博物館の一部に空母を再現した空母「スミソニアン」のハンガーデッキに
並べられた艦載機の紹介、続きと参ります。
まず冒頭写真は皆様ご存知の「ワイルドキャット」ですが、
その前に、一緒に写り込んでいる家族、特にお父さんの佇まいに
「いい意味でアメリカ人らしくない」オーセンティックさを感じますね。
(8月のアメリカでTシャツ短パンビーサンプラス野球帽という
アメリカン・スターターセットを着用していない男性も珍しいという意味です)
息子二人の格好もその辺のガキじゃなくてキッズとは少し違うし、
どういう職業の人なんだろうなーと興味深く思いました。イギリス人かな。
さて、彼らが前に立っているのが、空母「スミソニアン」艦載機の
イースタン・ディヴィジョンEastern Division FM-1
(グラマンF4F-4)ワイルドキャットWildcat
です。
自慢ではありませんが、自称かなりの機体音痴であるわたしですら、
グラマンの「猫」であることがわかってしまうこの独特のシルエット。
このいかにも鈍重そうなずんぐりしたシルエットが表すように、
ルロイ・グラマンのF4Fワイルドキャットは、第二次世界大戦中の戦闘機で
最速というわけではありませんでしたし、もとより最新でもありませんでした。
しかし真珠湾攻撃が起こった時、ワイルドキャットのパイロットたちは
雄々しく立ち上がり(スミソニアンの説明ですので念のため)、ともに手を携えて
当時無敵であった帝国日本空軍
(スミソニアンの説明ですので念のため)を阻止したのです。
さて、太平洋で戦争が勃発した頃、グラマンF4Fワイルドキャットは、
アメリカ海軍と海兵隊が運用する主要な戦闘機となっていました。
1942年までに、アメリカ海軍戦闘機のすべてががF4Fとなっていて、
ワイルドキャットのパイロットは、他のどの敵機よりも頻繁に
三菱A6M 零式艦上戦闘機 ZERO
を操縦する日本のパイロットと対峙することになりました。
スペック的に優れた零戦は、まともに対決するとF4Fを打ち負かすことができましたが、
ワイルドキャットの重火器と頑丈な構造は、熟練したパイロットによって
能力以上の結果を出すことができ、結局零戦に対し有利となったのです。
■ F4F ワイルドキャット誕生までの経緯
1930年代半ばまでに、世界のすべての主要なエアアームの複葉機が
高速で馬力のある単葉機に次々と置き換えられていきました。
グラマンのチーフデザイナーであるウィリアムT.シュウェンドラーが率いるチームは、
最初のグラマン単葉戦闘機XF4F-2を開発しました。
しかしグラマンの開発試験期間があまりに長期に渡ったので、
待ちきれなかった海軍は、
1936年に、アイミツではありませんが、ブリュースター(ブルースターとも)
エアロノーティカルと試作競争させ、こちらを採用することにしました。
つまり、アメリカ初の単葉戦闘機は、
ということになります。
ど〜〜〜ん
こちらも猫に負けず劣らず不細工ですが、これがとにかく
アメリカ初の引き込み脚式の艦上戦闘機となったわけでございます。
バッファローは高い評価を得、ブリュースターはこれを張り切って生産し始めたのですが、
好事魔多し、画期的な全金属式の機体は、自社生産の経験がない同社には
生産ラインの構築と工員の養成に予想外に時間を取られることになり、
海軍が受注した数百機という生産をこなすには工場規模も小さすぎたのです。
半年で5機納入、というあまりにも悠長な進捗ぶりに海軍はキレて、
「やっぱりグラマンに頼むわ#」
と掌返しをしたのです。
海軍は一旦切ったグラマンにグラマンF3Fの改良型を注文しました。
ど〜〜〜〜〜ん
F3F
前にもご紹介した「フライングバレル」、空飛ぶ樽ですね。
この複葉戦闘機を作り替えて単葉にしてくれない?と海軍は頼んだわけです。
グラマンはXF4Fを作り直し、大幅に改良されたモデルを考案しました。
バッファローを凌ぐ性能を持つ戦闘機、それがF4Fワイルドキャットでした。
そして海軍はグラマンの設計を受け入れ、F4F戦闘機の契約を行いました。
何千機と大量に生産されたワイルドキャットは、米海軍と海兵隊、
