ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」、
まず当時の大統領選挙に使われた投票機が現れました。
もちろん票集計機ではありません。
ド〇〇〇ンパワーフォーエバーでもありません。
説明がないのでどうするかわかりませんが、
候補者の名前を押すとそこで一票が投じられるようです。
え〜、こんな機械で不正しようと思ったらやり放題だよね?
とつい思ってしまいますが、その話はさておき。
今日はベトナム戦争真っ只中に行われたジョンソン大統領の次を選ぶ
アメリカ合衆国大統領選挙についてです。
■ LET US VOTE! 選挙年齢の引き下げ
Old Enough to Fight, Old Enough to vote〜L.U.V
「戦うのには歳をとりすぎ、投票するのにも歳をとりすぎ」
ベトナムで戦闘を行なったり、あるいは候補者を支持するような立場の人は
それまで若すぎて投票することはできなかった、という意味です。
この「矛盾」を解決するため、アメリカではそれまでの投票年齢を
21歳から18歳に引き下げ、これによって政治的な関心が高められました。
「LET US VOTE」(LUV=投票させろ)
として知られた団体は、全米3,000の高校と400の大学に支部を持ち、
大ヒット曲「デイドリーム・ビリーバー」で有名な、あの
ザ・モンキーズ(The Monkees)は、LUVの「アンセム」を作曲しています。
探してみたら「モンキーズ」ではありませんでしたが、モンキーズのメンバー、
トミー・ボイスとボビー・ハートのクレジットでそれがありました。
Tommy Boyce and Bobby Hart - L. U. V. (Let Us Vote)
「僕たちは援助の手を伸ばすのにもう十分な年齢なのさ
だから、一緒に手を取り合っていい国を作ろうよ」
ポップなリズムに乗せて、このような歌詞が謳われています。
(♫エール・ユー・ヴィー♫というコーラスはお約束?)
1976年、キャンペーンは憲法第26条改正の採択につながり、
このときから18歳が最低投票可能年齢になりました。
日本が投票年齢を引き下げたのは、この時から40年後のことになります。
■ リチャード・ニクソン候補
パネルの始まりである左上には、こんな言葉があります。
「ニクソンは『薄利多売』の勝利を収めた
国家統一を提唱して」
2020年のアメリカ大統領選挙。
これをきっかけにアメリカの選挙制度について妙に詳しくなる人が増えましたが、
それはあまりにもこの選挙で不思議なこと、異常なことが起きたからですが、
この大統領選挙によって、これまでも、そしてこれからも、誰が大統領になるかがアメリカの、
ひいては世界の運命が変わるという現実に変わりはありません。
特に、ベトナム戦争が継続していた1968年の大統領選は、それによって
戦争の行方が変わるかもしれないのですから、世界中が注目していました。
改めて言うまでもありませんが、ニクソンは1952年の大統領選で、
民主党のケネディと選挙戦を行なって敗北し、その後は弁護士活動をしながら
カリフォルニア知事選に出馬するも敗北、「負け犬ニクソン」と呼ばれていました。
しかし、弁護士活動を通じて着々と地盤固めを行い、共和党候補にまで返り咲きました。
アイゼンハワー大統領の副大統領として、ニクソンは
アメリカのベトナムへの関与を熱心に支持する立場でした。
彼の選挙運動は民主党の戦争への対応を攻撃し、
「名誉ある平和」
を達成することを訴えるものでした。
当時国内を席巻した破壊的な公民権運動と反戦抗議運動への国民の不安と不満に乗じ、
ニクソンは「法と秩序」についてキャンペーンを行いました。
ニューヨーク知事選では共和党のリベラル派であったネルソン・ロックフェラーを支持し、
これらの選挙戦を通してついに8月の党大会で共和党の指名を勝ち取っていました。
■ 民主党ハンフリー候補とニクソンの「秘密の取引」
選挙が近づくと、共和党の候補者リチャード・ニクソンの支持率は先行しましたが、
ベトナム停戦を訴える民主党のハバート・ハンフリーに追い上げられてきました。
「ハート・ヒューマニティ・ホープ」
ハンフリー副大統領は、ジョンソンが大統領選に出ることを辞退した翌月、
選挙レースに参加しました。
かつて公民権と社会改革に関してリベラルな主張を行なっていたハンフリーは、
今や穏健で保守的な民主党員のお気にいりとなっていたため、
予備選挙に出馬せず、党内の支援に頼ることで民主党員の指名を受けています。
彼は北ベトナムとの即時交渉を主張していましたが、ジョンソンの副大統領だったため、
「戦争の賛成派」であるという国民の認識を克服するのに苦労していました。
そのときおりしも、大統領だったジョンソンが、
「ベトナムでの北爆は停止され、4党の平和交渉が始まるだろう」
と発言したのです。
これが、ハンフリーの支持率急増の追い風となったのです。
そこでニクソンはこの発言が選挙に影響を与えることを恐れ、
選挙対策として、南ベトナムのティウ大統領との接触をある方法で試みます。
でたー!
