空母のハンガーデッキを再現し、海軍長官に正式に就役を認証された
CVM(MはmuseumのM)「スミソニアン」。
こうして全体を写してみると、じつに空母です。
ニューヨークの「イントレピッド」、サンディエゴの「ミッドウェイ」の経験者には
この写真がどこかの博物館空母の中といわれても何の違和感も感じられません。
素材に本物の空母の内装をちょっとずつ持ってきて組み立てたわけですから、
本物っぽくて当然なのですが。
しかし、このとき、どうしてこの二階のデッキ部分に上がらなかったのか、
いまでも悔やまれて仕方がありません。
二階に上がれば、もっと本物の空母らしさを味わえたと思うのですが・・。
以前なら、また行くことがあったら次は必ず、と思えましたが、
今のこの状態では、それもいつになることやら全く予想もつきません。
まあ、このときもこれを見て十分おどろいていたんですけどね。
「本物の空母の床」です。
実際に空母(自衛隊のヘリ搭載型護衛艦含む)に乗ったことがある方なら、きっと
デッキの床に写真に見えているような膠着装置をごらんになったことがあるでしょう。
まず、この床はさすがに「どこかの空母から剥がしてきたもの」ではなく、
空母や軍艦の施工を請け負っている、
American Abrasive Metals Co.
という会社が現場に再現したもの、とあります。
会社自体は小さな規模らしく、wikiすらありませんでしたが、
社名のabrasiveというのは「研磨剤」という意味なので、
研磨することでノンスキッドの床を作る専門の企業なのでしょう。
ノンスキッド(滑り止め)デッキ表面
この床部分はアメリカ海軍の空母のハンガーデッキとフライトデッキ、
つまり航空機が収納され、そして移動するノンスキッド仕様となっています。
これは、特に雨天時に航空機や人が行き来するデッキで、
防滑性を保持する軽量の滑り止めコーティングという
アメリカ海軍の要求を満たすため、1940年に最初に開発されました。
コーティングは、エポキシ樹脂と骨材(コンクリートや
アスファルト混合物を作る際に用いられる材料のこと)でできています。
素材はデッキ表面に施され、硬化して堅いコーティングとなりますが、
同時に、研磨剤としての骨材が樹脂基盤の上に突き出るようになって、
これが滑り止めとしての機能を保持するのです。
軍艦を見学したことのある人なら必ず見たことがあるはず。
溺者救助用担架ですね。
それと、皆普通に見逃していますが、115v アウトレット、
と書かれた左上の「艦内区画」を表す部分に
「GALLARY DECK」(展示室デッキ)
と軍艦の中と同じような調子で書かれています。
また、担架の横の非常用の医療器具ケースですが、
拡大してよくよく見ると、留め金がありません。
本当に中に何か入っているわけではなさそうです。
電気のコードは本物で、ここから電源を取っているようです。
■ ダグラスA4D-2N / A-4Cスカイホーク SKYHAWK
ダグラスA-4スカイホークは、どんな場面にも使える軽攻撃爆撃機であり、
長年にわたってアメリカ海軍の第一線の航空機であったといっても過言ではありません。
比較的小さな機体のサイズにもかかわらず、多様な重量級の兵器運ぶことができます。
ベトナム戦争の期間を通じて、この名機は地上目標を攻撃する際の
「異常な正確さ」で知られていました。
さて、スカイホーク出現前の1950年代の初頭、傾向として戦闘機のシステムは
より複雑になり、その結果、機体の重量が増加していく傾向にありました。
ダグラス・エアクラフトカンパニーの航空機設計グループの一部は、
この傾向に懸念を抱くようになりました。
このグループを率いていたのが、あの天才エンジニアエド・ハイネマンです。
いかにもハイネマン的な風貌
エド・ハイネマンの設計哲学、それは一言で言うと
「簡素化と軽量化」でした。
彼は、軽量、小型、空力的な洗練を追求すれば
