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Angry Arts 反戦芸術〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争

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ハインツ歴史センターのベトナム戦争展から、前回は
壁画にされたイラストを元にした「ホームフロント」についてお話ししましたが、
その中で取り上げた「リビングルーム・ウォー」を表すこんな展示がありました。

ベトナム時代のリビングルームの再現です。

「リビングルーム・ウォー」をその名前たらしめた「テレビ」。
部屋の中心には当時の豪華家具調白黒テレビが鎮座しており、
その画面にはベトナムからのニュース映像が放映されていました。

センターテーブルの上にはベトナムを報じるライフなどの雑誌が。

このコーナーには、こんな説明があります。

■ LIVING  ROOM WAR (居間の戦争)

ベトナム全土で自由に活動できたテレビのニュースクルーが撮影した
戦争のシーンが、アメリカの家庭に直接されています。

1967年まで、アメリカ人は他のどんな情報源よりテレビニュースを信頼していました。

「ニューヨーカー」に寄稿した作家は、この現象を表す
「リビングルーム・ウォー」という言葉を作り出し、視聴者が
テレビ映像を伴う短いレポートから本当に多くを学んだかどうかを疑問視しました。

ジョンソン大統領はこれらの戦争報道に恣意的な偏りがあると考え、
それが戦争への国民の支持を弱体化させたと非難しました。

ちなみに現在、「Home Front」で検索すると、

「北朝鮮人民軍によって国土の西半分を占領されたアメリカを舞台に、
レジスタンス達の戦いを題材にしたFPSゲーム」

しか出てきません(´・ω・`)

南ベトナム政府のInauguration Day、つまり大統領就任式(記念日?)の映像です。

日本軍が当地での実権を握って以来亡命生活を送っていたゴ・ディン・ジエムが、
戦後フランスによって建国されたベトナム国の首相になり、その後、
ベトナム共和国の大統領に就任したのは1955年のことです。

東南アジアでの共産主義拡大を阻止したいアメリカはジエムを支援しました。

北側つまりベトナム民主共和国へ対決色を強めるとともに、
国内の共産主義者など反政府分子に対しては厳しい弾圧を行います。

ベトナムが統一できなかったのはアメリカの意向であり、
その後、ベトナムに軍を送る決定をし、クラスター爆弾やナパーム弾、
そして枯葉剤などを使用する攻撃を決定したのはケネディ大統領でした。

まるでモンドリアンの「ブロードウェイ・ブギウギ」みたいな壁紙に、
いかにも当時のイケてるインテリアを象徴する変な形の時計。

下の画像は、アメリカの「ホームフロント」でベトナムに物資を送るための
各方面の様子のようです。

前回お話しした大規模反戦デモ「モビライザー」に関する写真ですね。

下中央にはマーティン・ルーサー・キングジュニア博士、その横は
徴兵カードを燃やそうとしている人々の写真があります。

左はいわゆる「アングリー・アート」と呼ばれるものです。

■ ANGRY ARTS(怒れる芸術)

泥沼にはまっていくベトナム政策のため、反戦デモは年を追うごとに激しくなりました。
ニューヨークで行われた「春のベトナム戦争終結動員」は、その中でも最大規模のものでした。

芸術家たちは自身の芸術活動を通して反戦を訴えようとしました。

たとえば、1967 年 発表されたノーム・チョムスキーの著作『知識人の責任』は、
ジョンソン政権の上層部で政策に関わった知識人たちは、
知識人としての大きな責任と特権、つまり

「真実を語ること、政府の嘘を暴くこと、そして、その原因と動機、
そしてしばしば隠された意図に従って行動を分析する」

ことを怠っているとし、彼らを非難しました。
「ジョンソンの知識人」とは、具体的に、ヘンリー・キッシンジャー、
マクジョージ・バンディ、アーサー・シュレシンガー、ディーン・ラスクなどです。

 

1967年ニューヨークで「アングリー・アーツ・ウィーク」が開催されました。

主催者はニューヨーク在住の芸術家に、

「いかなる視覚的な侮辱、政治的な風刺、または関連する野蛮な素材であってもいいから、
正気のための必死の訴えで、この街の芸術コミュニティに参加してください」

と呼び掛けたのです。

最終的に、約500人のアーティストがこのウィークに参加しました。
そして、パフォーマンス・アート、音楽、詩、ビジュアル・アート
(絵画、彫刻、写真)など、さまざまなメディアでの作品が集まりました。

たとえば、キャロリー・シュネーマンの

《Viet-Flakes》

は、残虐なイメージに基づいたフィルム・モンタージュ作品です。
彼女はイリノイ大学の大学院生のときにベトナムでの残虐行為のイメージを丹念に編集した
この作品を制作しました。

シュネーマンは8mmムービー・カメラを使って残虐映像の効果を強め、
彼女が戦争の「腐敗した」「軍国主義的な嫌味」と呼んでいるものを
観客に「強制的に」見せることに成功しました。

フィルムを見ていただければわかるように、画像は写真集を映したものですが、
それらは画像にピントを合わせず、写真の細部がわかる前に何度もズームインし、
観る者の感覚をあえて不快にさせるような手法が取られています。

『Viet-Flakes』は、戦争犯罪の直接の証拠を抗議の手段として用いた最初の作品でした。
証拠として、それはアメリカの攻撃の犠牲となったベトナム人の非戦闘員の女性や
子供の写真がこういった作品に多く使用されました。

