ハインツ歴史センターのベトナム戦争展から、まず
反戦運動と同時に起こり、ジョンソン政権の基盤を危うくした
公民権運動の象徴、「ブラック・サリュート」についてお話ししました。
今日は、ここピッツバーグで繰り広げられた反戦活動を取り上げます。
「サイゴンでの路上の処刑」はアメリカの全国民に、戦争の大義に対する疑問を与えました。
反戦運動が激化するきっかけになった一つの写真です。
息子たちを戦場に送っている母親たちの反戦デモ。
1967年、母の日に彼女らはワシントンに手紙を書くというキャンペーンを行いました。
「今年の母の日にわたしは花は欲しくない。
殺害を終わらせてください」
彼女らはロビー活動や座り込みやスーパーマーケットや教会でのチラシ配りと
どこでも現れて反戦を訴えました。
1967年、ムハマド・アリが徴兵を拒否しました。
彼は良心的兵役拒否者の地位を主張しましたが、政府は彼を起訴し、
懲役刑を言い渡し、ボクシングのタイトルを剥奪しました。
「何故彼らはわたしに軍服を着せて1万マイル離れたベトナム人に
爆弾を落としたり弾丸を撃ち込むことを頼まなければならないのに、
「ニグロ」と呼ばれるルイビルの人々は犬のように扱われるのでしょうか?
もし戦争に行くことが彼らのいうように自由をもたらすならば、
そしてそれが2,200万人に平等ならば、彼らはわたしを徴兵する必要などないのです。
わたしは明日にでも入隊するでしょう」
彼はこの姿勢を称賛され、あるいは罵倒されました。
彼が再びボクシングに戻ることができたのは3年を待たなくてはなりませんでした。
彼は最終的に最高裁の訴訟で勝利しています。
「サポート・アワ・メン」(兵士支援)は、
「戦争賛成ではなく、アメリカ賛成」
という考えの人たちの運動です。
反戦運動家たちに腹を立てているのではないが、戦争に反対することはアメリカ人ではない、
あるいは
「アメリカを愛せないのなら出て行きなさい」
という考えで、主に在郷軍人会などに支持されました。
写真左上は車のバンパーに付けるメッセージで、
「我々の息子たちをベトナムに戻せ」
と書いてあります。
■ピッツバーグでの反戦活動
まず「STOP THE WAR」という巨大なバナーが登場しました。
ピッツバーグの活動家、デイビッド・ヒュージスは、パイレーツの試合の始まる
スタジアムが、最も効果的に彼らの主張を伝えることができる場所と考え、
バルコニーからバナーを落としたのですが、たちまち警備員がやってきて
止めるようにと言われたそうです。
やっちまった証拠
ヒュージスはその後も熱心な反戦活動家として、たとえばピッツバーグ大学が
戦争に協力したという証拠がないかと文書を調べるなどということもしています。
ピッツバーグでは、かつて労働組合のために戦った多くの労働者、
(社会主義者)が市民運動の背後に集まり、拡大するベトナム戦争に反対し始めたときが
いわゆる「ターニングポイント」となったといえます。
1940年代の労働組合のリーダーかだ1960年代の活動家リーダーへと移行した
チャールズ・オーウェン・ライス(Charles Owen Rice)ほど、
この変化を象徴する存在はありません。
1967年のデモで、マーチン・ルーサー・キングJr.博士の右側にいるのが
ライスで、彼はカトリックの司祭であったため、教皇庁の上級クラスに対する敬称、
「Monsignor」(モンシニョール)が付けられてモンシニョール・ライスとなっています。
ピッツバーグ教区で司祭に叙階されたライスは、社会的な活動、特に
アメリカの労働運動に傾倒し、「カトリック急進同盟」のリーダーとして、
H.J.ハインツ社に対するストライキに参加したこともあります。
(そしてこれが展示されているのはハインツの資産であった歴史センターです)
わたしは少し驚いたのですが、カトリック教会の組織に
「カトリック労働組合員協会」を結成したのも彼の貢献があってこそです。
ベトナム戦争について、反戦活動家の連合体である
「ベトナム戦争を終わらせるための全国動員委員会」
の初期の組織者であり、貢献者でもあり、1967年4月にニューヨークで開催された
「ベトナム戦争を終わらせるための春の動員」
の最初のデモに参加しました。
MRKと一緒の写真はこのときのものです。
しかし、一説によると、司祭が組合の労働者ではなく、反戦と
公民権運動のムーブメントを受けて人種不平等を説き始めると、
彼の最も熱心な支持者であった、白人労働者階級のカトリック教徒たちは
彼に裏切られたと感じ、離れていったとされます。
ピッツバーグでの反戦運動は大学や草の根組織に根ざしており、
白人労働者階級のメンバーはほとんどおらず、彼の信者のほとんどは
