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勇気の殿堂 受賞者の肖像〜兵士と水兵の記念博物館

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ピッツバーグの兵士と水兵のための記念博物館の展示を
長らくご紹介してきましたが、最終回にようやく近づいて来ました。

回廊を一周回って南北戦争からイラク戦争まで、おもに
ペンシルバニア出身の軍関係者が寄贈した記念品の展示を見てきましたが、
最後に

「ジョセフ・ドゥーガンJr.勇気の殿堂」
 Joseph A. Dugan. Jr. Hall of valor

という顕彰コーナーが現れました。

靖國神社の遊就館でも、戦争関連の展示の一番最後に、
靖國神社の「神」として祀られている英霊の写真が展示されていますが、
ここでも英霊?顕彰コーナーは最後です。

1963年、同博物館は軍事史博物館の一部として、退役軍人を顕彰するために
「勇気の殿堂」を創設しました。
殿堂入りの資格は、以下のメダルの最低どれか1つの受賞者です。

名誉勲章
殊勲十字章
海軍十字章
空軍十字章
シルバースター
殊勲飛行十字章
エアマンズメダル
ソルジャーズメダル
コーストガードメダル
海軍&海兵隊メダル

そして、ペンシルベニアで生まれ、軍に入隊した退役軍人であること。

現在、700人以上の退役軍人の名前がこの「記憶の倉庫」に収められています。

2006年11月、「勇気の殿堂」は「ジョセフ(略」に改名されました。
ドゥーガンJr.はソルジャーズ&セーラーズメモリアルホール&ミュージアム社の
初代社長兼最高経営責任者です。

それでは、ここで紹介されているオナーロールを何人か見ていくことにします。

■ 名誉勲章受賞者

 

【軍旗を死守】

ジョン・S・マシューズ陸軍軍曹 南北戦争

名誉勲章という場合は、戦功そのものについて与えられるので、
受賞者は負傷や死亡をしていないのが普通です。

ここは南北戦争以降の軍事博物館なので、この名誉の殿堂も
南北戦争から始まっています。

受賞理由:1865年のピッツバーグの戦いで軍旗を奪取し、
負傷したにもかかわらずそれを死守した

おそらく彼が名誉勲章を受けるときに撮られたこの写真を見たところ、
不鮮明ながら、彼はこの戦闘の際右手を失ったのではないかと思われます。

サム・ジョンソン陸軍1等兵 南北戦争

写真が遺されていなかった人物に関してはイラストのみの紹介となります。
そういえば、遊就館でも、提出する写真がなかったのか、
遺族が描いた似顔絵が展示されている英霊がおられましたっけ。

受賞理由:南軍から旗を二つも奪い、かつその際負傷をしたことに対して

南北戦争では、相手の旗を奪うというのが一つの勝利の決めてとなったようです。

【勇敢なる戦い】

ヘンダーソン・カルビン・ホワード陸軍伍長 南北戦争

受賞理由:敵の狙撃兵を追跡していて二人の敵に遭遇、銃撃戦の結果勝利

手前の、犬が寄り添っているのは(涙)伍長が戦った敵の遺体だろうと思われます。
彼は1919年、第一次世界大戦の終わり頃に80歳で亡くなりました。

 

ジョセフ・ギオン陸軍1等兵 南北戦争

受賞理由:チャンセラーズビルの戦いで勇敢に敵基地への前進をおこない、
『大事な情報を確保』した

ギオン1等兵もまた志願兵で、名誉賞を受けたときすでに38歳という年齢でした。

 

【晩年を見捨てられた後方支援の女性】



ヴィヴァンディエール・マリー・テぺ・レオナール 南北戦争

南北戦争でキアニー十字章を受賞された女性がいました。
名前がフランス風なのでレオナルドではなくレオナールとします。
検索してみるとウィキでは、彼女はやはり

「フランスのマリー」

と呼ばれており、記録では「マリー・テペ」が通称だったことがわかりました。

北軍に入隊したのは彼女の夫がペンシルバニア歩兵に入隊したからですが、
彼女は自ら望んでユニットに加わり、フランス系の外人部隊、ズアーブ兵部隊で
「連隊の娘」として料理、洗濯、縫い物などの「後方支援」を行っていました。

