ハインツ歴史センターのベトナム戦争展、続きです。
第二次世界大戦の日米戦の転換点は?というと、
誰でもそれはミッドウェイ海戦であった、と答えるでしょう。
(アメリカ側の『戦意』としての転換点として東京空襲を挙げる人もいるかもですが)
それではベトナム戦争の転換点はいつだったか、ということを考えたことはあるでしょうか。
■ TURNING POINT ベトナム戦争の転換点
その名もズバリ「転換点」というコーナーです。
ベトナム戦争ではアメリカは負けたというより「勝てなかった」とする説があります。
それはこのテト行勢をきっかけに国内の反戦の声が高まり、それにつれて
軍隊に厭戦気分が蔓延していく一方、北ベトナムと南の解放民族戦線の士気は落ちず、
3年も介入して戦闘が拡大していくだけの戦争はすなわち優勢などではないのではないか、
という声が大きくなってきたからです。
それではテト攻勢では何が起こったのでしょうか。
1968年には、アメリカはベトナム戦争の泥沼に深入りしていました。
最初は限定的な顧問団として派遣されたものが、数年後には米軍、
そして北ベトナムの正規軍とベトコン・ゲリラが入り乱れる本格的な戦闘に発展していました。
北ベトナムの正規軍とベトコン・ゲリラは、南ベトナム中の村々で陰で活動しており、
アメリカの情報機関はその強さと位置を把握することができませんでした。
しかし、1964年頃からリンドン・ジョンソン政権は、
「抵抗勢力は減少しており、すぐに全土が平和になるだろう」
という路線を維持していたのです。
その嘘が一掃されたのが、1968年初めのテト攻勢でした。
「なぜベトナムと国内で紛争と暴力がエスカレートしたのでしょうか?」
と書かれたバナーには、
「1968年の戦争のファクト」
としてこのような数字が挙げられています。
536,100 アメリカ軍規模
16,900 任務における死者
27,900 ARVIN 戦死者
190億ドル 戦争にかかった費用
140万トン 投下された爆弾
54% ベトナムへの派兵は失敗だったと思うアメリカ人の割合
1968年、つまりテト攻勢のあとには、半数より多いアメリカ人が
ベトナム戦争に反対していた、ということです。
■ THE TEOFFENSIVE テト攻勢
1968年1月30日〜31日。
ベトコンと北ベトナム軍は新年の停戦を破り、南ベトナムの
100以上の都市や農村部で主要な目標を奇襲しました。
これをテト攻勢といいます。
「テト」とは、「節」という漢字のベトナム語読みです。
ベトナムでは旧正月(Tết Nguyên Đán/ 節元旦)を「テト」と呼ぶのです。
キリスト教国でクリスマスが停戦になるように、南北ベトナムでは
そうと決まっていたわけではありませんが、この旧正月には暗黙の了解で
それまで戦闘を中止していました。
1968年のテトを迎えるにあたり、北ベトナムと南ベトナム開放民族戦線は、
アメリカ軍と南ベトナム軍に休戦を申し入れたのですが、
おそらくアメリカ軍の意向で拒否されました。
アメリカ軍にすれば、この休戦期間は体勢を立て直す猶予を与えるので、
ベトナム人の正月など知ったことか、というところだったのでしょう。
ところがこれが結果的にアメリカを苦境に立たせることになります。
これに怒り狂った(たぶんね)北ベトナムとベトコンの皆さんは、
奇襲となる大規模な一斉攻撃を1月29日深夜に仕掛けてきたのです。
8万人の共産党軍が一斉に国中の100以上の目標を攻撃しました。
ゲリラは、南に忠誠を誓っていると思われる地域から
多くの後方支援を受けていることが明らかになり、このことから
それまでアメリカの上層部が言っていた「勝利への前進」という言葉が
すべて嘘であることが露呈してしまいました。
奇襲攻撃は都市部と政府中心機関への攻撃によって、まず
南ベトナム政府の機能を麻痺させることを目的としていました。
このことは、ベトコンが政敵を一掃し古くからの恨みをはらす機会となりました。