そして当時軍用機を切実に必要としていたフランス空軍に配備されました。
のちにフランスが降伏したとき、イギリスがその生産契約を引き受けました。
F4Fはフランスでは「マートレット」と名付けられ、艦載機として使用されました。
マートレット
マートレットが初撃墜の記録を挙げたのは、1940年のクリスマスです。
当ブログ的にはすでにおなじみの名前、スコットランドのスキャパフロー上空で
マートレットはユンカースJu 88双発爆撃機を撃墜し、機体は英海軍基地に墜落しました。
これは第二次世界大戦でドイツ機を撃墜した最初の米国の航空機になりました。
■ ワイルドキャットのデビュー
1941年12月、太平洋。
アメリカ軍のワイルドキャットパイロットは、
ウェーク島防衛戦において敵と遭遇することになりました。
戦闘初日となった12月8日、海兵隊航空部隊はVMF-211は、空戦の末
12機のF4F-3ワイルドキャットのうち8機を失いました。
残りの4機は2週間もの間昼夜を問わず出撃を繰り返し、英雄的に戦い、
その結果、巡洋艦と潜水艦を100ポンドの爆弾で沈めるという戦果を上げましたが、
12月22日に最後のワイルドキャット2機は撃墜されました。
太平洋戦線において、ワイルドキャットの損失の割合は
この最初のウェーク島でのそれと同様ではありましたが、
このタフな戦闘機を操縦するパイロットたちは、1機が失われるたびに
平均7機の敵機を破壊することに成功しています。
F4Fは燃料タンクに漏れ防止機能を搭載している上、防弾ガラス仕様、
そして操縦席後部の防弾鋼板を装備していました。
その機体がどれだけ丈夫であったかは、Wikiに載っている
以下のエピソードにも表れています。
1942年8月7日、ガダルカナルにおいてジェームズ・サザーランドのF4Fは
日本軍機を1機撃墜後に一式陸攻からの攻撃で被弾。
さらに3機の零戦(柿本円次、羽藤一志、山崎市郎平)に攻撃され、
機銃が故障するも機体は墜落しなかった。
その後、坂井三郎も加勢に来たが、火災発生により脱出、生還して
パイロットとして復帰した後、4機撃墜してエース・パイロットとなった。
坂井三郎氏によると、零戦の7.7ミリ銃では頑丈な同機にほとんど効果がないため、
20ミリ(重さで弾道が下を向いてしまう)を当てるために近づいたが、結局
近づきすぎてオーバーシュートしてしまい、とどめを刺すことができなかったそうです。
1943年までに、グラマンは新しい海軍戦闘機、
F6Fヘルキャット
を導入する準備ができていましたが、海軍は依然としてF4Fを必要としていました。
小型で適度な重量があるため、護衛空母で運用するのに適していたのです。
世代交代が急がれ、ヘルキャットの生産スペースを確保するため、
グラマンはワイルドキャットの製造ツールと機器を、まるごと
ゼネラルモーターズの東部航空機部門に移管しました。
そこでGMは、FM-1とFM-22つのバージョンを作成しています。
■ スミソニアンのワイルドキャット
国立航空宇宙博物館のワイルドキャットは、ニュージャージーで生産され、
1943年7月からオクラホマ州にあるノーマン海軍航空基地で運用されました。
ただし、1943年というのは世代交代が進められていた時期なので、
実際に勤務に就いていたのたった13か月の間です。
1974年、グラマン航空宇宙公社は、1976年にオープンする予定の
新しい国立航空宇宙博物館にワイルドキャットを展示することに同意し、
すでに退社していた当時のグラマンのスタッフと現在のメンバーが取り組みました。
彼らの多くは実際に戦争を体験していました。
1975年の初めに、ワイルドキャットは新品とみまごうばかりになり、
しかもほぼ飛行可能な状態であったということです。
スタッフは戦争初期に使用された米海軍の青灰色のカモフラージュを
そのまま復元するために、新しい塗料を開発しました。
マーキングは、1943年半ばに太平洋戦線に出撃した
護衛空母USS「ブレトン」
(USS Breton, AVG/ACV/CVE-23)
で運用された航空部隊FM-1の航空機番号E-10として塗装が行われました。
ところで、どうしてこの展示機にカウルリングがないのか、