チャンセラーズビルでは激しい戦いの中、野戦病院で献身的に働き、
その功績に対してカーニークロス(勇気の十字架)が与えられることになりました。

これは、300名の受賞者の中の唯一の女性だったそうです。

ゲッティスバーグの戦いで夫を亡くした彼女は、この戦争が終わってから
南北戦争のヴェテランと結婚しますが、本人曰く「一般的な虐待(つまりDV)」で離婚しています。

晩年は兵役を行っていたとして国からの年金をなんとか受け取ろうとしたようですが、
どうもうまくいかなかったようで、貧困生活に甘んじていました。

戦争中に負傷した足首の傷に戦後も苦しめられ、さらにリウマチを発症し、
苦境の中、67歳でパリスグリーン(顔料や殺鼠剤の原料)を飲んで自殺しました。

【負傷を顧みず】

フランク・ウィリアムズ陸軍1等兵 第二次世界大戦

1944年、フランスに展開していた彼の歩兵部隊小隊は、行軍中
道の両側から巧妙に隠された場所からおマシンガンの掃射を受けました。

敵の銃が彼の仲間の安全に与える深刻な脅威に気づいて、ウィリアムズ1等兵は
勇気を持って持ち場からすぐ前の敵の定置に向かって移動しました。

身を伏せて地を這い、木から木の間を走り抜けて、有利な位置に移動し、
機関銃の標的になりながらも冷静に発砲し、敵兵士を倒し、一人を捕虜にしました。

この間、彼は敵からの射撃に晒され、負傷し、それが元で亡くなりました。

【メディックの献身】

 ジャック・プリングリー陸軍2等軍曹 第二次世界大戦

現地の子供が見守る中救護活動を行なっている衛生兵の写真ですが、
確かウェストポイントの軍事博物館で同じ写真が紹介されていて、
ここでも一度掲載したことがあります。

受賞理由:プリングリー二等軍曹はシシリー島に展開した部隊の衛生班に所属し、
砲弾の激しい一帯を横切って進攻する際、我が身の危険を顧みず、
軍務への揺るぎない献身のもとに複数の小隊を率いこれを勝利に導いた

【ベルリン爆撃命令】

ロバート・O・ロング陸軍大尉 第二次世界大戦

フライングクロス受賞理由:B-17でのドイツとドイツ占領地域に対する爆撃任務の成功

開戦直後はドイツ本土に対する空襲はほとんど行われなかったのですが、
バトル・オブ・ブリテンでドイツ空軍がロンドンを誤爆すると、報復として
連合国はベルリンを空襲、以降ロンドンとベルリンへの報復爆撃合戦となっていきます。

戦争初期はドイツ軍のイギリス空軍迎撃は成功していましたが、
1943年以降はイギリス空軍が夜間爆撃を、アメリカ空軍が昼間爆撃を行い、
ロング大尉のB-17やB-24などの強力な爆撃機が大量されていくと、
ドイツ空軍の勢いは急激に衰退していくことになります。

ロング大尉の爆撃任務は1944年のノルマンディー上陸作戦以降のもので、
連合軍の爆撃がいっそう激化していくなか行われたもので、
これによりドイツ国内がくまなく廃墟になったのでした。

【33歳年下の妻】

ハーヴァート・クラウス陸軍 大尉 第二次世界大戦

フランスの戦線で功績を挙げシルバースターを受賞された人ですが、
それより、お葬式欄で見つかった、

「2007年、92歳で亡くなり、59歳の妻が残された」

という情報につい目を奪われてしまいました(笑)
なんでもこの人の娘さんは医学博士なんだそうですが、
絶対奥さんの方が娘さんより年下ですよね?