北とベトコンの攻撃の規模は大きく、そして激しいもので、
アメリカと南ベトナムの政府軍はすっかり不意を突かれた形となってしまいました。
迅速に態勢を整え反撃を行い、数日以内にほとんどの都市から
ベトコンと北ベトナム軍を駆逐しにかかりました。
この時の戦闘は歴史的なフエとケサンの海洋基地で最も長く行われました。
あの映画「フルメタル・ジャケット」では、テト攻勢下行われた
この時のフエでの市街戦が描かれています。
たとえばフエでは、南ベトナム解放民族戦線が、占領した街で、
南ベトナム政府関係者を形だけの路上裁判で次々に処刑していきましたが、
その中には文民(その多くが政府職員)や修道女も含まれていました。
その処刑も、予め処刑者の名簿が作られ、殆どが後頭部に銃弾を撃ち込まれて
射殺されていくというものでした。
フエでの戦闘は数週間続き、民間人はその間、死とパニックに満ちた
阿鼻叫喚がまるで疫病のように街を覆っていくのを茫然と見るだけでした。
このとき、アメリカの人々はメディアを通じて報道された映像、
とくにテレビでこの戦闘の混乱と破壊を目の当たりにしていました。
そこでは戦闘員はもちろん、民間人の被害に遭う様子が映し出されていました。
非難する難民たち
フエではのちに集団墓地が発見されています。
ベトコンと北ベトナムは、南ベトナム政府に加担したとして、一般人民を
数千人とも言われる規模で殺害していました。
テト攻勢は、実際ハノイが期待したほど致命的な打撃を敵に与えたわけではありません。
しかし、攻撃はアメリカ人に、彼ら自身のリーダーのいうところの
「前向きな結果」というものに対する疑念を大いに高めることになりました。
なぜなら、大統領がいうように敵は弱体化しているとはとても見えず、さらには
戦争が成功裡に終結するという可能性も全く窺えないことを目撃したからです。
攻撃を行う北ベトナム陸軍、1968年。
このとき、北ベトナムの旗が寺院、市場、そして村に翻りました。
テトを祝うためです。
■CRONKITE REPORT ウォルター・クロンカイト報道
当時アメリカで最も影響力のあったCBSニュースのアンカーマン、
ウォルター・クロンカイトは、南ベトナムで米軍の攻撃について取材を行いました。
他のアメリカのジャーナリストと同様に、彼もまた政府の検閲や統制を受けない立場でした。
クロンカイトの劇的なレポートは何百万人ものアメリカの視聴者を震撼させました。
彼は戦況は膠着状態に陥った、と報告し、また、
「北への侵略、または多数の部隊の増援によって戦闘をエスカレートさせることは
世界を『宇宙規模の災害の瀬戸際に近づける』だろう」
と述べたのでした。
1968年、ベトナムからのドキュメンタリーレポートを配信するクロンカイト。
終了にあたり、彼はこの言葉を残しました。
「我々が膠着状態に陥っているということは、唯一の、
現実的ではあるが不十分な結論のようです」
■ THE EXECUTION(路上の処刑)
ベトナム戦争の最も象徴的な写真の一つです。
この一枚の写真が世界を変えました。
テト攻勢下で、南ベトナム国家警察の長官であったグエン・ゴク・ローン准将が
路上でベトコンであるグエン・ヴァン・レン(Nguyễn Văn Lém / 阮文歛)
あるいはレ・コン・ナ(確定されていない)を射殺しています。
戦時中とはいえ、処刑の瞬間はめったにカメラに捉えられることはありませんでしたが、
この衝撃的なシーンは、「負の放射線下降物」となって、瞬く間に全世界に降り注ぎました。
この写真を撮ったAP通信カメラマンのエディー・アダムズは、
この写真によってピューリッツァー賞を受賞しました。
そしてこれはベトナム戦争の大義について国民が改めて
深刻に疑問を呈し、否定的になるきっかけとなったのでした。
■ ベトナム撤退を後押ししたもの
クロンカイトの報道を見たジョンソンは、こう言ったとされます。
”If I've lost Cronkite, I've lost Middle America."