ベトナム戦争と共産主義の封じ込め政策を支持する立場でした。
もちろん中には戦争について個人的に疑いを抱いている人もいたでしょうが、
そんな彼らもライス司祭の反戦活動については懐疑的でした。
当時、戦争に反対することは軍隊に反対することと同等であり、
実際にベトナムで死んでいくのはほとんどがカトリックと黒人労働者階級の息子でした。
戦争で23人の戦死者を出したマッキーズポートの町は、
1966年、国内で初めてとなるベトナム戦争の慰霊碑を建立しています。
1969年、ピッツバーグのダウンタウンで行われたデモ行進で、
リードするモンシニョール・ライス。(眼鏡の人物)
写真の「平和と正義のための行進」の開催を告知するチラシ。
こ日曜日の午後、ヒル地区のフリーダムコーナーから
ダウンタウンを通って、ポイント州立公園までを歩くということが書かれています。
モンシニョール・ライスと弁護士のバード・ブラウンらが行進の共同議長を務めました。
フィフスアベニュー(MKが以前住んでいたアパートのある通りです)
で、ベトナムの少年たちの写真を掲げて戦争反対をスピーチする
ピッツバーグ地元の活動家、テッド・ジョンソンとビル・アーチャー(右)。
「こんなことのために戦う価値があるのか!」
と書かれた大きな文字の下には、
「ベトナムにいる我々の息子たちを返せ」
という反戦運動の定型句となった言葉が書かれています。
おお、これは誰が見ても一眼でわかる、ピッツバーグ大学の「学びの塔」。
「僕の従兄弟は行った
僕たちはどうすれば?」
「行った」が「逝った」という意味であるらしいことは、
墓石の絵によって表されています。
写真に写っているデイビッド・ワルドはピッツバーグ大の学生でした。
「貧困のために戦え!ハノイのためにではなく」
1968年、ケネディ大統領が決定したベトナムへの武力行使に反対する
ピッツバーグのコミュニティアクションとしてのデモです。
JFKはリベラル派には特に支持されて人気のある大統領で、暗殺される1カ月前に、
1963年までにアメリカ軍将兵1000名を撤退させる計画を承認していたことから、
「彼が暗殺されていなければ、アメリカ軍はベトナムからもっと早期に撤退していた」
といかにも彼がリベラルだったように印象操作されていますが、
ロナルド・レーガン政権の誕生以前に、軍拡を歴史上最大の規模で押し進め、
1961年に失敗したキューバ侵攻計画、「ピッグス湾事件」を後押ししたのも彼だし、
ベトナムに武力を送る決定をしたのは他ならぬケネディだったわけですから、
「彼がもう少し早く暗殺されていたら、
ベトナムへの派兵は無かったとは言わないが、
逆にもっと遅かったかもしれない」
ということもできるわけです(いじわる?)。
そもそも白人のエスタブリッシュ出身で、第二次世界大戦では
PTボート艇長として死にかかった元軍人が左翼になるか?
とわたしなどうっすら思っていたりするわけですが、
当人もはっきりと、自分はリベラルではないと断言していたようですね。
したがって、公民権についても、社会状況と立場上そうせざるを得なくなって、
渋々というか仕方なく任期最後に推し進めた、といわれております。
「テッド・マーシュをサポートしよう!」
というチラシです。
1968年1月、宣教師の息子であったテッド・マーシュは、戦争を
「非人道的、不公平、違法」であると講演で述べました。
彼は1967年に徴兵カードを受け取ったとき、他の8名とともに、それを
徴兵局ではなく、モンシニョール・ライスに提出?し、徴兵拒否を表明しました。
2月、彼は兵役拒否の摘出起訴されましたが、のちに「技術的な理由で」
起訴は取り下げられることになり、彼は最終的にその年の10月陸軍に入隊しました。
そのときの彼の発言です。
「信念は愛国心の欠如を意味するものではありません」
彼の徴兵拒否をサポートした人たちはこの発言をどう思ったでしょうか。
ピッツバーグのアフリカ系アメリカ人、ロン・サンダースは反戦運動家でしたが、
「良心的兵役拒否者」カテゴリ1-O-Aとして陸軍に徴兵入隊を行い、
フォート・サム・ヒューストンに駐屯しました。
メキシコオリンピックの「ブラックパワー・サリュート」の再現でしょうか。
高々と拳をあげるサンダース。
彼は公民権運動に共感する黒人とラテン系GIの戦争抗議者を組織し、
「フォートサム7」と名乗っていました。
ロン・サンダースと「フォートサム7」のメンバーたち。
6人しか写っていませんが、一人がシャッターを押しているのでしょう。
■ 反戦デモばかりではなかった
1969年9月、ピッツバーグのある高校で起きたデモについて、
このような報道が残っています。
突然、約100人の州外から「ヒッピー系」の少女たちが車で侵入し、
