の人々の目に留まるというのは、なんというか、
ちょっとしたワクワク感があるじゃないですか。
「これはなんだろう」
100年後の人々がその品をめぐって想像を巡らすことを思いながら、
ちょっとした「役得」として彼がこれを置いてきたというのがわたしの想像です。
銅製のタイムカプセルの一番最後に収められたのは星条旗でした。
この国旗が比較的無事な姿で残ったのは、ものが積み重ねられておらず、
被害の酷かったサイド部分に接していなかったからだろうと思われます。
旗のポール部分、その先の部分も上部から見つかりましたが、
これはごらんのように腐食してしまっていました。
2012年、取り出された後のコーナーストーンのくぼみには、
新たなタイムカプセルが設置されることになりました。
今度は中身が腐食することが決してないように、
環境の影響を一切受けない堅牢なステンレスの箱が特注されました。
次にタイムカプセルが開けられるのは2112年の10月2日(予定)。
そのとき、未来の人々はコーナーストーンの奥にどんなものを発見するのでしょうか。
続く。