Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2816

映画「燃ゆる大空」〜死生一如と軍人勅諭

$
0
0


さて、いつの間か一つの映画を語るのに一日では終わらなくなったわけですが(笑)
いくらなんでも今日を最終回としたいと思います。



「お前たちは佐藤と一番仲良しだったな」
「ハイ、自分たちは、田中と、佐藤と一番仲良しでした」

軍人同士の会話なのに「仲良し」という言葉が出てくるのが何とも切ない。

彼らは決して死を恐れているようには見えませんが、仲間の死には
人目を憚らず涙を流し、

「馬鹿野郎!佐藤のやつ死んじまいやがって」

 と叫んだりします。
国のために命を捧げた戦友を「うらやましくあります」
と言いながら、やはり慟哭せずにはいられない。

この映画は、国策映画でしかも陸軍省の検閲済みですが、それでもなお、
人間の感情の普遍性を決して否定しているわけではありません。 

軍人としての覚悟は覚悟として、決して非人間的な冷徹を強要するものではない。
もちろんこれは映画ですから「建前」もあったとは思いますが、
それを考慮しても日本軍が決して「非情の部隊」ではなかったらしいことを、
わたしはこういった表現の数々から汲み取るものです。


佐藤兵曹長の死に様は「戦意を殺ぐ」という理由でカットされたのではないか、
と前回のエントリで大胆にも推測してみました。
かたや、山本隊長と残された二人が英霊に黙祷するシーンは、
セリフも音楽もないにもかかわらず、結構な長尺で残されています。
これもまた「陸の荒鷲の英霊に捧ぐ」という映画の主眼にそった選択でしょう。

もう一つ気づいたことがあります。

佐藤、そして田中の死を語るときにも、彼らは決して自分の敵
(この場合は中国軍ということになりますが)について決して触れようとしないのです。

「今頃極楽で『武士の本懐だ』と皆で祝賀会をしているよ」

そのようなことを言いこそすれ、敵に対する恨みや復讐に言及しない。
これは、かれらを当時の日本軍の「理想たる軍人」として描いたからでしょうか。 

 

航空兵同士の雑談中の、

「敵の操縦士が仰向けになっているとかわいそうになってなあ」
「武士の情けってやつでな」
「俺たちがやられたとき敵がお前をかわいそうだと思ってくれるっていうのか?」
「しかし俺もいつか落下傘で降りてくるのをどうしても撃てなかったよ」
「お前ら、落下傘で降りてくるのは操縦士なんだから、
そんなこといってるとまた舞い上がってお前たちの土手っ腹に風穴あけるんだぞ」

とか、

「佐藤は元気者だから、案外シナさんの飛行機ぶんどってるかもしれんぞ」

などと言うセリフからは、相手に対する敵愾心は殆ど感じられません。
むしろ、妙に淡々として(これは自らの死についてもそうですが)、戦争と言っても
自然災害のように飄々とそれを捉えていると言った感があります。 


その時代を知っているわけでも、ましてや戦ったわけでもないので憶測ですが、
彼らの戦争に対する向き合い方は「武士の覚悟」の上に立った
柔らかな現実逃避のようにすら見えるのです。