ベトナム戦争に抗議するデモを始めたため、校内は混乱に陥りました。
「"Jail break! 学校を閉鎖しろ!」
と皆は口々に叫び、生徒を授業から解放して
反戦運動に参加させようとしたのです。
彼女らはなぜかベトコンの旗を振り、教師を殴り、半裸で走り回りました。
その結果、20人の若者が逮捕されましたが、このとき
なぜサウスヒルズがデモの対象になったのかは最後まで不明でした。
ピッツバーグでの反戦デモは、ワシントンやニューヨーク、そして
サンフランシスコほどの人数を集めることはできませんでしたが、だからといって、
「スチールシティ」の住民がベトナム戦争に対し沈黙していたわけではありません。
1960年代から70年代初頭にかけて、何千人ものピッツバーグ市民が様々な形で声を上げ、
ピッツバーグのダウンタウンや地元の大学キャンパスで行進や抗議活動を行いました。
しかし、これらの反戦運動がベトナム戦争に従事する人々を
ある意味不快にさせていたのも事実のようです。
あるピッツバーグ出身のベトナム戦争従事者は、戦地からの手紙にこう記しました。
「わたしや他の多くの人々を苛立たせているのは、わたしたちアメリカ人が
ここにいることに抗議するデモが国内で公然と行われていることです」
彼もまた 他の兵士と同様に、ピッツバーグがアメリカの他の都市ほど
積極的に戦争反対の声を上げていないことをむしろ評価しており、
つまり、アメリカの反戦感情には「心を痛めていた」ということになります。
このように、当時行われたデモが、必ずしも反戦を表明するものばかりではなかった、
ということはここで書き留めておかなくてはならないでしょう。
共産主義の戦いのために海外の軍隊を派遣することを支持し、
現実に出征している軍隊への賞賛を表明しようとするデモもあり、
これらは反戦デモとしばしばにらみ合いになっていました。
■ ピッツバーグ最大の反戦デモ
1969年10月、ピッツバーグのダウンタウンで行われた大規模な反戦デモ。
数多いですが、拳を振りあげたり大声で叫ぶ様子もなく、
中には隣の人と喋りながら歩いている人もいるようです。
BLMの暴動の時、多くの商店が略奪され、破壊されていたにもかかわらず、
当時のBBCニュースが、その映像に対し
「平和的なデモです!」「平和的なデモです!」
と連呼しているのをリアルタイムで見ていて、
「どこが平和的やねん!」
と思わずツッコミ担当になってしまいましたが、こういうのが平和的なデモっていうんだよね(棒)
それはともかく、これがピッツバーグにおける最大の反戦集会となりました。
何千人もの人々が、注目を集めることを期待して、
わざわざ夕方のラッシュアワーにダウンタウンの街に繰り出したのです。
写真を見ていただければわかりますが、構成人員はいかにも大学教授のような人、
主婦、髭を生やしていない学生、退役軍人などです。
ピッツバーグ周辺で反戦デモの先頭に立っていたのは、サウスヒルズ高校のような
若い「ヒッピー系」だけではないことがおわかりいただけるでしょう。
■ ケント州立大学銃撃事件
「ストップザウォー」のバナーの左上に見える、
赤い拳のうえに「ストライク」と書かれたTシャツは、
「ストライクTシャツ」
といいます。
1970年、ニクソン大統領がカンボジア侵攻を発表したあと、
多くのピッツバーグの大学生が復活された反戦抗議に加わりました。
ピッツバーグの住人でオハイオのケント州立大学生だったアリソン・クラウスが
カンボジアへの侵攻や大学のキャンパスでの州兵駐留への抗議活動中、
オハイオ州陸軍州兵の兵士に他3名の学生とともに射殺された
を受けてのことです。
ピューリッツァー賞を受賞した銃撃直後のシュローダーの写真
このとき州兵は非武装の学生グループに約100mの距離から、
13秒間に67発の銃弾を発射し、この銃撃事件でアリソンの他、
ジェフリー・グレン・ミラー、サンドラ・リー・ショイヤー、
ウィリアム・ノックス・シュローダーが亡くなり、9名が負傷しました。
左から、ミラー、クラウス 、リー、シュローダー
この銃乱射事件は、抗議行動や全国的な学生ストライキを引き起こしました。
ベトナム戦争の時には比較的静かなデモを行ったピッツバーグでしたが、
この事件に対してはピッツバーグ大学、カーネギー・メロン大学、カーロー大学、
ポイント・パーク、ロバート・モリス大学、アレゲニー・コミュニティカレッジ、
つまりピッツバーグのほとんど全ての大学が授業をボイコットし、
ストライキに参加し、連邦ビルでの行進と抗議を行いました。
このTシャツはアリソン・クラウスと高校で同級生だった学生が制作し、
抗議者たちが着用していたものです。
続く。