そこにおのずと高性能が加わるという信念を持っていたのです。
というわけで、ハイネマンが率いるチームは、総重量が公式仕様重量の、
なんと約半分である30,000ポンド(14トン)の新しい攻撃機を提案しました。
海軍はこの設計を受け入れ、初期契約を結びました。
1952年6月のことです。
■ ハイネマンの”ホットロッド”
それではハイネマンは、どうやって機体の軽量化を実現したのでしょうか。
まず一つは翼の形態です。
この「空母スミソニアン」のハンガーデッキに展示されている、たとえば
グラマンのワイルドキャットのように、一般的なそれまでの艦載機は、
艦載機用のエレベーターに乗せるため翼が畳めなくてはなりませんでしたが、
スカイホークの翼はデルタ型で畳まなくてもエレベーターに載せられます。
翼の重量だけでなく、画期的だったのは、従来の爆弾倉を省略し、
外部兵装は翼の下のパイロンに吊って運ぶという仕様でした。
これで航空機の重量そのものが劇的に軽くなり、結果的には6.7トン、
この時点で海軍の要求の半分以下の重量となったわけです。
ほんっとうに近くからしか写真が撮れないので、全体像がわかりにくいのですが、
これがスカイホークが外部兵装をパイロンに吊下した状態です。
上を飛んでいるドーントレスとの翼の違いを比べてみてください。
パイロンに吊られた爆弾の上には「フライト前に外すこと」の赤いタグがあります。
A-4スカイホークは「ハイネマンのホットロッド」と呼ばれることもありました。
この話は前にもしたことがありますが、Hot Rod というのは1930年代に生まれた
アメリカのカスタムカーの一ジャンルです。
アメリカ男性の「少年の夢」を叶えるともいえる手作りカー、ホットロッド。
このスカイホークも、軽量で工夫が効いている手作り感満載なところが、
ホットロッドに通じる「遊び心」を感じさせたのかもしれません。
知らんけど。
ホットロッドことスカイホークの初飛行は、1954年6月22日のことです。
最初のエンジン、カーチスライトJ65-W-2エンジンを積んだ最初のスカイホークは
1956年10月に海軍攻撃飛行隊VA-72に引き渡されました。
テスト飛行のプログラム中、テストパイロット、ゴードン・グレイ海軍大尉は、
500kmのコースをを時速695マイル(1120キロ)で跳び、世界最高速度を記録しました。
スカイホークは、この記録を保持した最初の攻撃機となりました。
スカイホーク試験飛行のときのグレイ大尉。
テストが終わった後、グレイ大尉を囲んで和気藹々のスカイホークチーム。
ハイネマンは・・・左のメガネの人かな?
次に開発されたスカイホークモデルはA4D-2(A-4B)で、機内給油
(レシーバーとタンカーの両方として)、動力付き舵、
およびいくつかの機能の構造強化が試みられました。
次の、1959年に最初に飛行したA4D-2N(A-4C)は、
機首にレーダーが組み込まれ、射出座席が改良されたものです。
さらに次のモデルであるA4D-5は、8,500ポンドの推力の
プラットアンドホイットニーJ52-P-2エンジンを搭載していました。
これは画期的な変化で、エンジンの低燃費性により、航続距離が約25%向上しました。
そして訓練機用にA-4Eの2席バージョンが設計されました。
ちなみにその次のA-4Fは、9,300ポンドの推力のJ52-P-8Aエンジンを使用し、
ゼロゼロ射出座席(ゼロ高度およびゼロ対気速度で安全な射出が可能)
のシステムと、コックピットの後ろの胴体のこぶの下に取り付けられた
新しい電子システムを備えていました。
という具合に毎回性能向上を淡々と行なってきたスカイホークですが、
最初から備わっていた優秀な機能は、外部兵装種類を選ばないことでした。
初期のA-4は、爆弾、ミサイル、燃料タンク、ロケット、
そしてガンポッドを3つのステーションで合計で約5,000ポンド運ぶことができ、
