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「いちご白書」 コロンビア大学騒乱と公民権運動〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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■ 1968年大統領選挙とは

大統領選挙はアメリカの社会的、政治的、人種的緊張を表面化させました。
戦争の侵攻に対する国民の不満と、テト攻勢不利の衝撃は、
ジョンソン大統領と彼の政権に大いなる危機をもたらしたのです。

ジョンソン大統領は、ベトナム派遣軍司令官ウェストモアランド将軍の
20万人以上の派兵要求を拒否し、その後将軍を解任しました。
ジョンソン政権の国務長官、クラーク・クリフォードが、増兵は成功を保証しない、
と主張したためでもあります。

後任にはクレイトン・エイブラムスJr.将軍が充てられました。

3月31日、JBJはベトナムにおける一部爆撃停止を命じ、
和平交渉へのアメリカの関心を表明しました。

そして自身の再選を放棄することを発表して国内を驚かせました。

マーティン・ルーサー・キングJr.博士と、ロバート・F・ケネディ上院議員の暗殺です。

人権問題のシンボルと、反戦運動の担い手になろうとしていた若い議員、
彼らの死は、全米の民衆に悲しみと怒りを残しました。

特にキング博士の殺害は、各地で市民の不安を引き起こしました。
1968年の「エレクション・イヤー」に起きた暴動の数々は、
無秩序と無法が耐えがたいレベルに達したことを多くのアメリカ人は確信したのです。

人気抜群だった反戦派のケネディ。

「アメリカを和解の席に着かせるために大統領選挙に立候補します」

彼はこういって立候補表明を行い、ベトナム停戦を願う人々に
熱狂的に支持されました。

前回お話しした、反戦派のハバート・ハンフリー候補の支持者によって、
シカゴで行われた民主党大会の様子です。

こういうことから、民主党=平和主義、共和党=好戦的、というイメージが
かなり色濃くアメリカ人に刷り込まれているようですが、
そもそもベトナムに派兵を決めたのはロバートの兄ちゃんだったんですよね。

のちに撤退を決めたからとJFKを評価する向きも多いようですが、
そもそもベトナムで評価を落としたジョンソンだって民主党だったということを
アメリカ人はどう考えているのか、大変興味があります。

■ マッカーシーと「クリーン・フォー・ジーン」キャンペーン

「マッカーシズム」

という言葉を聞いたことがあるでしょうか。

1950年代、アメリカで巻き起こった共産主義取り締まり運動で、
共和党員マッカーシーによって推進された「赤狩り」のことです。

ところが、この選挙から、マッカーシズムはむしろ
前者とは正反対の意味、つまり「ベトナム戦争反対」になったのです。

民主党のユージン・マッカーシー(1916−2005)は、
詩人であり、退役軍人であり、ベネディクト会の修道士であり、
ジョンソン大統領の再選に最初に異議を唱えた議員でした。

今回の「マッカーシズム」は

「クリーン・フォー・ジーン」(遺伝子のためにきれいになろう)

に賛同する1万人の若い支持者を魅了することになります。

その彼の大統領選立候補に際しての宣言はこのようなものでした。

「わたしは、この挑戦が、他の上院議員や政治家から支持されることを望んでいます。
この挑戦が、政治的な無力感を和らげ、多くの人々に
アメリカの政策に対する信頼を取り戻すことになると期待しています」

ニューハンプシャー州の予備選挙に向けて、マッカーシーは、
マスコミにはほとんど無視されていましたが、それにもかかわらず、
全米から反戦支持者と大学生らの多くの支持を集めていました。

彼らは1968年の選挙戦に、誰も想像しなかったような影響を与えることになります。

ニューハンプシャー州でマッカーシーに投票した多くの人々は、
「ヒッピー=抗議者」というイメージを払拭するために、
長髪、ひげ、口ひげを剃ってアピールを行いました。

これが「クリーン・フォー・ジーン」、つまりわかりやすくいうと、

「戦争をストップさせて未来に遺伝子を残すために
今、見かけを綺麗にして世論に訴えよう」

という意図を持つ選挙運動だったのです。

いざ選挙となったとき、気まぐれな反戦候補者と彼の「子供十字軍」は、
マスコミやジョンソンの代わりを探す民主党員にとってすでに重要視されず、
結果的に得票率は42%、ジョンソンの得票率49%も勝てませんでした。

