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真珠湾攻撃と日本軍機のいろいろ〜スミソニアン航空宇宙博物館

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スミソニアン博物館の空母展示では、世界初めての
空母機動部隊による奇襲となった真珠湾攻撃に始まり、
日米の第二次世界大戦の空母艦隊戦について
けっこうなボリュームを持って紹介されていました。

今日は真珠湾攻撃の続きです。

真珠湾攻撃の日本軍オペレーションが大地図で紹介されていました。

皆さんもご存知の経緯ですが、赤い動線について説明しておくと、

●1 単冠湾から出発(地図上部)

●2、3 3400マイルで12/3に到達

●4 12月8日

先遣部隊 潜水艦27

打撃部隊 空母6 駆逐艦9

補助部隊 戦艦2 巡洋艦3 潜水艦3

●5にて航空機回収

●6「蒼龍」「飛龍」「利根」「筑摩」駆逐艦群はウェーク島攻撃の補助のためここで別れる

●7 12月21日〜28日 ウェーク島攻撃

●8 帰還

左下の赤い台形で囲んだ部分が本作戦の行動範囲ということです。

ところで黄色でハイライトを入れた部分ですが、
日本の潜水艦って5隻の特殊潜航艇とそれを運んだ母潜水艦しかいなかったんじゃあ・・・。
27隻って本当にそうだったのかしら(調べてません)

 

ハワイ・オペレーション

日本軍が1941年12月7日を奇襲決行日に選んだ理由は、
アメリカ艦隊が週末でそのほとんどが入港していたからだといわれます。

空母機動部隊から発進した航空機はオアフ島の軍事施設を攻撃し、
潜水艦の部隊は我が軍艦を破壊するために島の周りに配備されました。

いやだからそんなに潜水艦いたんですかって聞いてるんですけど。
この書き方だと本当に潜水艦が27隻来ていたみたいですが(調べてません)

オアフへの攻撃中、2隻の駆逐艦がミッドウェイの構造物を砲撃しました。

ミッドウェイ島を日本の駆逐艦が攻撃したってことでOk?

国際法に従い、宣戦布告はワシントン時間午後1時(ハワイ時間8:00a.m)、
ハワイ攻撃の30分前に米国政府に提出されることになっていました。

しかし、暗号解読とタイピングに時間がかかり、手交できたのは
ワシントン時間の午後2時20分となってしまい、1時間25分の遅れとなりました。

開戦通知の遅れの原因は、そもそもこの非常時に人がいなかったこと、
そして(アメリカ人にはとても理解できないことかもしれませんが)
もっとも時間がかかったのは、英語への翻訳で揉めていたためだったと言われていますね。

 

わたしなど多少プロトコルに則っていなくても意味さえ通じればいいから、
ちゃっちゃとメモみたいなのでも渡しておけばよかったのにと思うんですけど。

日本人の英語が下手な原因は、間違えるのを恥ずかしがるあまり、
文法を組み立ててからしゃべるせいだという話もあるくらいですが、
このときの大使館にもその傾向を見る気がするのはわたしだけでしょうか。

それはともかく、開戦通知遅れについては当時ハル長官は
卑怯な騙し討ちだと怒り、散々これをプロパガンダに使ったわけですが、
現在ではちゃんとそのときのお粗末な遅延事情が(正確にではないですが)
少なくともスミソニアンには(ということは一般的な歴史認識として)
ちゃんと伝わっているようでよかったです。

なお、地図の下部には日米軍双方の戦力が記されています。

発進

第一波である日本海軍のB5N2 「ケイト」艦上爆撃機が
真珠湾攻撃を行うため空母のデッキからテイクオフしています。

攻撃軍はオアフ島の北370キロ沖の発艦ポイントに早朝6時に到達し、
そして1時間15分後、嶋崎重和中佐率いる第二波の攻撃グループが発進しました。

スミソニアンの記述に出てくるこの嶋崎中佐は、あまりに有名になった
淵田指揮官の高名に霞んでしまい、ほぼ無名といっていいのですが、
ここではちゃんと名前が明記されています。

Shigekazu Shimazaki cropped.jpg嶋崎少将(最終)

