ピッツバーグのハインツ歴史センターのベトナム戦争展から、
前回はおもに医療従事者としてベトナム戦争にかかわった、
ピッツバーグ周辺出身の人々のプロフィールを紹介しました。
今日は続いて医療関係の展示から、主に彼らの体験談をご紹介します。
■ 陸軍看護隊
医療隊が使用したストレッチャーなどが展示されています。
野戦病院を再現した内部には、
”We were shelled all to hell."
「我々は地獄のような砲撃を受けた」
という医療関係者の証言の一言が書かれていました。
陸軍医療隊の看護師がベトナムで使用していた器具の色々です。
戦地か内地か、陸上か海上かを問わず、彼らはこれらの器具を常備し
常に取り出せるように携帯していました。
包帯バサミ(Bandage Scissors)
刃の部分が特殊な形をしていますが、傷を露出させるとき
衣類や包帯を素早く切り取ることができるように角度がついており、
先端が鈍いものになっています。
外科用ハサミ(Surgical Scissors)
熱帯のベトナムの高い湿度の中では傷は早く可能します。
看護師たちはこれらの外科バサミを使って傷を開き患部を洗浄し、
傷の治癒を妨げる死んだ皮膚を取り除きます。
止血鉗子(Hemostat)
これらの小さな外科用クランプは、血管や動脈からの出血を止めるのに役立ちます。
患者が複数の傷を負っている場合、止血鉗子を使用して一部の出血を止め、
医師や看護師は別の部分を治療するということができます。
鉗子(Forceps)
看護師は、榴散弾の小片や弾丸の破片を取り除くなど、
いろんなタスクに鉗子を使用します。
ヘルメットに空いた銃痕。
AK-47アサルトライフルの銃弾が空けたものです。
医療関係者は、兵士たちに加えられたこのような、
小銃、大砲、榴散弾など、様々な種類の武器による傷と闘いました。
■ テト攻勢における医療隊の活動
マニフェスト・ベネビランスの門
テト戦争で大きな被害を受けたこの城塞には、かつてのベトナムの首都である帝都がありました。
フエの戦いは、ベトナム戦争の中で最も長く、最も血なまぐさい戦いとなりました。
テト攻勢にアメリカと連合国が対応する間、医療スタッフは
負傷した戦闘員と民間人の治療のために24時間体制で働きました。
混乱の中、特にアメリカ軍駐屯地の近くにある病院は、常に
迫撃砲やロケット砲に見舞われることになりました。
看護師、リン・ハドソン中尉は、この状況を
「計り知れないほど事態は絶望的状態でした」
と語りました。
なぜなら、
「兵士だけでなく、民間人も病院に殺到したからです。
わたしたちの病院は、まるでベトナムの村そのもののようになりました。
母親と彼女の五人の子供を2台のベッドに寝かせました。
彼らは一人残らず負傷していました」
また、プレイクの避難病院勤務だったエリザベス・アレン大尉は、
「ロケットが病院に直撃し、1時間もの間砲撃が続きました。
すぐに避難壕に入りましたが、もう地獄のようでした。
あちこちで悲鳴が上がりましたが、それはそこにいたほとんどの人と
全てのものにそれらが当たったからです」
ロン・ビンにいたレオ・ラベル中尉は
「私たちがそこに着いた夜、テト攻勢が始まった。
着陸しようとした航空機が攻撃を受け始めた。
その機のパイロットは急降下し、装備を全て捨てて避難し、生還することができた」
と目撃談を語っています。
プレイクの第71病院で負傷者の手当てをする医療チーム。
手術が行われているところ。
ダナン
「病院船の手術室に続くデッキには担架の列ができていました。
わたしたちは懸命になってできることをし、彼らを救おうとしました。
・・・・しかし、彼らの多くはわたしたちの手の施し用もなく、
その日の日没を見るのが人生最後となりました」
バーバラ・コフィン・ロジャーズ 病院戦USS 「リポーズ」Repose
