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ホームフロント〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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戦争の「前線」に対して、このハインツ歴史センターは

HOME FRONT  ホームフロント

という言葉を対比させています。

戦争に兵士を送り出すのは「ホーム」であり、その最前線では
どのようなことが行われていたか、ということについては
すでに同じ言葉を使って一度当ブログで取り上げましたが、
今日は、展示場の壁一面に貼られた、このような壁一面のイラストを取り上げながら、
「ホームフロント」についてお話ししましょう。

まず、壁画は左から見ていくのが正しいと思いますので、
左上からご紹介していきます。

■ LIVING ROOM WAR リビングルームの戦争

1967年5月31日、ABCのニュースキャスター、フランク・レイノルズは、
ベトナムからのレポートを異例の方法で紹介しました。

彼は視聴者が前代未聞のものを見ていること、つまり
テレビが自分たちの居間に持ち込んでいる戦争という意味で、
この『リビングルーム・ウォー』という言葉を使ったのです。

テレビの普及でベトナム戦争は「居間で見る戦争」となりました。

彼は、

「テレビにはベトナム戦争をその恐怖も含めて全て取材する責任があるが、
その目的は視聴者にショックを与えることでも、センセーショナルな報道でもない」

といいましたが、リンドン・ジョンソン大統領は全く違った見方をしており、
テレビが戦争をどのように報道するかを常に気にしていました。

そして、執務室にある3台のテレビでニュースをモニターし、それらが
誤解を招くような一方的なものであり、(敵の残虐行為が報道されていないなど)
自分のベトナム政策に対する国民の支持を損なっていると考えていました。

ベトナムでの成功は戦場だけではなく、アメリカの家庭の
リビングルームで達成されなければならないと考えたのです。

彼がここまでテレビ報道を気にしていたのは、ベトナム戦争が、

「アメリカ人のほとんどがテレビを情報源とするようになった最初の戦争」

であることを知っていたからでした。
今でこそ信用は奈落の底に落ちましたが、1960年代半ばには、ほとんどの人が

「新聞よりも視覚で情報を伝えるテレビの方が信憑性がある」

と考えていたのです。

言われてみるとそうですが、ベトナムでは、第二次世界大戦や、
あるいは朝鮮戦争の時のように、報道は軍の検閲を受けませんでした。

言うなれば軍は、ジャーナリズムの「性善説」の上に立っていたのですが、
ベトナムにおける軍事・メディア関係は、彼らの期待を裏切りました。

記者たちはすぐに、軍発表の信頼性を疑問視し、彼らの報道してほしいことはなく、
自分たちの伝えたいこと(自分たちの意見を反映させたもの)を報道しだしたのです。


67年半ばまでには、夕方のニュース番組は、戦争が米軍に大きな負担を強いる、
という論調で報道が行われるようになり、7月には、世論調査による
ジョンソンのベトナム政策への支持率は33%にまで低下していきました。

批判者の多くは、交渉による和解か戦争からの撤退を望むようになったのです。

 

■ GENERATION GAP ジェネレーションギャップ

第二次世界大戦が終わった後、アメリカにも第一次ベビーブームがありました。

その頃の多くの親は、若き日をトラウマ、不安、そして戦争の中で過ごしましたが、
戦後アメリカは人類史上最も裕福な国となり、好景気、安価な住宅、そして
戦後補償などの政府の援助によって、いわゆるアメリカン・ドリームを生きる機会を得、
自分の子供たちに幸せを買うこともできるようになりました。

