スミソニアン博物館の空母展示、館内に艦内を再現し、
パイロットのレディルームを再現しただけではありません。
ちょっとした「空母の歴史コーナー」が展開されていました。
■ 史上初の軍艦での離着艦
このブログでも何度か取り上げたことのある、
ユージーン・イーリー(Eugene Ely)がUSS「ペンシルバニア」に着艦した瞬間です。
自動車のセールスマンだったイーリーが歴史に残る飛行家になったのは、
たまたま彼が飛行機の操縦を始めた時期にカーティスに出会い、さらに
海軍の初期の軍事的野望をかなえる計画の段階に関わったからといえます。
最初の実験は軍艦からの離艦でした。
カーティス・プッシャーというこの飛行機をの写真を見ると、
よくもこんなもので空を飛ぶ気になるなというくらいデンジャラスです。
しかもパイロットの服装がスーツに革靴、身を守るものが
上半身に巻いた自転車のチューブと皮のゴーグルっていうね。
USS「バーミンガム」で行われた史上最初の航空機離艦実験の瞬間です。
ランディングする甲板が下向きになっているのはツッコミどころ?
これじゃ飛行機は普通落ちますよね。
と思ったらこの後想像通りカーティス・プッシャーは下降し、
車輪が海面に取られてイリーは水浸しになりながらなんとか海岸に着陸しました。
しかし、これが記録としては史上初の発艦ということになりました。
発艦が完璧なものではなかったにもかかわらず、海軍は
今度はさらに難問である着艦に挑戦することになりました。
「ペンシルバニア」の甲板には、着艦ロープが何本も
砂袋に繋げられて飛行機の制動を止めるために設置されています。
飛行機の機体にフックをつけ、甲板のロープをひっかけて止める、
という着艦のセオリーはこの時に生まれ、現在も変わっていません。
カーティス・プッシャーもホーネットも、理論としては同じ方法で着艦しているのです。
これが1911年1月のことです。
わずか9ヶ月後、「死ぬまで飛び続ける」と豪語したイーリーは
その言葉通りUSS「メーコン」からの着艦エキジビジョンの際、
機体が着艦失敗して海に落ちる前に甲板に飛び降り、首の骨を折って死亡しました。
「観客は記念品を求めて残骸に群がり、手袋や帽子を綺麗に持ち去った」
という嫌な逸話が残されていますが、彼の手袋と帽子は
おそらく彼とともに甲板にあったものだと思うし、
この写真によると皆残骸を遠巻きにして眺めていますよね。
「手袋と帽子を持ち去った」
のは、甲板にいた人のような気がするのですが、まあどうでもいいか。
■ 最初の空母
空母「ラングレー」USS Langrey CV−1 1922
と写真を出したところでなんですが、「ラングレー」は実は
アメリカ海軍最初の航空母艦ではありません。
実は石炭輸送船を改造した「ジュピター」が最初となります。
全長165mで排水量1万1千トン、航空機の格納とマシンショップのために
十分なスペースがあるとされていました。
その後ノーフォーク海軍工廠でフライトデッキや艦載機エレベーターに
様々な改装が試みられたすえ、USS「ラングレー」が1922年に誕生しました。
「ラングレー」の名前は、偉大な天文学者であり、第三代スミソニアン協会会長の
サミュエル・P・ラングレーに敬意を表して付けられました。
就役後何年にもわたって「ラングレー」は、初期の海軍航空の基礎、
戦略やその組織を含む体制づくりに大きな成果を残しました。
1937年にはUSS「テンダー」(航空輸送艦)に改造されて就役していましたが、
1942年2月27日、ジャワで陸軍の飛行機を輸送中日本軍の攻撃によって沈没しています。
空母「レンジャー」USS Ranger CV-4 1934
1920年代の終わり頃、アメリカ海軍は「ラングレー」、「レキシントン」
そして「サラトガ」の三隻を保有していました。
その3隻の運用経験は初めて空母として起工されることになる
次世代の空母USS「レンジャー」に生かされることになります。
1934年の6月4日に命名が行われた「レンジャー」は、わずか1万4千500トン、
最高速度は時速55kmで、米国で最も遅い「艦隊」空母という特徴?がありました。
排気は、飛行中に水平位置にスイングできる6本の煙突(3本は横)
によって払われるという仕組みになっています。
実際のところ「レンジャー」の低速、装備兵器の少なさ、そして限られた武器庫などは、
彼女が太平洋の戦線にでることに向いていたとはとても言えませんでした。
しかしながら、彼女は第二次世界大戦に突入した1942年、大西洋艦隊にあって
北アメリカで効果的に戦い、さらにアメリカ軍の侵攻作戦をサポートし、
戦争期間、最後は練習艦として任務を全うしました。
■ 開戦時の空母事情
