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ニクソン大統領の「ベトナム化」と映画「パットン」〜ハインツ歴史センター ベトナム戦争展

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ハインツ歴史センターのベトナム戦争展、次の展示は
先頃終了した同じピッツバーグの「兵士と水兵の記念博物館」のシリーズで
ご紹介した、タイムの特集、

ONE WEEK'S DEAD(1週間の死)

が紹介されていました。

おそらく、これがライフ誌が掲載した全ページだと思われます。

「ベトナムで死んだアメリカ人の顔 一週間の数」

One Week 's Toll

というここでのタイトルに使われた言葉ですが、「Toll」には

「死者を弔って鳴る鐘」

という意味もあります。
このコーナーのタイトルは

「RISING  DEATH TOLL」

で、「増加する死者数」という意味となります。
ライフ誌は、この一人の青年の顔と11の単語からなる厳しい言葉の表紙の、
いまだに物議を醸している特集記事を掲載しました。

 

リチャード・ニクソン大統領は、アメリカの威信と南ベトナムの非共産主義化を
守り、維持するための戦いを続けました。

しかしながら、アメリカ人のベトナムでの死者数の増加につれて
高まっていく厭戦のムードは、大統領にそれを終わらせるように圧力をかけました。

「我々は立ち止まり、
その人々の顔を直視しなければならない。
何人が亡くなったのか、だけではなく
『誰が』亡くなったのかを知るために」

このように書かれた1969年6月27日発行のライフ誌の記事は、
国民の受けた衝撃をさらに具体的な形にしたものとなりました。

しかしながら、ここで大変重要なことを書いておかなくてはなりません。
わたしは前回「兵士と水兵のための記念博物館」展示の紹介で、
当然ながらライフ誌のこの「顔」は、全員が1週間で死んだ兵士である、
と信じ切っていたのですが、どうもそれは違っていた、つまり
これはライフ誌の「暴走」というか「印象操作」であったらしいのです。

そのことについてはちょっと後に回すとして、アメリカ国民に
この記事が衝撃を与える前に、別の衝撃的な作戦がベトナムで行われました。

それが1969年5月の「ハンバーガー・ヒル」と呼ばれた
(第一次世界大戦風にいうなら)「肉挽き機の戦い」でした。

■ ハンバーガー・ヒルの戦いを受けて

「ハンバーガーヒル」の戦いとは1969年5月10日から20日にかけて行われた戦闘です。

主に歩兵同士で行われたこの戦いで、米空挺部隊は、鬱蒼としたジャングル、
二重三重となった竹の茂み、腰まで届くエレファントグラスに覆われた荒野で
強固な部隊と対峙し、直接攻撃で丘を奪い、PAVN軍に多大な犠牲者を出しました。

この地で戦った米兵は、朝鮮戦争の「ポークチョップヒルの戦い」になぞらえて、
この丘で戦った者が「ハンバーガーの肉のように挽かれた」という意味で
「ハンバーガーヒル」と呼んだのでした。

終了後、「ハンバーガー・ヒル」の戦いは「アパッチスノウ」なる作戦の拙劣さと
その結果に対し、議会では、特にエドワード・ケネディ、ジョージ・マクガバン、
スティーブン・M・ヤングの各上院議員が、軍のリーダーシップを厳しく批判しました。

そして、6月27日発売の『ライフ』誌に、

「ベトナムで1週間に殺された242人のアメリカ人の写真」

が掲載され、これが結果的に、ベトナム戦争に対する
否定的な世論の分岐点になった、と考えられています。

ここで一つの大きな問題は、

掲載された241枚の写真のうち、
実際の戦死者の写真は実は5枚だけだった

と一部では言われていることでしょう。

ちょっと待ってください。

てっきり「開戦から1週間でこれだけが死んだ」ってわたし思い込んで、
以前にもそう書いてしまったんですけど。

そこではっと気づいてハンバーガーヒルでの米軍戦死者数を調べたら、

10日間で72名(行方不明者7名)

って全然数が違うんです(困惑)

勘違いさせられたのはもちろんわたしだけでなく、当時、多くのアメリカ人は
雑誌に掲載された写真はすべて戦死者であると認識していたのでした。

「タイム」の記事から、もう一度(前回と同じ部分になりますが)
翻訳しておきましょう。

「ベトナムでの戦争に関連して殺されたアメリカ人男性の顔である。
242名の名前は、5月28日から6月3日(1969年)までに発表されたもので、
メモリアル・デーを含むことを除けば、特別な意味を持つものではない。