佐藤の死が判明した夜、二人は木の根に腰掛けて歌います。
あの、「故郷の空」を・・・・。

そこにやってくる稲葉特務少尉。

「泣いとったなお前たちは・・・。
泣くな。佐藤は死んじゃおらん。
我々軍人は七たび生まれ変わってお上にご奉公申し上げるんじゃ」

「よくわかりました」

考えようによっては全く科学性に欠けるこの言葉が、
不思議と聞いているものには大いなる真理のように心にしみます。

なぜか。

「死生一如」(しせいいちじょ)というのは荘子の言葉です。
生ずれば滅し滅すれば生ずる。

次のような言葉を、前半で山本隊長がこう述べます。

「死に様を良くしたいのは誰にとっても願うところであるが、
良く死ぬということはまた良く生きるということである」

つまり死生一如の四文字こそが、この映画に貫かれているテーマであり、
すなわち当時の日本軍人の理想たる武士道的死生観でもあったからです。

死と生とは持続する一つのものであり、表裏一体のものである、
死を迎えた命は、生に何かを与え、生として再び蘇る。

稲葉少尉が「佐藤は死んじゃおらん」と言ったのは、つまりそういうことなのです。


そしてその次の日、敵戦闘機を迎え撃つため、攻撃隊は出撃していきます。





現れる中国軍戦闘機(に扮した九五式戦闘機)。
ちゃんと中国人パイロットに扮する役者も用意してあります。

この空戦シーンが、どうも分からないんですよ。
ドッグファイトがどう見ても本当に高高度なの。
下界の景色なんかも書き割りじゃないんですよ。
もちろん、見るからに特撮、といういうコマもあるんですが、
実際にスタントをやって空戦に見せている部分が結構あるんですよね。

何回か見ているうちに、これはとんでもなく貴重な歴史的資料なんではないか、
と思えてきましたよ、この映画。
だって、実際の九七戦の航空運動が、鮮明に残されているのですからね。

さて、中国空軍との熾烈な空戦において、ついに行本が撃たれます。



あ、これは行本ではなく、中国軍パイロットですけどね。
この空戦シーンで、山村が行本がやられるところを見ていて

「ゆきもとー!」

と叫ぶのですが、エンジンのうなり声しか聞こえてこず、
ただその口がそう言っているのが確認されるだけ。

冒頭画像も、行本機を襲撃する中国人パイロットの咆哮するシーンですが、
その声はやはり聞こえず、エンジン音があたかも彼の叫び声のように重なるのです。

阿部豊監督の演出の素晴らしさです。

戦前戦後通じて、日本の軍人の描き方が一貫してブレなかったこの監督の映画には、
随所にこのような心をつかむ表現がなされていて、決してただの国策映画に終わっていません。



空戦後、攻撃隊は行本機一機を残して帰還します。

帰還した航空隊の報告が行われます。
たった一機、帰還しなかったのが行本機であることを聞き、
山本中隊長始め一同は沈痛な面持ちで絶句し、



行本曹長機の帰還を、ただ空を見つめて待ち続けます。



燃料が切れる時間になり、捜索機を飛ばそうとしたそのとき、
基地の上空に爆音が聞こえてきます。
行本機でした。



瀕死の行本が、飛行機を基地に返すという執念だけで飛んで帰ってきたのです。



しかし、墜落シーンは割愛。
円谷英二、だから仕事しろとあれほど(略)
場面が変わったらいきなり飛行機が逆立ちしています。
おそらく、九七戦の向こうにはクレーンがあって、機体をささえていて、
前に置いてある自動車はそれを隠すためのものであると思われます。
それにしても墜落した飛行機が直立したままって、どんな状況?


それはともかく、担ぎ込まれた瀕死の行本を見守る隊員たち。
女性集客目的でキャスティングされた長谷川一夫が演じる大橋大尉が
輸血を命じると隊員たちが必死で、

「大橋軍医殿、なんとか助けてやってください!
私の血液型はA型です!」
「私の血を採ってください!私もA型です!」
「私はAB型です!」「私はA型です」「B型です」

一通り言い終わるまで流し目しながら黙って聞いています。
一刻を争う事態にこの悠長さはいかがなものか。

そしてなぜかこの部隊には行本と同じO型が山本大尉一人だけという不思議。




場の重圧に耐えきれず一人病室から外に出る稲葉少尉。

この眞木順さんという俳優は、無名ですが、結構いろんな映画で
バイプレーヤーとして顔を出していたようです。
この佇まいが特務士官にぴったりハマって適役です。

ここで行本が昏睡からさめて皆の顔を眺め、
自分が三機撃墜したこと、そしてそのうちの一機は

「胴体に白赤緑の三本筋をつけていました。
敵二大隊の林(りん)大隊長と確認します」

というのですが、そんなことわかるのか?
だいたい、出血多量で今から死のうって人が、意識はっきりしすぎてやしないか?