嶋崎重和は昭和20年1月、第3航空艦隊司令部付となった翌日、
台湾方面で戦死し、戦争が終わってからその年の末に
二階級特進して海軍少将に任ぜられています。

 

「真珠湾空襲、演習にあらず」

50席以上の艦船が埠頭に錨を落とし、休んでいる、
典型的な戦前の真珠湾の写真です。

この写真の港中央に見えているのがフォードアイランドで、
ここには戦艦が島の左側に並んで係留されていました。

陸軍の航空基地であるヒッカム飛行場は、この写真の
メインの海岸線に沿って画面の外に行ったところにあります。

映画「ファイナルカウントダウン」で有名になった(かもしれない)写真。

何かのはずみで何の必然性もないのに真珠湾攻撃の日にタイムスリップした空母が、
そのまま普通に現代に帰ってきてバタフライエフェクト起こしまくる怪作でしたね。

なんかわからんけど偵察機を出したら偵察員が撮ってきたという設定の写真がこれで、
なわけあるかーい!とツッコミがいのある映画でした(遠い目)

 

この写真が歴史的なのは、真珠湾攻撃のその日、
攻撃をしている日本軍の航空機から撮られたものだからです。

画面奥には炎上するヒッカムフィールドが確認できます。
そして7隻の戦艦がフォード島沿岸に沿って係留されているのが見えます。

"AIR RAID PEARL HARBOR-THIS IS NO DRILL"
(パールハーバーは爆撃を受けているーこれは訓練にあらず)

真珠湾に爆弾が落とされると同時にこのメッセージは全ての部隊に発せられました。
これらの写真は米国太平洋戦艦部隊のほぼ完全な壊滅を劇的に示しています。

時代の終わり

パールハーバーの悲劇から最も逃げるべきであった戦闘艦は、
つまり敵の第一目標である三隻の空母だったということになりますが、
「エンタープライズ」はウェーク島に海兵隊航空隊を輸送して帰還中、
「レキシントン」は偵察爆撃機をミッドウェイに届けてやはり帰還中、
そして「サラトガ」は本国の西海岸にいたため三隻共に無事でした。

たった二隻を残してほぼ全部が何らかの損害を受けたのが戦艦群でした。
(その二隻とは『アリゾナ』と『オクラホマ』)
彼女らは最終的に戦争が終わるまでに全部艦隊に戻ることができたとはいえ、
真珠湾は、空母が海上での戦争で主力艦として戦艦に取って代わるきっかけでした。

物理的にも、そして相手から得た戦略的教訓としても。

U.S.S. 「カリフォルニア」

五発の魚雷を撃ち込まれた「カリフォルニア」はゆっくり泥中に着底します。
写真の一番右に「オクラホマ」の艦隊が微かに確認できますが。
この艦は横転しマストが泥中に突き刺さるように沈没し、
415名の乗員が亡くなりました。

U.S.S 「ウェストバージニア」

「ウェストバージニア」から立ち昇る黒煙、そしてボート。
この写真で見ると、ボートのエンジンは白波を立てており、
今から「ウェストバージニア」に向かうのであろうことがわかります。

半ダースの魚雷が撃ち込まれ、そのうち二本が命中して炎の中海底に沈み、
艦内では105名の乗員が亡くなりました。

 U.S.S 「ネバダ」

「ネバダ」はフォード島に単独で係留されていました。

他の7隻の戦艦が攻撃を受けている間、「ネバダ」にも魚雷が命中し、
航空爆弾も二発うけたにもかかわらず、どうにか始動することができました。

ネバダの航行ルート

「ネバダ」は湾を出ようとしている間に爆弾を受けましたが、
入江で沈没し湾を塞いでしまうことを懸念し、
ホスピタル・ポイントで自力で座礁して沈没を回避し、
タグボートによってワイピオ・ポイントに再度座礁しています。

「ネバダ」の乗員は50名が死亡し、109名が負傷しました。

 