死者の数は、戦争中の7日間としては平均的なものである。

この記事は、死者を代弁することを意図したものではない。
彼らが世界を駆け巡る政治的潮流をどう考えていたのか、正確に伝えることはできない。

何人かの手紙からは、彼らがベトナムにいるべきだと強く感じていたこと、
ベトナムの人々に大きな共感を抱いていたこと、
そして彼らの膨大な苦しみに驚愕していたことがうかがえる。

自発的に戦闘任務の期間を延長した者もいれば、帰国を切望していた者もいた。

これらの写真のほとんどは彼らの家族から提供されたものであり、
彼らの多くは息子や夫が必要な目的のために死んだという感情を表していた。

しかし、この戦争で死亡したアメリカ人の数が3万6,000人で、
ベトナム人の犠牲者にははるかに及ばないものの、朝鮮戦争の死者数を上回っているとき、
国民は毎週のように、国中の何百もの家庭で直接的な苦悩に変換される
3桁の統計にしびれを切らし続けている。

私たちは立ち止まって顔を見なければならない。
何人なのかを知る以上に、誰なのかを知る必要があるのだ。

家族や友人以外には知られていない1週間の死者の顔が、
このアメリカの若者の目のギャラリーでは、誰もが突然認識できるのである」


確かに、ベトナムで亡くなったのは膨大な数の人間です。
しかし、亡くなってもない人の写真を死んだと思わせるように編集し、
掲載するというのは、ジャーナリズムにあってはならないことでしょう。

この号には

"写真を見ていて、昔の知り合いの笑顔を見てショックを受けました。
彼はまだ19歳でした。
19歳の若者が死ななければならないなんて考えてもいませんでした”

という手紙が寄せられたといいますが、その知り合いの19歳の青年が
本当に死んでいなければ、タイム誌はこの人に何と説明するつもりだったのでしょうか。

しかし、このことに言及しているのは「ハンバーガーヒル」についての
英語のWikipediaのみで、他からの確証を得ることもできず、このベトナム展でも

「ハンバーガーヒルの数日後、ペンタゴンは1週間の間に前線で亡くなった
242名のアメリカ人の名前をリリースしたので、ライフ誌が彼らの写真を掲載した」

とされ、241名(1名数が合わない)が戦死者だということになっています。

これ以上わたしにも調べようがないので、この話はここまでしか言及できません。

■  WINNING AMERICA'S PEACE(アメリカの平和を勝ち取る)

タイムの「顔」はこのようなコーナーの一部分にあります。
そして、その中に、

「アメリカ軍の撤退とベトナミゼーション」

というサブタイトルがありました。
「ベトナムゼーション」とはどのようなことでしょうか。

1969年6月、ニクソン大統領は国民の不満を鎮めるために
徐々に米軍をベトナムから撤退させ始めました。

12月には彼はついに徴兵ドラフトを「くじ制」に変更しました。

徴兵がロータリー(くじ)に代わるというニュースをラジオで聴く
サンフランシスコ大学の学生三人。

徴兵局(セレクティブサービス)はまた、1971年に学生の徴兵延期を排除し、
草案をより公平なものへと変更し、大統領が、国防長官のメルヴィン・レアードとともに

『ベトナミゼーション』(ベトナム化)

と呼ばれた政策とアメリカ軍の撤退を結びつけました。
米軍その他外国の軍隊は手を引いて、北ベトナム対南ベトナムといったように、
戦争をベトナム人同士でお好きにやってくださいな、というわけです。

まあ、なんのことはない、テト行勢のあと、勝利の可能性がなくなり、
国内の不満が高まったため、ニクソンは戦争を南ベトナムに押し付けて
自分はもう手を引く気満々だったということですね。

いったい何処のどいつが始めた戦争だ、と誰もつっこまなかったのは、
世間のムードがすっかり撤退一色になっていたからだと思われます。

冒頭に挙げたのと同じ「タイム」の表紙には、帰国する米兵と
「帰国開始」という文字があしらわれました。

これが「顔」の号より1週間前の発売なのです。

トマホーク火力支援基地の米軍旗が後納され、代わりに
南ベトナム政府の旗が掲揚されるという象徴的な儀式の様子。

基地は第101空挺団からARVINの第5大隊に移譲されます。
1971年の写真です。

■ AIR WAR (空爆)