最初の空母は1917年から1920年半ばまでに装備されましたが、
アメリカにおける初期のそれらは巡洋艦や商船、補助艦などを改造したものでした。
この期間、大英帝国ではH.M.S「ハーメス」が最初の空母として建造されています。
1922年のワシントン会議の結果、当時の海軍保有国はいずれも
戦艦と巡洋艦から改造された第二世代の空母を保有することになります。
その時点で米国、英国、日本に2隻、フランスに1隻、つまり
世界には7隻の空母が存在していました。
そしてそれらの中でも当時空母「レキシントン」「サラトガ」は、世界でも最大、
かつ最強の軍艦とされていました。
空母 レキシントン USS Lexinton CV-2
空母「サラトガ」USS Saratoga CV-3 a.k.a "Sara-maru"
1930年代になると艦載機のオペレーションを最初から目的として建造された
空母第三世代が登場します。
しかし英国は1939年から1941年、といっても特に1941年の12月までに
10隻の空母を敵との交戦によって失うことになり、
アメリカが戦争を始めた頃の空母保有数は、
日本ー9隻
英国ー8隻
アメリカー7隻
という状態でした。
ここにモニターがあっていきなり日の丸が現れたので、
おお!と注目してしまいました。
ここで放映されていたフィルムは、当時の3主要海軍が
1941年12月7日当時運用していた空母を紹介しています。
フィルムで紹介されていたのは「翔鶴」に続き、
「瑞鳳」。
しかしこうして漢字で表す日本の軍艦の名前って、なんて美しいんでしょうか。
わたくしごとですが、MKの名前にはこの時代の空母に使われている
ある漢字が含まれていて、このことをわたしはすごく気に入っています。
(本人はそうでもないらしいけど)
■ 真珠湾攻撃当時における日米主要人物
空母というものの歴史を語ろうとすれば、日本海軍について触れないわけにいきません。
この分野で日本は先陣を切り、当時は先に進んでいたということもできます。
帝国海軍聯合艦隊司令 山本五十六
まずはご丁寧に人物紹介から始まりました。
あくまでスミソニアンによる解説をとご理解ください。
真珠湾を奇襲するという計画は、海軍航空隊の組織と管理に精通した、
海軍航空隊の確固たる支持者である山本提督の発案でした。
山本は、その少し前である1940年、イギリス艦隊がタロントにおいて
イタリア艦隊を攻撃し成功したのからこの攻撃の着想を得ています。
彼はアメリカの工業力と戦争遂行のための潜在能力を知悉しており、
敬意も抱いていたことから、開戦には当初反対の立場でした。
山本元帥は1943年4月18日、ソロモン諸島上空で乗っていた航空機が
ガダルカナルのヘンダーソン基地から飛び立ったP-38戦闘機に撃墜され、
戦死しています。
淵田美津雄帝国海軍少佐
淵田少佐は第一艦隊の空母航空隊の指揮官であり、真珠湾攻撃の第一陣となる
183機の艦載機を率いて飛びました。
淵田は1924年海軍兵学校を卒業し、この攻撃までに
飛行時間は3000時間に達したベテランでした。
この奇襲攻撃に際して淵田が発したドラマティックな通信文は
「トラ・トラ・トラ(Tiger...Tiger...Tiger)」
でした。
淵田はこの攻撃で得た栄達とともに戦争中海軍に仕え、
終戦の時には大佐とし海軍総隊兼連合艦隊航空参謀となっていました。
あの、「トラ・トラ・トラ」って、タイガーのことじゃないんですが・・。
あれはハワイ奇襲攻撃作戦の間だけ使用する通信略語として、
「ト」の次に「ム・ラ・サ・キ」(紫)をつけて作った
「トム」「トラ」「トサ」「トキ」
の四つの略語のうちの「トラ」に、たまたま「奇襲成功」の意味が当てはめられただけで、
実際には深い意味はなかったっていうじゃありませんか。
淵田大佐はああいう人なので()自分の干支が寅ということから
こいつは縁起がいいわいと普通に喜んでいたそうですが、
これが、
「トサ・トサ・トサ」
「トキ・トキ・トキ」
になる可能性だってなきにしもあらずだったわけです。
もし
「トム・トム・トム」
だったらアメリカ軍は、これはアメリカ人を表すよくある名前の連呼、
つまり『アメリカ人をやっつけろという意味』だとか言ってたかもしれません。
しらんけど。
南雲忠一帝国海軍中将 第一航空艦隊指揮官
真珠湾攻撃の機動部隊を指揮しました。
南雲は水上艦勤務が長く、巡洋艦、戦艦、駆逐艦艦長の経験を積み
艦乗りとして高く評価されてきた指揮官でした。
彼は大成功となった真珠湾攻撃に続き、インド洋と太平洋南西における
連合国への空母攻撃を成功させました。
南雲提督は最終的に中部太平洋方面艦隊司令長官として
1944年8月、サイパン攻撃の際洞窟において自決しました。
続く。