航空基地

オアフ航空基地

真珠湾の艦船が実に「システマティックに」破壊されていく間、
オアフの航空基地もまた攻撃下にありました。

このOS2U偵察機はフォード島の航空基地で破壊された
海軍と海兵隊の数多くの航空機のひとつにすぎません。

オアフ島の北側にあるカネオヘ湾と、パールハーバー近くのエワでも
爆撃などに遭い多くの航空機が発進できなかったり壊されたりしました。


■ 日本軍機模型

三菱 A6M3 零式艦上戦闘機”ジーク”

さすがはスミソニアン、あの世紀の迷作、マイケル・ベイの「パールハーバー」には
緑で塗装した後期の零戦が、この20型と混じって仲良く飛んでいましたが、
模型は真珠湾コーナーであることもあって当時のバージョンです。(当たり前か)

あれは映画撮影時、アメリカ国内に現存する可動機を動員し、
実際に飛ばせることに拘ったためあんなことになってしまったようですね。

今ならCGでどうとでもなるので、お金をわざわざ払ってこんな愚を犯す監督はいません。

中島 B5N2 九七式艦上攻撃機 ”ケイト”(左)

真珠湾攻撃の時日本軍機にも迎撃された艦載機があったわけですが、
第二波でもっとも損害が多かったのがこの九七式でした。

水平爆撃を行うというその攻撃特性上、低空飛行で比較的速度が遅く、
大きな機体であるため地上からの砲撃を受けやすかったのです。

特に未帰還機が多かったのは第二波攻撃陣でした。

中島一式戦闘機キ431 隼 ”オスカー”(右)

「♫は〜やぶ〜さ〜は〜ゆ〜く〜」

という歌でも有名(名曲だよね)ですが、この戦闘機を有名にしたのは
「隼」という愛称が一助を担っていたことはまちがいありません。(と思う)


最初単に「一式戦闘機」という名称だった戦闘機に、

敵連合軍の「バッファロー」や「ハリケーン」のようなニックネームが欲しい、
という声を受け、陸軍航空本部発表の正式な愛称として
一式戦は「隼」と命名(発案者は陸軍航空本部報道官西原勝少佐)、
太平洋戦争開戦まもない1942年3月8日には
「新鋭陸鷲、隼、現わる」の見出しで各新聞紙上を賑わした。Wiki

名前って大事(確信)

三菱 G4M1 一式陸上攻撃機 ”ベティ”

海軍の主力攻撃機となった一式陸攻です。
急降下爆撃を行えるものを「爆撃機」、そして水平爆撃を行うものを
「攻撃機」といい、これは日本軍同時のカテゴライズでした。

爆撃機の搭乗員は気質が荒っぽく、攻撃機は紳士的、などという傾向を
海学徒士官出身の映画監督、松林宗恵氏が対談で語っていましたっけ。

愛知 E13A1 零式水上偵察機”ジェイク”

略して「零水」は初期の空母・戦艦・巡洋艦・潜水艦に偵察の要して開発され、
基地にも配備されて艦隊や外地の基地の目として盛んに活動しました。

大戦の序盤はそれなりの成果を納めていましたが、昭和18年以降は
「下駄」と呼ばれたフロートによる速度不足・加速力不足のため、
敵のターゲットとなり情報活動が不可能になっていきました。

川崎二式複座戦闘機 キ45改 屠龍 ”ニック”

「屠龍」といえば想起するのが本土防衛におけるB-29との戦闘です。
巨大な竜つまりB-29を屠る、というその名前も鮮烈なイメージ。

 

■Aftermath(余波)

午前10時までに、最後の日本の攻撃隊は海上で待機中の空母に向かって航行し、
4隻の戦艦が沈没または撃破、4隻が沈没、3隻が駆逐艦が沈没、
2隻の巡洋艦が深刻な被害を受け、いくつかの小型艦艇と補助艦が被害を受けました。

そして2008名の海軍関係者を含む合計2403人のアメリカ人が犠牲になりました。
(なんだかんだ一般人多かったんですね)

しかし、真珠湾の修理施設、石油タンクを破壊できなかったのは
日本軍の大きな誤算となりました。
そして、このことは米海軍の早急な回復の主要な要因となったのです。

さて、というわけで真珠湾攻撃コーナーがおわりました。

となると次は当然・・・・・?
そう、あれですよあれ。

ミッドウェイ海戦です。

 

続く。

 

 


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