 

「アメリカの飛行機は700万トンもの爆弾を
戦争の期間南東アジアに投下した」

何かと評判の悪い()アメリカ軍のベトナム空爆です。

前記のように、地上部隊の数が急激に減少する中、アメリカ軍は
ベトコンと北ベトナム軍を打ち負かすために空軍力に多くを頼りました。

攻撃場所は南ベトナムとラオスが対象でした。

1969年、ニクソンは密かにカンボジアを襲撃し始めました。

このカンボジア作戦は、ベトナム戦争とカンボジア内戦の延長線上で、
1970年に南ベトナムとアメリカが、公式には中立国であった
カンボジア東部で行った短期の一連の軍事作戦です。

この作戦の目的は、カンボジア東部の国境地帯にいたベトナム人民軍(PAVN)と
ベトコン(VC)の約4万人の部隊を敗北させることでした。

アメリカは繰り返すようにベトナム化と撤退の方針を打ち出しており、
国境を越えた脅威を排除することで南ベトナム政府を支えようとしたのです。

W・エイブラムス将軍は、ニクソン就任直後にカンボジアの軍事地域を
B-52ストラト・フォートレス爆撃機で爆撃することを勧告しました。

ニクソンは当初拒否しましたが、1969年のテト攻勢で限界が訪れ、決心しました。

結局彼はこの秘密の航空作戦を許可し、14ヶ月間に3,000回以上の出撃が行われ、
計108,000トンの爆弾がカンボジア東部に投下されることになります。

国家安全保障顧問だったヘンリー・キッシンジャーによると、1970年初頭には、
ニクソン大統領は非常に包囲されていると感じており、

「自分の失脚を企てている世界に対して暴言を吐きたかった」

のだそうです。

ニクソンは1969年11月1日までにベトナム戦争を終結させることを誓ったのですが、
それが果たせず、1969年秋には最高裁への指名が2回も上院で否決されることになりました。

そして、1970年2月、ラオスでの「秘密の戦争」が明らかになったのです。

 政府がラオスで戦って死んだアメリカ人はいないと発表した2日後、
27人のアメリカ人がラオスで戦って死んでいたことが明らかになり、
ニクソンの国民の支持率は急激に下落することになります。

 

ところで冗談のような話ですが、当時ニクソン大統領は、
ジョージ・S・パットンJr. 将軍の伝記映画『パットン』にハマっていました。

Patton | #TBT Trailer | 20th Century FOX

この作品でパットンは孤独で誤解された天才であると描かれているのですが、
ニクソンはそんなパットンを自らに擬え、世間から評価されていなかったパットンに
異常に感情移入して、この映画を何度も何度も何度も何度も繰り返し見た挙句、側近に
我々も映画の主題を理解しそうなるべきだと実際に言ったのだそうです。

特にニクソンは、

「我々はまだベトナムでのコミットメント(関与)に真剣である」

ということを証明する壮大な軍事行動を起こすことが、アメリカの利益にかなう形で
パリ和平交渉を終結させるかもしれないと考えていたことが、この
秘密の攻撃を起こすことにつながりました。


結局、アメリカが南東アジアに戦争中投下した爆弾は、
第二次世界大戦の時の3倍とも4倍とも言われる量となりました。

「絨毯爆撃」などという言葉も、この戦争で生まれたものです。

この合計の半分以上が南ベトナム上空から落とされました。

「国中の人に死をもたらす戦争がありました。
田んぼや野原、村で働いていた人々が空爆を受けました」

ラオスで空爆を経験し、生き残った人が描いた絵です。

■ クラスター爆弾

各2000ポンドのクラス爆弾一つには、対人断片爆弾が665個含まれています。
内蔵されているのは600個の鋼片に加えて爆発物と信管でした。

爆弾は衝突時、またgは衝突後の事前に設定された時間に、
地上30フィートで爆発するように設計されていました。

ここに展示されている爆弾は訓練のために作られたもので青色は不活性を意味します。

 

続く。

 

 


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