しかし、物質的な繁栄と安全は必ずしも幸福を保証するわけではありません。

平和な時代はそれなりに、子供たちは「不幸」「不満」を見出すものです。
ニキビができたとか、プロムに誘う相手がいないとか、あるいはもっと深刻な理由で。

そこで起きてくるのがジェネレーションギャップです。

戦争を体験した親は子供のニキビ問題について、それが彼らにとって
生きるか死ぬかの問題であることがどうしても理解できません。

さらに、アメリカの戦後の子供たちは、自国は地球上で最も偉大で
自由な国であると教えられて育ちました。

しかし、彼らが自分でものを見、考えるようになってくると、
教えられたことと現実の間に矛盾があることに気がつくのです。

自由と平等の国ならば、なぜアフリカ系アメリカ人はあんな目に合うのか。
アメリカ人のほとんどが聞いたこともない世界の果てに若者を送り、
殺したり殺されたりするほどの価値が「共産主義との戦い」とやらにあるのだろうか。

そこで第二次世界大戦を経験し、戦後の世界でアメリカは偉大であると
思い思わされてきた世代の欺瞞を感じる、そこにまた、家庭という単位より
広い意味でのジェネレーションギャップが生まれていったというわけです。

 

■ FOR INDUCTION 入隊のために

アメリカでは1948年から1973年まで徴兵制が導入されました。
自主入隊だけでは足りない人手を軍に供給するためのバックアップシステムとしてです。

1969年12月1日、この日1942年以来初めての徴兵制抽選会が行われました。

写真は政府代表を務める下院議員が、366個のカプセルの入った透明のケースに
手を入れて抽選を行う様子です。

ケースには1月1日から12月31日までの日付が記された紙片をおさめたカプセルが入っています。
この抽選で、1944年1月1日から1950年12月31日までに生まれた男性の入隊順を決めるのです。

The Draft Lottery- Vietnam War

音声がありませんが、議員が最初に引き当てたのは9月14日でした。
9月14日と書かれた紙が、1の数字の横に貼られています。

これは、9月14日生まれの20~25歳のアメリカ人男性が
ベトナム戦争のために徴兵されるリストの最初に載ったということです。

議員は続いて4月24日、12月30日、最終的には195日の生年月日を引きました。
これは、たとえば1950年生まれだとすれば、この195日以外の誕生日の男性は、
その年一年は徴兵されることがないということになります。

この方式による抽選は1975年まで行われましたが、
1973年以降は実際に徴兵されることはなく、志願兵制度に移行しました。

右下の政府や議会などがどのように戦争遂行していくか、
話し合っているイラストには、

SELLING THE WAR

とあります。
これを的確に訳すのは我ながら無理だと思うのですが、あえて言えば、
国の首脳が戦争を遂行するために行ったこと、というところでしょうか。

マスメディアと広報のコントロールで国民をいかに動かし、
世論を誘導して結果に結びつけるかといった戦略についてのスキームです。

 

■ SPRING MOBILIZATION 春のベトナム戦争終結動員

1967年4月15日、アメリカ史上最大規模のベトナム反戦平和デモが行われました。
これがこのイラストに描かれた

VIETNUM MOBILIZATION(春のベトナム戦争終結動員)

と呼ばれるものです。
ペンタゴン行進を含むこれらの運動に参加した有名人には、

ノーマン・メイヤー(小説家)
ベンジャミン・マクレーン・スポック博士(小児科医師)
アレン・ギンズバーグ(詩人)
エド・サンダース(ノンフィクションライター)
アビー・ホフマン(活動家、青年国際党『イッピー』主催)
ジェリー・ルービン(左翼主義活動家)

そして、

マーチン・ルーサー・キング・ジュニア博士

が含まれていました。

動員、略して「The Mobe」ザ・モーブにはサンフランシスコで約10万人、
ニューヨークでは12万5000人以上が参加しました。

画面下方に4人の男性が腕を組んで歩いていますが、この左から2番目は
おそらくマーチン・ルーサー・キングJr.博士であろうと思われます。

キング博士はセントラルパークから国連ビルまでの行進を指揮し、
さらにそこで演説を行いました。

演説を聞く一人が持っているプラカードにはこのようにあります。

「死ぬのが怖いんじゃない ただ人殺しをしたくないだけだ!」

春の総動員は、反戦活動家の全国的な連合を形成し、
平和デモの新時代の幕開けとなりました。

動員の行われた1967年春までには、365,000人以上がベトナムに派遣され、
犠牲者はすでに6,600人を超えていました。
そして戦争に対する世間の関心と監視は急激に高まっていったのです。