その後のモデルでは、5つのステーションで8,200ポンドを搭載できました。
標準兵装は、2門の20mm機関銃です。
A-4は海軍と海兵隊によって広く使用され、東南アジアでの主要な戦闘に参加しました。
(おもにベトナム戦争ということですね)
海外ではアルゼンチン、オーストラリア、イスラエルなどでも使用されています。
スカイホークが使用されていたのは2003年までといいますから、
アメリカではF-4よりも長生きだったということになりますね。
ここで、機体のペイントにご注目ください。
展示してあるスミソニアン国立航空宇宙博物館のA-4Cスカイホークは、
1975年7月に海軍から譲渡されたものですが、移管の直前まで
USS「ボノム・リシャール」VA-76(海軍攻撃飛行隊)に割り当てられており、
それに敬意を表して、同じマーキングが施されています。
そういえば、サンフランシスコの「ホーネット」の見学の時、
案内してくれたボランティアのヴェテランが、元パイロットで、
ベトナム戦争時代に現役だったのですが
(現役の時はさぞかし、と思うくらいイケメンの爺ちゃんだった)
彼の着ていたボマージャケットに「ボノム・リシャール」のワッペンがあったので、
案内が終わってから、
「ボノム・リシャールに乗ってたんですか?」
と聞いたら、ちょっと、というかかなり驚いた顔をされたことを思い出しました。
(大抵のアメリカ人は『ボンホーム・リチャード』と発音するからだと思う)
このヴェテランも、確かスカイホークに乗っていたと言っていたような気が
(違っていたらすまん)するのですが、もしかしたらもしかして、
その人の乗ったことのある機体だったりしないかな。
ここに展示されているスカイホークが、「ボノム・リシャール」勤務時代、
1967年のベトナム沿岸で出撃するところです。
テールのフックが艦上のワイヤをひっかける「最後のアプローチ」の瞬間です。
■ 慈善家となったワイルドキャットのパイロット
このハンガーデッキで紹介されていた一人のパイロットがいます。
ロバート・ウィリアム”ビル”・ダニエルズ(1920−2000)
アメリカ人パイロットであり、ケーブルテレビの創始者であり、
そして傑出した慈善家でもありました。
輸送パイロットとして彼はキャリアをスタートさせました。
写真はF8Fベアキャット戦闘機を輸送する任務のときのダニエルズです。
第二次世界大戦時、彼はグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機のパイロットとして
1942年には連合国の北アフリカ進攻作戦に参加、そして翌年には
ソロモン諸島での戦闘に加わりました。
そこで当展示室のワイルドキャットがすかさず登場。
空母「サンガモン」乗組の第26戦闘機隊の一員として
護衛任務にも就いたことがありました。
左の赤いリボンのものはブロンズスターメダル。
これは、1944年11月25日、USS「イントレピッド」に、2機の
日本軍機が特攻を行った後、海面の乗員を救出したことに対する受賞です。
右の青いリボンはエア・メダル。
第二次世界大戦中、航空任務を遂行した勇気をたたえる意味で授けられました。
彼が第二次世界大戦中着用していたゴーグルとヘルメットです。
戦後、1953年にダニエルズは彼の最初のケーブルテレビ事業を起こし、
その後は全米の100箇所以上の現場に自ら出向いて指揮を執りました。
戦前は無敗のゴールデングローブ・ボクシングチャンピオンであり、
スポーツ番組に焦点を当てた最初のケーブルテレビ起業家でもありました。
また全米バスケットボール協会の会長を務め、
ロスアンジェルス・レーカーズなどのチームを持っていました。
そして数え切れないほどの慈善寄付をした無私の人道主義者として知られています。
死後、彼の全財産は「ダニエルズ基金」として地域で最大の慈善財団になりました。
続く。