ちょっと疑問に思われた方はおられませんでしょうか。
カウル「Cowl」とは、航空機の走行風を整流するために
エンジンなどをカバーする部分のことで、「カウリング Cowling」とか
「フェアリングFairing」などともいいます。
日本ではカウリングと呼ぶことが多いような気がします。
とくにレシプロエンジン搭載の飛行機でエンジンを覆うカバーが
エンジンカウル( engine cowl)です。
まだ複葉機が主流であった時代、飛行機の速度が低かったころには
エンジン本体は剥き出しになっていたものですが、第一次世界大戦後の
1920 - 30年代から空気抵抗(抗力)を低減する方策の1つとして
エンジンを覆った方がいいのではないかという流れになってきました。
同時に複葉機の時代は終わり、主翼が単葉にかわっていくにつれ、
空気抵抗が重視されるようになり、機体全体がより流線型に近づいていきます。
膠着装置を引き込み式に変えたのも、操縦席に風防(ウィンド・シールド)をつけたのも、
すべてこの目的のためでした。
ワイルドキャットに装備されていたカウルは
NACAカウル
というものです。
NACAカウルは国家航空宇宙諮問委員会 (NACA) によって1927年に開発され、
星型エンジンを搭載した航空機において使用されたカウルの一種です。
空気抵抗が低減するとその結果燃費が向上するわけですが、カウルだけでも
その効果は大きく、つまり費用対効果としても大きな利益があったというわけです。
もう一つのカウルのもたらす恩恵は冷却機能でした。
星型エンジンにはシリンダーが固定されていたので熱を持つわけですが、
NACAカウルを装着することによって冷気がシリンダーやさらに重要な
シリンダーヘッドを通るように冷気をエンジンに導くことができるとわかり、
1932年以降のほぼすべての星型エンジン搭載機に装着されていたのです。
さて、博物館取得時にワイルドキャットのエンジンの前部を覆っていた
ノーズカウルリングは、保管中、外したまま別のところに移してしまったせいか、
いつの間にか紛失してしまっていました。
空母コーナーが新設され、あらたにワイルドキャットを展示することが決まったので、
NASMの職員はあらたに展示を行うために代わりのカウルリングを探していたところ、
なんと偶然にも、バージニア州にある海兵隊博物館の「ウェーク島メモリアル」に
ウェーク島で発見された撃墜されたワイルドキャットのノーズカウルリングだけが
展示されているということがわかりました。
この写真はウェーク島メモリアルに展示されていた単体のカウルです。
ちょうどカウルリングが見つかったので、博物館側は交渉し、
なくしたカウリングにこれをつけることに一旦決定したのです。
しかしそれを受け取ったグラマンのスタッフは一眼見て絶句しました。
リングカウルにはまだ日本軍の攻撃で生じた銃痕が生々しく残っていたのです。
一旦展示機にカウリングを付ける、というところまではいったようです。
本来ならば、新品と見まごうばかりにレストアされた機体に付けるのですから、
カウリングもそれに合わせて修復するのが筋というものですが、
やはり修復スタッフにはどうしてもその銃痕を補修することができず、
当初は綺麗な機体に銃弾の残るカウリングをとりつけたと思われます。
しかし、どういう経過を経たかは全くわかりませんが、結論として
そのカウリングを取り付ける案は中止になり、本体から外して
ウェーク島の海兵隊博物館に送り返されることになりました。
傷痕はそのままこの島で戦って死んだ海兵隊員の記憶を語り継ぐものである
ということが、実物を目の当たりにした関係者一同の胸に何かを呼び起こし、
このカウルリングは遠く離れたワシントンにあるよりも、海兵隊員の魂が眠る
ウェーク島にあるのがあるべき姿だということになったのかもしれません。
カウルリングの返還後、グラマンとスミソニアン博物館のスタッフはその後の充填を諦めました。
そしてカウルのない剥き出しのノーズのワイルドキャットを誇らしげに展示しています。
ガダルカナルの戦いを経て、勝利と敗北の比率が6.9:1という成績を残しています。 続く。