ピッツバーグのハインツ歴史センター特別展、ベトナム戦争をご紹介しています。
OD色のドラム缶に挟まれて「U. S」と記されたブリキのボックスがあります。
中には「MISSALーBULLETIN」つまりミサのお知らせと、
ベトナム現地にあったらしいUSOのプログラムがありました。
まず、USOは「サイゴンクラブ」というのと「タンソナットクラブ」があり、
アメリカ軍関係者のために毎日営業している、とあります。
スナックバーも毎日昼間営業しており、夜になるとライブなどの
アクティビティが行われます。
キャッチフレーズは
「ア・ホーム・アウェイ・フロム・ホーム」(我が家から遠く離れた’我が家’)
ベトナムでの兵士たちの慰安の場所として、USOは重要な役割を果たしました。
そして、別の方向に慰安を求める兵士のために、ミサも頻繁に行われました。
このお知らせには、1966年の5月、イースター後のミサのプログラムが書いてあります。
内容は:
日曜ミサ
0730 第3砲兵隊
0830 第 93 EVOC 病院
0930 第105 砲兵隊
1100 エンジニア大隊
1700 第93EVOC病院
平日ミサ
0630 第93EVOC病院
1700 第93EVOC病院
日曜だけでなく、平日や土曜にも病院では毎日行われています。
兵士たちがフィールドを行軍する時にかついでいた「普通の」リュックサックです。
取手がついていますが、これは持ち上げて重さを実感してくださいという展示です。
わたしはカメラを持っていたので試してみることもしませんでしたが、
おそらく片手では持ち上がらなかったのではないかと思います。
総重量は30キロ。
3キロくらいの赤ちゃんでもずっと抱っこしたりおんぶしたりするのは
錘のように感じたのに、30キロをずっと担ぐって拷問みたいなものかも・・。
■ 公民権運動からベトナム戦争のベテランに
このケースの中の左側の軍服の持ち主は、
マイケル・フルノイ(Michael E.Flournoy)
という「公民権元運動家」です。
彼についてはアフリカ系アメリカ人のベトナム戦争ベテランとして
さまざまな資料が残されています。
彼はルイジアナ州出身ですが、現在ピッツバーグ出身ということで
これらの展示を提供したということのようです。
空挺隊のベレー帽が似合う精悍なイケメン兵士ですが、そんな彼は
先ほども書いたように、故郷の南部で公民権闘争に参加していました。
人種平等会議のためのルイジアナ州での有権者登録ドライブ中に逮捕され、
刑務所に収監されているとき、彼は徴兵の通知を受け取りました。
彼は釈放後の1962年から1968年まで陸軍に5年と半年、第101空挺師団、
第82空挺師団、および第1戦闘航空旅団に勤務しました。
第101空挺師団、第82空挺師団といえば、どちらもノルマンディ上陸作戦に参加した
名門中の名門、精鋭無比のエアボーンではありませんか。
彼は公民権運動のため戦って反政府主義者として逮捕されたのですが、
つまり反戦活動とは全く異なる方向に進んだということになります。
しかしこれは決して矛盾するものではありません。
反戦と公民権というのがしばしば同一化されることがあるので、
彼のこの行動には違和感を感じる向きもあるかも知れませんが、しかし、
考えようによっては戦争参加は、第二次世界大戦中の日系アメリカ人のように、
戦うことで他の人種と同じ権利を勝ち取ることができる
一つの大きな「チャンス」でもあったわけです。
つまりフルノイはそのように考えたのでしょう。
右胸には空挺隊員を表す落下傘マークが。
軍服の手前に見ているのはハチェットといって小型の斧です。
空挺隊員の常備品だったようですね。
バックパックは空挺隊員だから?先ほどのに比べると軽そうです。
戦前は乗り物にも酔うような若者が、飛行機から飛び降りる兵士に。
空挺訓練とはどのようなものか。
陸軍空挺部隊の一員になることとはどのようなものか。
少なくとも戦後ベテランとしてベトナムについて語っているこれらのことや、
勲章を胸に写真を撮っている年老いた彼を見る限り、
彼のベトナムにおける戦闘経験は決して悲惨なものではなかったと思われます。
写真で彼が着用しているのと同じブーツ。
パンジ・スティーク踏み抜き防止のための鉄板は仕込んでなさそうです。
しかし、彼はベトナムについてこんなことも言っています。
「私はベトナムにいる間、多くのクレイジーで愚かなことをしました。
しかし、それらのことはどれも間違っていませんでした。
戦争は混沌です。それは自然に反します。
兵士は人々が通常行えないようなことも行い、かつ
戦うことができる精神を持つように訓練されています」
その「クレイジーで愚かなこと」というのが、平時の道徳や倫理観からみて
全く「正しくない」こと、それがイコール戦争を行うことなのだと、
同じ体験をベトナムでした多くの兵士と同じく、彼は彼なりに
自分と折り合いをつけて戦後の人生を歩んできたのでしょう。
その手助けとなったのが、今まで黒人として存在を否定されて来た国から
今度はベトナムでの勇士として、国のために戦ったことを顕彰され、
そして認められたという誇りであったことは想像に難くありません。