しかしながら、マッカーシー=民主党内の反体制派がジョンソンを弱体化させた、
あるいは弱体化していることを明らかにしたのは事実です。

「身綺麗になった普通の若者たちによる反戦運動」によって、反戦運動は
ヒッピーや左翼の活動家の専売特許ではなくなっていることも明らかになりました。

多くの人々が、アメリカが東南アジアで何をしているのかを率直に検証し始めたのです。

 

これによってジョンソンは党内の自分の信頼が急速に失われていることを知り、
次の任期を求めないことを発表しました。

そして、その弱点を見抜いたもう一人の男、ロバート・ケネディが、
予備選の3日後に立候補を表明したというわけです。

マッカーシーはいくつかの予備選を勝ち抜きはしましたが、6月に
カリフォルニア州でケネディに敗れることになります。

もっともその直後にケネディは暗殺されてしまい、そのまま
民主党の人気者、ハンフリーと戦って敗れ、そのハンフリーもニクソンに敗れました。

マッカーシーの「全盛期」はおそらく「遺伝子キャンペーン」のときだったでしょう。
彼はその後一度として政治の檜舞台に躍り出ることはありませんでしたが、
一瞬燃え上がった火花が、盛り上がり、支持されて、現職大統領を追い詰め、
ある意味歴史を変えることになったのは確かです。

■ 1968年、騒乱の民主党大会 Democratic National Convention

現に、この「ナショナル・コンベンション」で、候補者を選ぶために
シカゴに終結した民主党員たちは、戦争をめぐって真っ二つに割れました。

これ以上開けられるだろうかというくらい大きく口を開いて、
おそらく政治主張を叫んでいる女性の形相と、ロールカラーに花柄の
ミニスカートのワンピース、そして髪を結んだリボンという当時フェミニンな流行が
なんとも言えないミスマッチな感じでゾクゾクしますね(笑)

この集会で、反戦派の代表団は、後述するユージーン・マッカーシー候補、
そして泡沫候補のジョージ・マクガヴァンのいずれかを支持しました。

ジョンソン大統領の支持自社たちは、ハバート・ハンフリー候補を支持しました。

この政治的な葛藤は熱狂を伴い自然に大声の罵り合いに発展したわけですが、
結果、ハンフリーの指名が決まり、「反戦部隊」の失望は膨れ上がりました。

会場の外にいた反戦派の抗議者たちが暴動に発展するのを阻止するため、
シカゴのリチャード・デイリー市長は、催涙ガスと警棒をふるう武装した警察、
州警察、そして国家警備隊員をデモ隊に対して送りました。

バナーに「今日は、民主党員の皆さん」と掲げられた帽子には、
その下の警察隊を送ったデイリー市長の名前が・・・・。
なんと皮肉な取り合わせでしょうか。

そのシーンはテレビカメラに捉えられていて、抗議者たちの
繰り返されるチャントを全世界に映し出しました。

「全世界が見守っている!」

1968 Riots at the Democratic National Convention in Chicago | Flashback | History  

■ コロンビア大学のストライキ

1968年、ニューヨークのコロンビア大学で起きた一連の抗議行動は、
その年に世界各地で起きた様々な学生デモの一つでした。

この抗議活動では、学生が大学の多くの建物を占拠し、最終的には
ニューヨーク市警が抗議者を暴力的に排除したというものです。


1967年3月初旬、学生活動家であるボブ・フェルドマンが、国際法図書館で
コロンビア大学がアメリカ国防総省傘下で兵器研究を行っている、
という文書を発見したのがきっかけです。

文書の発見をきっかけに、大学の一部有志による反戦キャンペーンが展開され、
大学側に防衛分析研究所の資格を辞退することを要求しました。

大学側は活動家6名を保護観察処分にしました。

もう一つの理由は体育館建設の計画です。

建設予定地は公有地であるにもかかわらず、学校側は
当初計画された二箇所の出入り口のうち、黒人が多く住むハーレム側の入り口を
作らないという計画に変更しました。

しかも、1958年以来、大学所有地である予定地から大学側は
7,000人以上のハーレム住民を立ち退かせてきましたが、
そのうち85%はアフリカ系アメリカ人かプエルトリコ人でした。
ハーレムの住民の多くは、大学に家賃を支払っていました。