「リポーズ」はもともとマーリン・ビーバー (Marine Beaver) という民間船です。
浸水直後、1944年に海軍によって取得されて病院船に転換しました。
第二次世界大戦では末期に太平洋に展開し、終戦後もアジアにいました。
その後一旦退役しましたが、朝鮮戦争のために再就役し、負傷者などを
日本に輸送するなどの任務を行いました。
そして再び退役し11年間保管されていたのですが、ベトナム戦争が始まったので
再々就役し、東南アジアに展開して
「東洋の天使 Angel of the Orient」
という愛称で呼ばれていました。
ベトナム戦争中、「リポーズ」は9,000名以上の戦傷兵、および
24,000名の入院患者を手当てしました。
1970年に今度こそ退役したのですが、ロングビーチの海軍病院で
別館として4年ほど使用され、その後は本当にスクラップになりました。
朝鮮戦争では9個、ベトナム戦争の戦功で9個の従軍星章を受章しています。
1968年2月9日、ダナンでヘリコプターによる救出を待つ負傷した海兵隊員。
ベトナム人の親子。
子供はどちらも負傷しています。
■ 病気と負傷者の治療
衛生兵とヘリ搭乗員は負傷者を避難病院に後送しました。
そこで医療スタッフは重傷や酷い火傷と闘いました。
熱帯の環境によって感染症を起こした患者、マラリアにかかった患者は
民間人であってもアメリカの病院に送られました。
看護師は負傷者や瀕死の人を救うために全てのリソースを求め、活用しました。
「若いわたしたちがケアしたのも、ほとんどは若い人でした」
一人の看護師はこう言っています。
プレイクの第71避難病院のERで勤務する看護師たち。
左から2番目の男性はリン・モーガン中尉、その右アフリカ系女性はマーラ・ペッシェ中尉、
そして一番右はリンダ・ヴァン・デヴァンター中尉。
看護師はほとんどが尉官以上として現場に勤務していたようです。
「移動中、わたしは容赦ない数の民間人の死傷者を目撃しました。
わたしたちのERは、特に子供たちの死傷者でいっぱいでした。
わたしはいまだに一人の若い母親を、彼女の死んだ子供の会わせるために
遺体安置所に連れて行った時、彼女が狂ったように自分の胸を叩いていた様子が忘れられません。
彼らの乗ったバスが地雷の上を走り、爆発したのでした」
バーバラ・チミネッロ大尉
「ロケット弾と迫撃砲が何度か病院にいる私たちを襲いました。
男たちはベッドの下にダイブしましたが、たくさんのチューブに繋がれている者や、
動くことのできない者には上からマットを放り投げてかぶせてやりました」
ダイアン・カールソン・エバンス大尉
地雷を踏んで負傷した狙撃手の治療を行う医療スタッフ。
ダスト・オフ Dust-off
着陸と離陸の時に土埃を舞い上げることから、ヘリコプターの乗員は
「ダスト・オフ」と呼ばれていました。
1967年、ヒル875から避難するヒューイに乗り込む負傷した第173空挺団の兵士たち。
アメリカ軍の空爆で負傷したベトナム人の幼児。
特有の穴の空いたような傷を頭部に負っています。
それでは、だいたい悲惨でシリアスなものが多い証言の中から、最後に
ちょっと心温まる?ものをご紹介しておきます。
「負傷者には全ての注射という注射をしなければなりませんでした。
あるとき、両腕と片足に負傷した男性が運ばれてきました。
彼はものすごく混乱していたのですが、面白い男でした。
わたしが注射のために彼のところにいって、
『オーケー、寝転がって下着を下ろしてください』
というと、彼はわたしをじっと見て、
『マム、このことは、ここだけの秘密にしてもらえますか?
あなたが妻よりもたくさんわたしにパンツを降ろさせた、
なんてことだけは、彼女に知られたくないんですよ』
そこにいた全ての人々は噴き出しました。
そんな冗談を言っていられないほど彼の傷は深く、痛かったはずなのに」
ナンシー・ブレイクビル・ウェルズ大尉
続く。