そういった結果を見せることが抗議になりうるということを知っているから、
アメリカでは日本に原子爆弾が投下された「証拠」となる写真を
国内で公開することをあそこまで拒否しているのだとこのことからもわかりますね。

 

■ アングリーアートとベトナム象徴としてのナパーム弾

アングリー・アーツ・ウィークの期間中、

ペーター・シューマンの
「パンと人形劇」Bread and Puppet Theater

が上演されました。

「ブレッド・アンド・パペット・シアター」は過激な政治ネタを扱う人形劇です。

名前は芸術はパンのように基本的なものでなければならないという考えから来ており、
劇場は自分たちで作った焼きたてのパンをアイオリと一緒に
無料で提供しているということです。

ベトナム戦争中に上映された劇の内容は、

「医師が医学生にナパーム火傷とその治療法について講義し、
その後ろでベトナム市民の人形が巨大な手を観客に差し出して
ナパーム被害者の治療をお願いしている」

というもので、戦争被害者の無力さを表しました。

 

ナパーム弾は第二次世界大戦中に発明され、ベトナム戦争で使用されたもので、
ナパーム剤と呼ばれる増粘剤をゼリー状にしたものを充填した油脂焼夷弾です。
きわめて高温(900-1,300度)で燃焼し、広範囲を焼尽・破壊します。

ナパームが使用された直後からそれは反戦運動の象徴となり、
国民にもナパームを使ってアメリカ軍がベトナムの兵士や民間人を殺害していた、
ということが知られて、反戦芸術作品の格好の題材となったという面があります。

アングリーアーツ・ウィークでは、そのほかにもタウンホールでの
指揮者なしのコンサートが行われました。
これはベトナムでの残虐行為に対する個人の責任を象徴していました。

また、この「怒りのコラージュ」は絵画、ドローイング、版画など、
抗議のスクラップブックのような「アート」です。

残酷な写真の再現やこのような暴力的な表現を使用することの背後には、
露出し観るものに与える衝撃が暴力を排除するのに役立つという考えがありました。

その他の作品をご紹介します。

「Bringing the War Home: House Beautiful」Martha Rosler

「戦争を持ち帰ろう:美しい家」

これは、インテリア雑誌のありがちなタイトルを皮肉っていると考えてください。
「季節を持ち帰ろう:美しい家」みたいな?

普通の家にいる二人の兵士。
これこそが家に持ち込まれた戦争です。

彼女がこういった反戦アートの制作を行うきっかけとなったのは
新聞で見た、赤ちゃんを連れて川で泳いでいるベトナム人女性の写真でした。

「Revlon Oh-Baby Face」

    「Spell of Chanel」

ヴァイオレット・レイのコラージュは、見ての通り、
化粧品会社のポスターとベトナム人の苦難の様子を融合させたものです。

今ならおそらく企業から訴えられたと思うのですが、当時は
そちらの問題はなかったようです。

相手が相手、ご時世がご時世だということで企業側もビビったのかもしれません。

レイのこれらのコラージュはジャン・リュック・ゴダールや
アラン・レネらの映画にも登場しました。

「Would You Burn A Child?」Jeff Schlanger

「あなたは子供を燃やすのか?」と題されたシュランガーのポスターも、
反戦ポスターとして有名になりました。

■ ピカソへの手紙

そして「アングリー・アーツ」は、アメリカの戦争継続に抗議する運動として

あのパブロ・ピカソに

「MoMAから『ゲルニカ』を撤去するように」

要請をしています。
請願書にはこのようにその趣意が記されていました。

「我々アメリカの芸術家は、アメリカのベトナム爆撃に抗議する行為として、
ニューヨーク近代美術館からあなたの『ゲルニカ』を取り下げることを強くお勧めします。
何千人ものベトナムの村人が、ゲルニカの市民が受けたのと同じような爆撃を受けています」

しかし、ニューヨークの全ての芸術家が署名したこの嘆願書は
ピカソの手に渡ることはありませんでした。

ピカソの側近たちは、もしそうなれば、アメリカでの商売?に影響があると考え、
ピカソにその手紙を見せなかったとされます。

もし手紙を目にしていたら、晩年のピカソは反戦活動家たちの願い通り、
「ゲルニカ」をアメリカから引き上げたでしょうか。

「私の芸術家としての生涯は反動勢力に対する絶え間なき闘争以外の何物でもなかった。
私が反動勢力すなわち死に対して賛成できるなどと誰が考えることができようか。
私は「ゲルニカ」と名付ける現在制作中の作品において、
スペインを苦痛と死の中に沈めてしまったファシズムに対する嫌悪をはっきりと表明する」

「ゲルニカ」発表時、ピカソはこう言ったそうですが、
ベトナム戦争の頃の彼がこの提案に万が一難色を示すなどして
過去の発言との間の矛盾を責められるようなことがあったら、
彼の名前に傷がつく、と周りは考えたのだろうと思われます。

しかしそもそも、アメリカ政府の現在進行形の戦争が、どうして
スペイン内戦のファシズムを糾弾する作品を掲げることを阻むのか、
わたしは正直反戦運動家たちの主張の意図がわからないのですが・・。

その後のアメリカの戦争において同様の抗議がなされたことが
一度もありませんが、この「ゲルニカ抗議事件」も、
反戦を絶対是とする当時の空気に後押しされたものではないかという気がします。

 

続く。

 


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