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勇気の殿堂 オンライン上のブロンズスターメダル〜兵士と水兵のための記念博物館

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長らくお話ししてきた兵士と水兵のための記念博物館展示、
最後にペンシルバニア出身の軍事章受賞者を顕彰するためのホール、
「勇気の殿堂」で紹介されている人々を紹介して最終回になります。

 

ここからの賞受賞者の紹介には、当博物館の手によるものらしい
イラストが加えられています。

 

【命を賭けて試みた生還】

アーチボルド・マシーズ陸軍参謀軍曹 第二次世界大戦

ここからはなぜか博物館スタッフによると思われるイラスト付きです。

1944年2月、ライプツィヒへの爆撃に参加中、B-17の機長は攻撃を受けて重傷、
副操縦士は死亡したため、彼はナビゲーターと共にイギリスまで帰還し、
そこで残りの乗組員を全員ベイルアウトさせた。

マシーズとナビゲーターは脱出を命じられたが機長を置き去りにすることを拒否し、
機体の着陸を試みたが、墜落し、機内の全員が死亡した。

マシーズの階級は軍曹となっていますが、これは死後特進した結果です。
機関兼砲塔射手だったので、指揮官二人が任務遂行不可能になっても
彼が代行として指揮を執るという配置ではなかったわけですが、
砲塔射手という機内における自由に動く配置であったというだけで、
(映画『メンフィス・ベル』でも射手がコクピットに顔を見せていた)
ベイルアウトをせず、瀕死の副操縦士と機体を無事に地上に戻すために
自分の命を賭け、そして斃れたのでした。

このとき最後を一緒にしたナビゲーターもまた叙勲されたと思われますが、
地元出身ではないので彼については触れられていません。

 

【死ぬまで投げ続けた手榴弾〜ニューギニア戦線】

ドナルド・R・ロボー陸軍一等兵 第二次世界大戦

この勇気の殿堂で、初めて日本軍と戦った軍人が登場しました。

受賞理由:彼の小隊がニューギニアで進攻していた日本軍と対峙したとき、
自分に放火が集中したにもかかわらず、負傷しながら手榴弾を投げ続け、
部隊の犠牲は彼だけに止まった

ところで、名誉勲章を受けるとその人生のあまり公にしたくない部分まで
歴史に留められてしまうわけですが、彼の場合、16歳で車泥棒でつかまって
その後更生して海軍に入ろうとしたら成績不良ではねられ、仕方がないので
陸軍を受けたらなんとか入れてもらえた、なんてことまで記録に残っています。

これって、陸軍には海軍に入れなかった人も入れてもらえたってことですか?

 

それから、日本人としては、彼がこのとき殺戮したのが日本兵でその数が
「最低でも10人以上だった」ことをつい考えずにいられません。
戦争の英雄は、敵国にとっての殺人者であるというのは当たり前の事実なのですが。

【手榴弾を帯びて単身突入】

アルビン・P・キャリー陸軍参謀軍曹 第二次世界大戦

フランスのブルターニュで進軍中、激しい敵の機関銃砲火を受けたとき、
キャリーは持ち運べるだけの手榴弾で武装したのち敵地に単身突入し、
ドイツ兵のカービン銃に斃れたが、その勇敢な行為に触発された後続部隊は
敵の抵抗を打ち負かした。

 

【壮絶な敵地突入の果てに】

ジョン・W・ドゥトゥコ陸軍参謀軍曹 第二次世界大戦

受賞理由:1944年5月、イタリアのポンテロットの近くで、ドイツ軍塹壕からの機関銃3丁、
1丁の88mm砲に対し片手に銃を持っただけで対抗し、負傷で倒れる前にこれら全てを殲滅した。
この行動のために、彼は死後最初の軍曹に昇進した。

殿堂入りしている軍人の階級は全て最終的に昇進したものなので、
ほとんどが軍曹となっています。
戦死時のドゥトゥコの階級はPrivate 1st class、つまり上等兵でした。

ここに詳しく書かれている彼の戦死の状況は、

「マシンガンに撃たれて一度昏倒するも、立ち上がって走り続け、
10ヤードの位置まで迫った時、5人の敵の一斉掃射を受けたが
彼はその中でも二人を倒し、次の射手が彼に銃弾を撃つと、
それを受けながらもなおさらに相手を倒し続け、
最後に倒れ込んだのは自分が倒したドイツ兵たちの遺体の上だった」

と壮絶です。

 

【通信機器を死守した上陸作戦の通信兵】

ジョン・J・ピンダーJr.陸軍伍長 第二次世界大戦

1944年6月6日、ノルマンジー上陸作戦において、敵攻撃の中ボートから
作戦に不可欠な通信機を持ちだし、腰の深さの水の中岸に向かって進んだ。

ボートから降りてわずか数ヤードのところで、彼は敵の砲火に見舞われ、
重傷を負ったが、彼は岸に辿り着き機器を無事に届けたあと、
彼は傷の治療を受けることを拒否し、通信機器を救助するために
砲火の中ボートと岸のあいだを三往復し、三度目に再び機関銃に撃たれ、
衰弱しながらもつぎに無線通信の確立を支援を行う。

その任務中、三度目の銃弾によって死亡した。

ノルマンディ上陸作戦のとき、舟艇から上陸したアメリカ兵たちが
敵の狙撃やあるいは舟艇の位置、冷たい水に濡れた軍装のせいで
どんな壮絶な戦いをしたかについては様々な媒体で述べられていますが、
単身上陸するだけでなく、機器を運搬する係の兵たちはもっと大変だったわけです。