コロンビア大学の「人種政策」は学内の学生にも及び、黒人学生だけが
身分証明書を常にチェックされ、黒人女性は難しいコースに登録させない、
また、元黒人のフットボール選手を全員同じ位置に配置する
「スタッキングシステム」なるものまであったということです。


最初の抗議活動は、キング牧師の暗殺の8日前に起こりました。

学生の抗議者はコロンビア大学の体育館の建設現場まで行進し、建設作業を邪魔して、
建設現場を警備していたニューヨーク市警の警官と揉み合いを始めました。

その後デモ隊はキャンパスに戻り、教室とコロンビア大学管理局のオフィスを占拠しました。

しかし、デモの目的をめぐって活動グループは黒人と白人学生の間で分裂し、
別々に占拠を行い、自らデモ参加者を分離してしまったのです。
連帯どころか、内部が人種によって真っ二つに分かれてしまったのでした。

内輪で揉めているあいだに、ニューヨーク市警が催涙ガスでデモ隊を激しく鎮圧し、
約132人の学生、4人の教員、12人の警察官が負傷し、700人以上が逮捕されました。

暴力は翌日も続き、棒で武装した学生が警官と乱闘を行いました。

1968年5月17日から22日にかけては第二次抗議行動が行われ、
前回と同じホールを占拠しました。
警察はさらに177人の学生を逮捕し、51人の学生に暴行を加えたとされます。

■ コロンビア争議の余波

とはいえ、デモ隊は二つの目的を達成しました。

コロンビア大学は兵器研究につながるIDAとの提携を解除し、体育館の計画を破棄し、
代わりにキャンパスの北端の地下にフィジカルフィットネスセンターを建設しました。

この抗議活動の結果、少なくとも30人の学生が行政側から停学処分を受けています。

しかしながら、大学側にも学生に同情を示す教授がいたことも確かです。

ある教授は、

「座り込みやデモに理由がないわけではない。
抗議者たちは確かな理由もなく行動したのかもしれないが、
大学が学生を刑事告発することには反対だ」

と述べました。

コロンビア大学のキャンパスで起きた学生のデモは、大学というものが
実際には大学を取り巻く社会的・経済的な争いの影響を受けやすいことを証明しました。

歴史家のトッド・ギトリンは、

「想像力を競い合う派閥の間で、過激さが増し、
各自の孤立が深まり、憎しみが深まった」

と述べています。

数千人が参加した建物の占拠とそれに伴うデモは、大学全体の運営を麻痺させ、

「現代アメリカ史において最も強力で効果的な学生の抗議活動」

となりましたが、カリフォルニア大学バークレー校やケント州立大学での抗議活動の方が
はるかに世間に大きな影響を与えたことは論を待ちません。

コロンビアの学生運動は、ベトナム戦争の終結と同時に緩やかに収束に向かいました。
たまたまこのとき、ベトナム戦争と従前から起こっていた公民権運動が
相乗的に作用したことが、運動を激化させたという専門家もいます。


そしてコロンビア大学はその後よりリベラルな政策をとるようになりました。
今ではリベラルが度を越して左に振れすぎてえらいことになっています(笑)

このときコロンビア大学の学生だったジェームズ・クネンは、
1966年から1968年までの抗議行動および学校占拠について本を著しました。

 

『いちご白書』 Strrawberry Statement

という題名は当時のコロンビア大学の学部長ハーバート・ディーンが、

「大学の運営についての学生の主張する意見は、
彼らが苺の味が好きだと言うのと同じくらい意味がない」

と言い放ったとされることから来ています。
もっともディーン氏は事実が曲げられて引用された、として、

「彼にとって大学のポリシーに対する学生の意見は重要であるものの、
もし理にかなった説明がなければ、彼にとっては
苺が好きな学生が多数派かどうか以上の意味を持たない」

という意味だ、と弁明したそうです。

まあ、確かに違うっちゃ違いますが、「自分にとって意味がない」、
つまりその意見は「彼らが苺の味が好きだというのと同じくらい意味がない」
といっているのとほぼ同じなのではないかと(´・ω・`)

「いちご白書」はその後映画化されました。
テーマに使われた「サークルゲーム」Buffy Sainte-Marieは名曲です。

 

大学のストライキの直後、FBIの防諜捜査官は、学生の反戦抗議者をリストアップし、
彼らに対する監視と「嫌がらせ」(博物館の意見ですので念のため)を強化しました。

 

続く。

 

 


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