ハインツ歴史センターのベトナム戦争展をご紹介しています。
ベトナム戦争については終戦後にも様々な媒体で描かれ、
それを見聞きすることである程度の知識を得ていたつもりですが、
このように体系的に展示された資料を見るのは初めての経験なので、
開戦の経緯からそこにまつわる社会の様々な出来事など、
おそらくアメリカ人であれば誰でも知っているようなことも
外国人である自分が知らなかったことが多いのに驚いています。
さて、次のコーナーにはいかにもバラックの内部?
みたいなセットが組んでありました。
カンバスベッドの頭上にはトタンに釘留めした私物棚。
棚の上にあるのは読みかけの本(『JFKその人物と神話』など)、
シーブリーズの缶入り。
棚には茶色いタオルと懐中電灯が吊ってあります。
ベトナム地図は🇺🇸スターズアンドストライプス新聞発行のもの。
この「星条旗新聞」は米軍の準機関紙でもあり、
アメリカ軍と兵士と駐留地に関する記事を中心に、
世界中に展開する米兵と退役軍人に読まれています。
創刊は南北戦争の時だそうですが、現在も独立した日刊の軍事ニュースと、
欧州と中東、東アジアの米軍施設情報を紙媒体とオンラインで発行しています。
採用している記者は市民以外にも米軍上級下士官などで、オンライン版は
月約400,000アクセスがあるということです。
棚の上の小冊子はすべてベトナムを知るための情報が書かれています。
棚の上に並んだ缶は
マックスウェルハウス・コーヒー缶
徴兵カードを燃やしていれたことで有名になったコーヒー缶。
ラビット印 パブスト・ブルーリボンビール
1977年が生産のピークだったといいますので、
もしかしたらベトナム戦争のおかげで?売り上げが上がったのでしょうか。
プランターズ・カクテルピーナッツ
不気味なピーナツ紳士に見覚えあり。
そして左上のベトナム少女のポスターですが、
「プロパガンダポスター」と説明があります。
”Giữ Lấy Quê Hương、Giữ Lấy Tuổi Trẻ”
というのがタイトルで、これを自動翻訳にかけると
「あなたの故郷を守りなさい、あなたの若さを保ちなさい」
という意味であることがわかりました。
■ 敵を知れ
ベトナムという、それまでほとんどのアメリカ人がどこにあるかさえ知らなかった
未知の土地で、そこの住民を相手に戦わなければならなくなったとき、
しかも、同じ民族の半分がこちらの味方という状況は、兵士たちにとって
とてつもないストレスとなったはずです。
ここには、アメリカの敵となった北ベトナム軍とベトコンについて
簡単にそのイラストで説明されています。
左から;
ベトコン 主流軍 士官
ベトコン 主流軍 兵士(アメリカ製カービン銃持参)
北ベトナム陸軍 兵士(中国共産党軍7.62ミリアサルトライフル)
北ベトナム陸軍 非戦闘メディック
まあ果たしてこれでアメリカ人がバッチリ敵を見分けられたかというと、
どうもそれは怪しいのではないかという気がします。
しかし、ベトナム戦争中、南ベトナムの民間人を殺害した、
という話を検索すると、それは全て傭兵として参加し、南ベトナムの村で
一般人をベトコンの疑いという理由のもとに残虐に殺戮した
韓国軍の話ばかりが出てくるのでした。
ちなみに、ソンミ村虐殺事件で起訴された指揮官のウィリアム・カリー中尉は
3年後に仮釈放されたとはいえ、有罪判決を受けていますが、
「フォンニイ・フォンニャット虐殺」「タイヴィン虐殺」「ハミの虐殺」
「ゴダイの虐殺」など、すべて南ベトナムで行われた韓国軍の虐殺について、
韓国は全て認めず、もちろん賠償などは全く行っていません。
左下には当時は最新式だった時計付きラジオがあります。
超大型のこれはラジカセ・・・でなく、なんとオープンリール式の
テープレコーダーというやつですね。
テープレコーダーで持ち運びが(とりあえず)できるというのも
当時の最新型だったのではないでしょうか。
ちなみにメーカーは当時世界で知名度を伸ばしていたSONYです。
当時「世界のSONY」がキャッチフレーズだったとか・。
■ 出征兵士たちの肖像