(クロンカイトの支持を失ったということは、アメリカの中間層を失ったということだ)
クロンカイト報道、そして「サイゴンでの処刑」。
この二つの象徴的なものが、アメリカのベトナム撤退を模索する方向に動かしました。
■ 処刑の『真実』
本筋を考えると、ここから先はあくまでも余談です。
「サイゴンの処刑」はアメリカを終戦に動かすアイコンとなりました。
しかし、その影で一人の軍人が犯罪者の烙印を押されたという事実を
どうしてもお話ししておかなければなりません。
サイゴンの路上でベトコンの頭部を銃撃する瞬間。
人々はその瞬間を切り取って、残虐さだけを心に留めました。
しかし、この瞬間に至るまでの経緯は、当時も今もほとんどの人が知らないことが多く、
この写真から得られるイメージとはやや違っているというのです。
まず処刑を行ったローン将軍は、ジェット機パイロット出身の非常に優秀な人物で、
人格的にも部下に慕われる司令官でした。
ありがちな縁故主義ではなく、実力で准将にまで昇進した軍人です。
さらに彼はアメリカ軍の戦闘行為を制限するために現地で部隊に介入するなど、
ベトナム人の本当の意味での主権を主張することのできる立場にある人物でした。
この「サイゴンの処刑」の朝、ローン准将は警察の分隊を率いて、
民間人の脅威となりうるベトコンを捜索していました。
そして逮捕したのが、写真の人物、グエン・ヴァン・レンです。
レン、通称キャプテン・ベイ・ロップ(Captain Bay Lopつまり軍人)は、
ベトコンを率いて、国家警察のメンバーや、その家族を殺害する任務、
つまり彼らは機会があればローン准将かその家族を殺そうとしていました。
実は、この処刑が行われる少し前、レンのチームは7名の警察官、2〜3人のアメリカ人、
そして警察官の家族など、34人を殺害しており、ローン准将と部下は、
彼らを現行犯で逮捕したところでした。
レンが殺害した被害者は全て手首を縛られ、頭を撃たれて穴に落とされていました。
被害者はローン准将の部下であり、子供を含むその家族だったということになります。
レンたちは制服を着ているわけでもなく、戦闘でもない殺害を行ったのですから、
テロの現行犯ということになり、法的にジュネーブ条約の保護を受けることはできません。
つまりこの処刑は「合法」でありローン准将には非はなかったということになるのです。
欧米の反戦運動のアイコンとなった「サイゴンの処刑」の写真は、
ほとんど偶然に撮られたものでした。
写真家のエディ・アダムスは、その日、何か面白いものはないかと探していて、
普通のベトコンの兵士が通りに引きずり出されているのを見ました。
写真を撮っておいて損はないと思い、彼は
「3人がこちらに向かって歩いてくるのを追いかけて、写真を撮った。
5フィートほどの距離まで近づくと、兵士たちは立ち止まり、後ずさりした。
カメラのファインダーに左から男が入ってくるのが見えた。
彼はホルスターからピストルを取り出して、それを構えた。
まさか彼が撃つとは思わなかった。
尋問の際、囚人の頭にピストルを突きつけるのはよくあることだった。
だから、私はその写真を撮る準備をした。
しかし、そうはならなかった。
男はホルスターから拳銃を取り出し、ベトコンの頭に向けて拳銃を構え、
彼のこめかみを撃ったのだ。
私は瞬時にシャッターを押した」
■ ローン准将のその後
ローン准将はその後の戦闘で炸裂弾を受け、病院で脚を切断しました。
一方エディ・アダムスが撮影した「サイゴンの死刑執行」の写真は、
世界中の多くの新聞に掲載され(ただしその背景には全く触れられず)、
フィルムに収められた戦争犯罪の瞬間として紹介されました。
「犠牲者」が誰なのか、なぜ撃たれたのかがわからないまま、一般の人々は、
血に飢えたサディストが民間人を無差別に殺していると思い込みました。
そしてローン准将が脚を切断後、療養していたオーストラリアの病院は、
彼の治療を拒否したため、彼はアメリカに渡って療養することを余儀なくされました。
彼はそのままアメリカに移住し、バージニア州でピザレストランを開業しましたが、
いつの間にか彼があの写真の人物であるということが噂になり、レストランに落書きされたり、
脅迫されたり、また、店を破壊されたり、トイレの個室にはこんな言葉が残されました。
"We know who you are, you f---!"
カメラマンのアダムスはこの写真でピューリッツァー賞を受賞しましたが、
彼自身、実は写真に嫌悪感を抱き、賞を受けたことにも苦い思いをしていたといいます。
この写真がローン准将の人生を破壊したと知っていたからです。
「あの写真で2人の人間が死んだ。
"銃弾を受けた者とグエン・ゴク・ローン将軍だ。
将軍はベトコンを殺したが、私はカメラで将軍を殺したのだ」
「ローン准将は真の戦士だった」
とアダムスはタイム誌に寄稿しました。
「彼のしたことが正しかったとは言わないが、その立場になって考えてみる必要がある。
写真によって人生を壊されたにもかかわらず彼は決して私を責めなかった。
そして私が写真を撮らなければ他の人が撮っただろうと言ってくれたが、
私はずっと彼と彼の家族に申し訳ないと思っていた」
アメリカではローンの陸軍病院への入院を非難糾弾し、続いては
彼を国外追放しようとするポピュリズム政治家まで現れましたが、
結局、彼は地元の支持を得て、アメリカに住み続けることができました。
そして1991年にレストランを閉め、1998年に67歳で癌のため亡くなりました。
続く。