■ 聞くだに痛々しいパープルハート勲章の傷
マリーンコーアの制服と、その前に展示されたパープルハート。
そしてその右側の小さなものをご覧ください。
これは、ベトナム戦争を語る過去ログで何度も触れて来た
例の「パンジスティック」なのです。
そしてその下の銃を持った兵士が、軍服の持ち主、
ジョン・クラーク(John Clark)です。
クラークは高校卒業後海兵隊に志願し、1966年ダナンに配属されました。
大隊では彼はポイントマン(Point man)だったといいます。
ポイントマンというのは、隊の前に出て危険がないか確認する係、
つまり大変危険が伴う損な役割?ということになります。
ベトナム戦争では戦闘の起こった場所を「ヒル」に番号を振って位置するのですが、
彼は小隊を率いてヒル22に展開しました。
そのとき、彼が踏み抜いて負傷をしたのが、ここにあるパンジ・スティックです。
(ここではStick =スティックと記述してあるので準じます)
以前紹介したのは竹など木を削ったスティックでしたが、
彼に怪我を負わせたのは、なんとメタル製のパンジスティックでした。
:(;゙゚'ω゚'):
スティックは彼のブーツを突き破り、足に突き刺さりました。
((((;゚Д゚)))))))
彼は任務を1ヶ月離れ、ユニットの戦闘任務を20日間行いました。
そしてその間のパトロールで再び負傷し、パープルハート勲章を授与されました。
展示場ではイヤフォンで彼のオーラルヒストリーを聴くことができたようです。
聴くだけでアイタタタな話が生々しく語られていたのに違いありません。
■ バディシステムで入隊、水死した海軍水兵
手紙、封筒、皮の財布に外国紙幣。
これらは、この青年、
ルロイ・バーナード・マッド(Leroy Bernard Mudd)
の私物です。
彼は海軍の「バディ入隊プログラム」によって入隊しました。
海軍のバディ入隊プログラムというのは4人以下のグループで
一緒に入隊するシステムで、たとえば高校の同級生同士とか、友人同士で
誘い合って海軍に入隊するという動機を促進するためのもので、
民間人から入隊して「軍人」に移行期間に精神的、物理的に負担を減らし、
手助けとなるという利点を期しています。
入隊すると、バディ同士同じ日に新兵訓練が始まります。
このシステムに参加するすべての申請者は、シーマン、エアマン、ファイアマンの
どれかのプログラムに一緒に参加することができます。
男女混合のグループは不可です。 (最近のポリコレならそのうち差別だ!とか言い出して可になるかもしれませんけど) バディとして入隊すれば、基本的に理由がないと離れ離れになることはありませんが、
病気とか、訓練に一人がついていけないとか、「最低限の水中生存資格を満たしていない」
つまり全く泳げないとかという止むを得ない理由があればその限りではありません。 というわけで、バーナード・マッドはこの写真の友人とともに
バディシステムでシーマンを志望し、入隊したわけです。
そして、彼ベトナム戦争奉仕の間に行方不明であると報告され、
最終的に1970年6月29日に死亡認定されました。 記録された状況は次のとおりです。
非敵対的死者 行方不明 溺死 窒息死 地上死傷者 死亡場所:南ベトナム これらの短い状況をつなぎ合わせると、彼は戦闘ではなく
艦隊勤務時に海中に落ちるなどして行方不明になったのではないでしょうか。
彼が行方不明になったのはベトナムに着いてわずか数ヶ月後だったそうです。
同じアフリカ系の水兵たちと白いセーラー服を着て写真を撮った彼は、
MIA(任務中行方不明)のまま葬式が営まれました(4番)
彼の死は、ベトナムに奉仕した他の同郷の若者たちの死とともに
彼の属した故郷のコミュニティを落胆させた、とあります。 展示されている手紙は海軍の便箋に書いた父親宛のものです。 その最後にはこうあります。 「思うに僕はついに一人前の男になろうとしているのです。
家に帰ったらきっとそれがわかるよ。
僕が帰るまで落ち着いて待っていてください。
あなたの息子 ルロイ」 亡くなったとき彼は19歳。
あと2ヶ月で誕生日を迎えるはずでした。 ■ 戦場で獲得したロースクール合格通知 フィルムキャニスターと陸軍機関大隊のマーク入りヘッドバンド。
グレン・マホーン(Glenn Mahone)
の提供した展示です。
マホーンはペンシルバニア州立大学で心理学を勉強しているときに
ROTC(予備役将校訓練課程)に参加しました。 卒業後、彼は陸軍に入隊して第18大隊の工兵隊に入り、
橋、道路、火力支援基地の建設を支援する任務を行いました。 さらに彼はベトナムで輸送船団の運営、軍需品の配備、
そして果ては地雷掃討の部隊にも参加しています。 彼のすごかったのは、そんな状況でも向学心を失わなかったことです。
ベトナムにいながらにしてLSAT試験(ロースクール入学資格)に合格!
彼はベトナムで負傷しましたが、退院後1週間で、デュケイン大学
(ピッツバーグ)ロースクールに入学しています。 その後、彼はイエール大学でLLMの学位を取得し、弁護士となりました。 Glenn R. Mahone 続く。