ピンダー通信兵だけでなく、いわゆる後方支援の部隊の兵隊もまた、
このとき物資を運ぶ任務でやはり多くが負傷あるいは戦死したと思われます。

【自ら傷を負いながら負傷兵の治療】

アルフレッド・L・ウィルソン陸軍技術軍曹 第二次世界大戦

フランス戦線で医療班として従事していたウィルソン軍曹は、
治療中重傷を負ったが、避難することを拒否し、激しい痛みと失血にもかかわらず、
最後の瞬間まで応急処置を続け、自分が立てなくなってからも
部下に治療を指示し、少なくとも10名の命が彼によって救われた。

最後の瞬間、ウィルソンは苦しい息の下から絞り出すような声で
それでも懸命に指示を続けていました。
結局彼はその傷が下で亡くなりました。

【一人で12人を降伏させる】

エドワード・A・シルク陸軍中尉 第二次世界大戦

意外なことに今までの受賞者で中尉は初めてです。

エドワードA.シルク中尉は、1944年11月フランスのモワンムティエを見下ろす
高台を占領する任務を遂行中、道沿いの農家をアジトとしたドイツ軍から、
機関銃と自動小銃を発砲されたため、中尉は一人でその農家まで接近し、
敵の発砲を受けながら攻撃を行い、手榴弾と機関銃を駆使して内部を攻撃し、
手榴弾がなくなると窓から岩を投げこみながら残りの敵の降伏を要求しました。

彼の執拗で「非正統的な」攻撃にに混乱した12人のドイツ人は、
この一人のアメリカ人将校に降伏したのです。

 

■ 女性の名誉賞受賞者

クレア・M・ガレヒト空軍准将 

このコーナーでは3人の受賞女性軍人が紹介されています。

ガレヒト准将はワシントンDCの米空軍本部の外科医総長室の空軍看護隊長でした。 

第二次世界大戦で陸軍看護隊に入隊し、その後キャリアを重ね、
1974年、空軍看護隊長に就任、メリット勲章、任務メダル、空軍メダル、
空軍殊勲部隊賞リボンなどを受賞し、1974年准将に昇進しました。

テレサ・ジェームズ陸軍少佐 第二次世界大戦

この人のことは女性補助部隊のパイロットとして以前紹介したことがあります。
が、今回バイオグラフィーを見て、彼女がパイロットになったきっかけというのが

「好きになったビルというパイロットの気を引くためだった」

というのを初めて知りました(笑)

やるじゃん。

ちなみに、輸送飛行隊としてあらゆる飛行機を飛ばしてきた彼女が、
CBSの制作したドキュメンタリーでのインタビュー中、

「まだ飛ばしたことがないのはF-14だけ」

といったので、CBS は彼女がF-14に乗れるように手配しました。
そのとき、彼女はもうすでに86歳だったということです。

さすがに操縦したわけではないと思いますが、86歳を
マッハなんぼの戦闘機に乗せるってどうなのよって。

彼女が心臓発作とか起こせばテレビ的には美味しいとか思ってたんでしょうか。

アンバー・L・フィッシャー陸軍准尉 イラクの自由作戦

フィッシャーはイラクの自由作戦での任務に対してブロンズスターメダルを与えられました。
ブロンズスターメダルは

「作戦において英雄的、かつ名誉ある奉仕を行い、成果を挙げた」

アメリカ合衆国軍の兵士に対して授与される勲章で、
5回授与されるとシルバースターに格上げされます。

まず、フィッシャー准尉の受賞理由は、

「バグダッドにおけるTAREX OICが素晴らしかった」

TAREXとはターゲット・エクスプロイテーションの略ですが、
「対象利用」というこの任務の具体的な内容がよくわからないので
全文をそのまま翻訳しておきます。

彼女は、反照合部隊の活動で使用された機密通信の活用を先導し、
テロ組織やイラクの反乱軍が使用する機器を技術的に利用して報告しました。

CW3フィッシャーは、連絡業務に加えて、
バグダッドで機密性の高いサイトの収集と悪用を行いました。
これにより、イラクの最重要標的(HVT)の1つが捕獲され、
6人のテロ工作員が逮捕されました。

CW3フィッシャーは、ファルージャ、ティクリート、ナジャフへの
3つの戦闘情報任務を計画して実行し、それぞれ第1海兵遠征軍、
第1歩兵師団、第1歩兵師団を支援しました。

デタッチメントチーフとして本部と支部の両方で部隊を管理しました。

彼女は、標準的な操作手順、TTP、および
プログラムに不慣れな訓練を受けた要員を開発しました。

イラクでの戦闘中の彼女の卓越した任務への献身は、
司令部の任務の圧倒的な成功に貢献しました。

彼女の行動は兵役の最高の伝統に沿っており、彼女自身、
多国籍軍団イラク、および米国陸軍に対する大きな功績を反映しています。

彼女の任務は従来の戦闘で人を殺すというものではありません。
そしてこれはあらゆる意味で「現代の戦闘」を表しています。

女性軍人とは看護師か補助パイロットとしてしか
軍で評価され、軍事賞を与えられる方法がなかった時代は終わりました。

 

というわけで長らく語ってきたピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館シリーズ、
これでおしまいです。

あまり取り組んだことのない南北戦争の歴史に始まるアメリカの軍事史を
郷土史と並列して取り上げることで、仮とはいえ住んでいる地域に対する興味も
同時に深まるという一挙に何度もお得なリサーチとなりました。

 

終わり。

 

 


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