「機銃は撃ち尽くして、弾が一発もありませんので体当たり戦法でいってやれと、
どこまでも追いかけまして、地上に叩き付けてやりました。
あまりいい気になって800メートルばかり上空にいた6機に気がつきませんでした。
囲まれて覚悟を決めました。
中隊長殿、先には奈良大尉以下6名が戦死され、今度は自分がまたこんな姿で帰ってきて、
士気に及ぼす影響を考えると誠に申し訳ありません。
自分は命が惜しくて帰ってきたのではありません。
中隊長殿がいつも言われるように戦闘操縦者として撃墜の汚名を着たくなかったのであります。
しかし、いよいよだめなら、いつでも突っ込む覚悟でいました。
でも敵に戦果を許したくありません。
敵に醜い死に様を見せたくありません。
なんでもかんでも飛行機と一緒に帰るのだと自分を励まして帰って参りました」

一気にこれだけを言い終える行本。
声もやたら元気だし、これだけしゃべれれば多分命に別状ないのでは、という気もします。






最後に二人だけで話をしたい、という本人の希望で、
行本の遺言を聞く山村。

「しっかりせい、傷は浅いぞ」

いや、だから浅くないって。



そしてあの名場面、今際の「軍人勅諭」。

軍人勅諭の全文は主文に続き五箇条の項目からなり、全文唱えると、
さすがの行本も言い終えないうちに死んでしまいかねないくらい長いので、
五箇条だけを唱えます。

因みに、飛行学校のシーンで、この行本が死んだ佐藤の髪を
バリカンで刈ってやるとき、佐藤がぶつぶつつぶやきながら目を通しているのが
この軍人勅諭全文であろうと思われます。

一、(ひとつ)軍人は忠節を尽すを本分とすべし。
一、(ひとつ)軍人は礼儀を正しくすべし。
一、(ひとつ)軍事は武勇を尚(とうと)ぶべし。
一、(ひとつ)軍人は信義を重んすへし。
一、(ひとつ)軍人は質素を旨とすへし。


「武士は」と言い換えても通用しますし、人の道を説く教えとしてみても、
「忠節」「武勇」ということを広く解釈すれば、一般にも広く膾炙すべき内容です。


教育勅語もそうですけどね。
戦後日本は、「軍」がGHQによって悪者扱いされたことからすっかり洗脳されて、
軍と付けば何でもかんでも廃止して来たわけですが、この勅諭、
現在自衛官が入隊時にする服務の宣誓、

これと一緒ですよね?

私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、(信義)
日本国憲法 及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、
常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、(質素、礼儀)
政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり(忠節)
事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、(武勇)
もつて国民の負託にこたえることを誓います。(忠節)

つまり国の防人の精神的な訓育なんて、戦前戦後、その根本に
何ら変わることはないわけですよ。
戦争中であっても戦う者の理想は「軍人勅諭」に見える「武士道精神の完遂」であり
決して相手に対する敵愾心や殺戮が目的ではなかったというのと同じです。

以前も書いたように、亡き小沢昭一氏なども脊髄反射で
「教育勅語」の精神を現場に復活させようとした当時の首相に(福田首相だったかな)

「正体観たりである」

なんて青筋立てて非難していますが、もう本当にこの世代の人たちって、
隅々までGHQと戦後左翼の洗脳が行き渡って、
DNAレベルの軍アレルギーになってしまっている人が多かったんですね。

そもそも、軍人勅諭も教育勅語も、誰一人としてその内容について言及せずに
とにかく「軍国主義的」だもんなあ・・・・。

これって、特定秘密保護法案の内容を全く吟味することなくいきなり一足飛びに
「戦争が始まる!」って叫んでるのと全く同じ匂いがしますね。
というか、昔からサヨクのやり方はこの「レッテル貼り」パターンだったのか・・・。




さて、映画「燃ゆる大空」シリーズ、今日で終わったつもりでしたが、
あと一回、あと一回だけ(笑)俳優や監督についてどうしても話したいことがあります。

続く。 

 

 

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2816

Trending Articles