ここで登場するのが、あのドラゴンレディ、アンナ・シェンノートです。
クレア・リー・シェンノートの後妻で、政界に進出していた彼女は、
共和党議員といいながら、もっぱらの仕事は政界のロビイストでした。
彼女はニクソンを支持するため、ティウ大統領に近づき、
「ジョンソンの和平交渉を拒否すれば、ニクソン大統領のもとで
より有利な条件で交渉妥結することを保証する」
と吹き込み、ティウ大統領は彼女の言葉に乗ってLBJとの和平交渉を拒否しました。
このことで、ハンフリー候補への世論支持の急増は抑えられる結果になりました。
■ 独立党候補 ジョージ・ウォーレス候補
「インデペンデント・キャンディデート」、つまり「独立党」の候補です。
アラバマ州前知事のジョージ・ウォーレスは、1968年2月になって
「サードパーティ」独立党の候補者として大統領選に立候補しました。
今の基準で言うと、熱心な「人種差別主義者」であったところの彼は、
法と秩序を回復し、つまり、学校、バス、その他の公共の場所における
人種統合の案に反対する立場を取りました。
ポリコレ文化大革命の今のアメリカでは考えられない候補ですが、
ところがどっこい、この考えに賛同する人々も少なからずいたということなのです。
公民権運動に不快感を持つ、南部の白人層の代表、それが彼でした。
ベトナム戦争については、全面的な勝利かさもなくば迅速な終結、
どちらかにするべき(つまり強硬策)であるという考えでした。
我々にとって驚くべきは、副大統領候補に、あの日本本土無差別爆撃を指揮した
元空軍参謀総長、我々にとっては「鬼畜」カーチス・ルメイを指名したことでしょう。
彼の支持は南部を超えてアメリカ中に広がり、それまで民主党支持者だったはずの
北部の都市部ブルーカラー労働者や白人移民らが同調したといわれています。
いずれも公民権運動によって恩恵を受けない層でした。
思い切った彼の政策は意外とアメリカ人の支持を受けたということになります。
余談ですが、彼は1972年の大統領選にも立候補し、遊説中に
売名目的の男に銃撃され、下半身付随になって民主党の指名選挙に敗退しました。
その後、彼は黒人への差別は誤りであったと殊勝に認めたため、
知事に就任して公約通り黒人を政府に登用し、晩年には経験なキリスト教信者となりました。
現在も彼の評価はアメリカでは真っ二つに分かれているそうです。
「二大政党制にこだわらず草の根の民意を反映することに尽くした」
これが、彼を肯定する層の評価です。
■ 反戦派、民主党 ユージン・マッカーシー候補
それでは、代表推薦を得られなかった候補者を紹介していきます。
ユージン・マッカーシー上院議員は、1967年11月には大統領選挙に名乗りを挙げ、
さっそくジョンソン大統領のベトナム政策に反対する立場に立ちました。
マッカーシーの協力の反戦メッセージは、リベラルな有権者や若い活動家たちに
多大な影響を与え、これが彼のキャンペーンメッセージの中心になりました。
シカゴでの民主党員への演説で、マッカーシーは戦争に対する嫌悪感をこのように述べました。
「ベトナム戦争はアメリカの全ての問題の中心である。
それは道徳的に間違っている戦争である」
反戦派にはウォーレス、ニクソンはもちろん、ハンフリーもダメってことですね。
「プロ戦争へのチケット」を発行する彼らに投票するな、と言っています。
■ ジョンソン現大統領
ところで、当初、1968年の大統領選挙では、現職のジョンソンが
民主党の予備選を勝ち抜き、指名を獲得することは確実と見られていました。
しかしながら、一般的に彼の大統領としての地位はベトナムをめぐって危機に瀕していました。
テト攻勢は誰の目にも勝利が程遠いことが明らかになったからです。
マッカーシー
マッカーシーはジョンソンに勝つために反戦をテーマにし、学生や運動家を中心とした
草の根キャンペーンで指示を広げていき、予備選ではジョンソンの得票率
49%に対し、42%と肉薄するという結果になります。
「賢者」と呼ばれる年長の政治家たちでさえ、ジョンソンに
平和交渉を進めるように進言をしていました。
ジョンソンは身内である民主党員の支持を失っていることを知り、
大統領再選を断念して選挙戦からの撤退、本選不出馬を表明しました。
1968年、彼がテレビで再選に立候補しないことを表明した時、
国民は衝撃を受けたと言うことです。
■ 民主党 ロバート・ケネディ候補の暗殺
マッカーシーのキャンペーントレイルは、国民の目にも「成功」と映りました。
このムーブメントに感銘を受けた、ニューヨークの上院議員、
ロバート・F・ケネディは、1968年3月、ジョンソン大統領に挑戦すると発表しました。
ケネディ上院議員は、
「南ベトナムに対し無関心に土地が破壊され人々が死んでいくのを
喜んで見ていることができるなら、そもそもなぜそこにいるのか」
と強い言葉でジョンソンを糾弾する立場を取りました。
彼はまた、貧困、人種差別、およびその他の社会問題に焦点を当てることで
マッカーシーよりも幅広い指示を集め、世論調査では群を抜いていました。
もし彼が暗殺されなかったら、もしかしたら民主党候補は
人気抜群のロバート・ケネディになっていたかもしれません。
彼が大統領選立候補を表明して約3ヶ月後の6月5日、真夜中過ぎ、
ロスアンジェルスのアンバサダーホテルで集会を済ませた後、
ホテルのキッチンを通り抜けようとしたRFKは銃撃され暗殺されました。
RFKはカリフォルニア州での予備選挙で勝利したばかりであり、
大統領に勝利するのに最も可能性のあると見られていた反戦候補者でした。
彼の弟であるエドワード・ケネディ上院議員は、RFKの葬式で次のように語りました。
「かれは、間違っていることを見てそれを正そうとし、
苦しみを見てそれを癒そうとし、そして
戦争を見てそれを止めようとした、
善良で正しい人としてのみ記憶されるべきです」
■ ピッツバーグの大統領選1968
1968年の大統領選におけるここピッツバーグの得票です。
アメリカ全体の得票率とほぼ同じ割合になっています。
しかし、この三人以外はゼロですが、ピッツバーグでゼロレベルの候補者でも
全米レベルだと4〜5万票も入ってしまうのか・・・。
アメリカという国の巨大さを実感しますね。
続く。