次ににピッツバーグ出身のベトナム兵士の資料がありました。
その横にはピッツバーグ出身、空軍のトーマス・サンダースさんの写真と手紙。
ピッツバーグの「ミセス・ロビンソン」に送られて来たベトナムからの手紙。
ベトナムから国内に出す手紙は郵送料が無料です。
ちなみにピッツバーグのポスタルコード15219はわたしが住んでいたところの近く。
真ん中の男性はデニス・ヒューズ伍長です。
1967年2月、ヒューズは、ニャチャンとプレイ国第五特殊部隊を擁する
砲兵隊に配属され、カムラン湾に到着しました。
伍長としてテト攻勢に参加したヒューズは、達成証明書を授与されました。
達成証明書(Certificate Achievement)というのは、陸軍内の規定で
体力テストや砲撃トーナメントなどで優秀な成績を収めたり、
あるいは任務に卓越性を発揮した時に与えられる賞状です。
ウィリアム・A・コーバー(戦闘行動シーケンス、1968)
コーバーは戦場カメラマンです。
彼は新しいカメラを使用してベトコンとの「戦闘の一連の行動」を捉えました。
この写真に捉えられているのは、タイニン近くのローリンズでのシーン、
「敵がいると疑われる位置に105ミリ榴弾砲を発射しようとするGIたち」
「サイゴン川に浮かべた小舟に乗って出発する7名のライフル隊兵士たち」
先頭のボートを操作する兵士(写っていない)は、他の兵士を
ベトコン村の疑いのあるプーコン村に導いていこうとしています。
「砲撃後のベンクイを進むライフル小隊」
”ライフル小隊が砲撃後ベンチーを歩いています。
この小隊は死傷者のリスクをできるだけ減らすために
まとまらずに少人数で村を移動しています。
小隊の携行している武器は全てアンロック&装填されており、
いつでも射撃ができる状態になったまま進行しています”
コーバーはここで一般人の犠牲者を初めて目撃しています。
一般人を虐殺したのはもちろん韓国軍だけだったわけではありません。
これらの写真を撮ったビル・コーバーは、放送特派員として
第25大隊に所属していました。
この写真は、彼が隊員が故郷に向けて挨拶をする機会として
砲兵隊員にインタビューをしているところです。
ガラスケースの中の軍服は
ロッキー・ブレイアー(Robert Patrick "Rocky" Bleier)
という陸軍から出征した人のものです。
彼は1968年のうちに二度「ドラフト」に応じることになりました。
二度目は正真正銘の陸軍からのドラフト=徴兵ですが、一度目はおなじみの
アメフトチーム、ピッツバーグ・スティーラーズへのドラフトです。
ちなみに彼は、カレッジフットボール界では超エリートとされる
ノートルダム大学のチームキャプテンをしていた人物です。
どちらのドラフトにも快く?応じた(という意味で)イケメンのブレイアーは、
まずスティーラーズに入団し、ワンシーズンプレイをしました。
そして、その後ベトナムに「出荷されて」(英語ではshipped)つまり出征しました。
配属はCカンパニー、第4大隊、第31歩兵第196歩兵旅団でした。
現地でのパトロール中、彼は待ち伏せ攻撃をされ、太腿に銃撃を受けています。
銃撃で倒れたところ、近くに手榴弾がに着弾し、右下肢に榴散弾を受けました。
このときに彼は爆風で右足の一部を失う負傷を負いました。
彼はこの負傷によってスペシャリスト4(40%の障害)であると判断され、
ベトナムから日本に搬送されて東京の病院で治療を受けたということです。
日本の医者は、このとき彼が再びフットボール選手に復帰するのは無理だろうと言いましたが、
スティーラーズのオーナーから、直々に
「わたしたちにはあなたが必要です」
という熱い激励の葉書をもらった彼は、数回の手術を受け、2年間のリハビリに耐えました。
そして、もう一度スティーラーズのバックフィールドからスタートし、
1976年にはスーパーボウルに出場し、ゴー・アヘッドタッチダウンを記録する快挙を成し遂げています。
その後、彼は四つのチャンピオンシップリングとともに、パープルハート勲章を授与されました。
続く。