【とっさの判断で部隊を救う】

ジョセフ・コスグロウ海兵隊軍曹 ベトナム戦争

海兵隊第一偵察大隊で並外れた勇気を示した

ベトナムに参戦した時、彼はまだ18歳で上等兵でした。
戦地でベトコンとの戦闘が始まってから、彼は隣の中隊指揮官の至近距離に
手榴弾が転がってきたのをみて、全く躊躇うことなくそれを拾い、
爆発する前にそれを蹴って遠くに飛ばし、犠牲を防ぎました。

【撃墜された殊勲者】

ウィリアム・K・ハーディング中佐 ベトナム戦争

北ベトナムでの最初の任務でF-4ファントムでの敵基地爆破を成功させましたが、
が地対空ミサイルで撃墜されました。
ハーディング中佐は救出され、フライングクロスを受賞されました。

【ランボー並み】

レスリー・H・サボー陸軍軍曹 ベトナム戦争

それにしても不思議な肖像写真・・・というか写真じゃないですよねこれ。
南北戦争の頃なら写真がなくても納得しますが、
ベトナム戦争の軍人がどうしてこの肖像画?

というのはともかく、サボー軍曹は陸軍空挺隊所属です。

サボー軍曹の部隊が偵察任務を行っていたとき、待ち伏せによって
四方から多数の敵が襲いかかってくるという事態になりました。

まったくためらうことなく空挺団の精鋭であるサボー軍曹は
(スペシャリスト・フォー、特技兵)敵に向かって突撃し、
瞬時に数人の敵兵士を殺害し、その後すぐに敵を側面から攻撃し、
敵を最終的にたった一人で退却させました。

すげー・・・ランボーみたい。

■ 名誉勲章

【単身突入の勇気】

ジョン・ウィルソン・ミニック陸軍軍曹 第二次世界大戦

ここからは殿堂の中でも大きな写真が掲げられた、つまり
「自分の命を犠牲にして仲間を守った・戦った」人々になります。

1944年11月21日、ドイツのハルトゲン近郊での敵との交戦において、
ミニックの大隊は、広大な地雷原によって前進を止められ、
敵の大砲と迫撃砲の集中にさらされた。

ミニックは志願して4人を率いて有刺鉄線を破壊し、地雷原を突破、
機関銃の発砲を受けると彼は部下に避難を命じたうえで単身突入、
敵2人を殲滅、他の3人を捕虜にした。

その上で再び単独で前進、さらに20人のドイツ兵を殺し、20人を捕獲。
さらに前進し、大隊を有利な位置へ導くも、次の移動中に地雷を踏んで爆死した。

【俺しかいないから俺がやる】

ウイリアム・E・シャックJr. 海兵隊軍曹 朝鮮戦争

パープルハートと名誉勲章を受けた人物を紹介する写真として、失礼ながら
これしかなかったのか?とつい思ってしまうシャックJr.2等兵の肖像です。

Wikiをみると同じ写真が掲載されているので、本当にこれしかなかったのでしょう。

受賞理由:
小隊の攻撃中、敵の小火器、手榴弾、大砲、迫撃砲の壊滅的な弾幕にさらされ、
痛みを伴う負傷を負ったが、医療処置を拒否し、戦闘任務を行った。

指揮官が負傷したあとは躊躇なくライフル分隊の指揮を受け継ぎ、
敵位置にさらに2つの大胆な攻撃を行い、再び負傷するが、避難を断固として拒否し、
すべての死者と負傷者が避難するまで激しい砲火の下最前線にとどまった。

そして最後の犠牲者である同僚の遺体の搬送を支援している間に、
敵の狙撃弾によって致命傷を負った。

25歳で戦死した彼の未亡人に名誉勲章を授与したのは、
当時副大統領であったリチャード・ニクソンでした。

 



続く。

 


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