■ SUPPORT OUR MEN PARADE

この映像は、出征兵士を支援するパレードの様子です。
支援といっても、彼らの立場はもちろん国のために死んでこい、ではなく、
兵士たちを文字通り「守るためのデモ」で、これはつまり
退役軍人たちを中心とした側からの戦争反対デモということになります。

Support Our Men in Vietnam Parade


ナパーム、毒薬の投入、そして増兵をやめ、
北ベトナム、南ベトナムでの爆撃を無条件で即時停止し、地上での停戦を行うこと。

ベトナムにおける外国人基地を禁止し、すべての外国軍を撤退させること。

ジュネーブ協定を実施すること。

ベトナムのことはベトナム人に決定させること。

言い換えれば、我々の男たちを生きたまま家に戻せ!!!

ということが彼らの主張です。

 

これがシビリアンではなく、ベテランが中心となった運動である、
ということにこの運動の特異性があります。

たとえば、朝鮮戦争の司令官、リッジウエイ将軍らはこのように言いました。

"現在の状況や我々の規範の中には、アジアの小国を石器時代に逆戻りさせるような爆撃を
必要とするものは何もない、というのが、私の確固たる信念である"ことが彼らの主張です。

 ウィリアム・ウォレス・フォード将軍

"着実に拡大する戦争に、盲目的に、そして文句を言わずに従わなければ
非国民と呼ばれるような事態は打ち砕かれるべきだ”

 ハグ・B・ヘスター将軍 

"ベトナム戦争に反対である。
なぜならば、ベトナム戦争は米国憲法と国連憲章の下での
米国の条約義務に違反して行われているからだ。
ベトナム戦争は自衛のための戦争ではなく、一般的な自衛のための戦争でもない.。
これは違法で、不道徳で、完全に不必要な戦争である"

アーノルド・E・トゥルー陸軍大尉

"我々は、
(1)戦争の主要な当事者としてベトコンに対処し、
(2)ジュネーブ協定を実施し、
(3)我が軍を撤退させ、
(4)ベトナム人に自分たちの問題を解決させることによって、
ベトナムの大混乱を不名誉なく終わらせることができる


ベテラン高級軍人たちの中には、自分たちは軍人であるから、
ことが起こればいつでも馳せ参じる、といいながらも、
この戦争には大義がない、ましてや徴兵で男たちを戦地に送るべきではない、
という考えの人がいたということを表しています。

 

■ VIETNAM MORATORIUM モラトリアム行進

次にホームフロントで起こったのは、以前にもお話しした、
ベトナム徴兵反対運動、「ベトナム・モラトリアム」です。

まず、画面右真ん中で、徴兵カードを燃やす人々がいます。

セントラルパークを埋め尽くした若者や反戦運動家は、
輸出業組合や音楽・美術専攻高校の学生という名で
それぞれ戦争反対を表明しています。

「ヤンキーゴーホーム」をもじった「ヤンキー・カム・ホーム」で
アメリカ人を国に戻せ、と主張する人、アメリカの全部隊を
南西アジアから撤退させよというプラカードも見えます。

ベトナム・モラトリアム、正確には

Moratorium to End the War in Vietnam
(ベトナム戦争を終わらせるモラトリアム)

が行われたのは1969年10月15日と1ヶ月後です。

「ベトナムはベトナム人のもの」

「我々の息子はダメ あなたたちの息子もダメ 彼らの息子もダメ」

「子供たちは燃やされるために生まれたんじゃない」

「今すぐベトナムから撤退しろ」

■ COMING HOME (帰国)

ベトナムから帰国して来た軍サービス従事者が
この壁画の右下(つまり最後)に描かれています。

ある者は生きて。
ある者は負傷して。

そしてある者は星条旗に包まれた棺で。

 

続く。

 


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