ハインツ歴史センターの「ベトナム戦争展」は、どちらかというと
参加したアメリカについて言及している展示物が多く、
ベトナム軍についてはほとんど語られていないという印象ですが、
「ベトナム人の受けた災厄」として象徴的となった例の
「サイゴンの処刑」
「川を脱出する家族」
の他には、やはり世界に衝撃を与えたこの写真(の掲載された本)
つまりアメリカ国民に衝撃を与えたページが見開きで展示してありました。
■ Mỹ Lai massacre ソンミ村虐殺事件
ミーライ大虐殺( Thảm sát Mỹ Lai)は、ベトナム戦争中の1968年3月16日に、
南ベトナムのソンティン地区で米軍が非武装の南ベトナム市民を大量に殺害した事件です。
このとき、第23歩兵師団第11旅団、第20歩兵連隊第1大隊C中隊、
第23歩兵師団第3歩兵連隊第4大隊B中隊の米軍兵士により、
347人〜504人の非武装の人々が殺害されました。
犠牲者の数に大幅な違いがあるのは、正確な数がいまだに把握できていないからです。
犠牲者は、男性、女性、子供、乳児など多岐にわたり、26人が起訴されましたが、
最終的に有罪となったのはC中隊の小隊長ウィリアム・カリー・ジュニア中尉だけでした。
カリー中尉は22人の村人を殺害した罪で有罪となり、当初は終身刑の判決を受けましたが、
自宅謹慎のまま3年半だけ服役しあとは釈放されています。
後に、
「ベトナム戦争で最も衝撃的なエピソード」
と呼ばれたこの戦争犯罪は、アメリカでは「ミライの虐殺」、
ベトナムでは「ソンミの虐殺」と呼ばれています。
1969年11月に公になると、この事件は世界的な怒りを引き起こしました。
ことに殺害の範囲や隠蔽工作が明らかになったことで、
アメリカのベトナム戦争参戦に対する国内の反発を呼ぶことにもなったのです。
しかし、後述しますが、当初、虐殺を止めようとした3人の米軍人は、
一部の米議会議員や国民から裏切り者として糾弾されたりしています。
かれらが戦地で非戦闘員を保護したことで米軍に認められ、
死後1名が勲章を授与されたのは、事件から30年後でした。
■ 事件までの経緯
第23歩兵師団第11旅団、第20歩兵連隊第1大隊のチャーリー(C)中隊は、
1967年12月に南ベトナムに到着しました。
最初の3ヶ月間は、ベトナム人民軍やベトコン軍との直接戦闘はなかったのですが、
3月中旬までに中隊は地雷やブービートラップによる28人の死傷者を出し、
さらにミライでの虐殺の2日前に、中隊は人気のある軍曹を地雷で失ったばかりでした。
1968年1月のテト攻勢の際、米軍情報部は、敵がソンミ村に避難し、
村人が彼らを匿っているという情報を持っていました。
そこでソンミでの敵捜索作戦に投入されたのがA・バーカー中佐率いる
タスクフォース・バーカー(TFバーカー)で、彼らの呼ぶところの
『ピンクの村』での掃討作戦が計画されました。
「積極的に侵入し、敵に接近し、永久に彼らを一掃せよ」
という命令を受けたバーカー中佐は、大隊司令官たちに、
「家を燃やし、家畜を殺し、食糧を破壊し、井戸を破壊し、毒を盛るように」
と命じたとされます。
裁判での証言によると、攻撃前夜、チャーリー中隊のアーネスト・メディナ大尉は、
「民間人は市場に行っているはずだから残っているのはベトコンかそのシンパだ」
と言ったというのですが、小隊長たちは、メディナ大尉の命令は
「ベトコンと北ベトナムの戦闘員、女性や子供、動物も全て容疑者だ。
彼らを殺し、村を燃やし、井戸を汚すように」
「歩いているもの、這っているもの、唸っているものすべて破壊せよ」
というものだったと口々に証言しました。
3月16日の朝、メディナ大尉率いるチャーリー中隊の約100人の兵士が、
ヘリコプターでソンミに着陸し、村に入り、田んぼや草むらにいる人に発砲しました。
村人たちは最初はパニックになったり逃げたりしませんでしたが、
彼らに対する殺害は何の前触れもなく始まりました。
兵隊は村人を銃で殴り、井戸に投げ入れてその上から手榴弾を投げ込みました。
寺の周りに跪いて泣きながら祈りを捧げていた女性や子供たちは
全員、頭を撃たれて殺されました。
右側の男の子を左手で抱いた女性は、虐殺の前に性的暴行を受けたため、
自由な右手で衣服のボタンを留めています。
証言によると、彼女を含む全員がこの写真が撮られた数秒後射殺されました。
ゾムランでは約70~80人の村人が集落のはずれにある灌漑用の溝に押し込まれ、
ウィリアム・カリー少尉の命令によって兵士たちに射殺されました。
命令は何度も繰り返され、ある兵士はM16ライフルの弾倉を数本使い切ったと証言しました。
その際、女性たちは、
「ノーベトコン」(わたしたちはベトコンじゃない)
と言って子供をかばおうとしましたが、中隊は、
赤ん坊や幼児を抱いた10代から老齢までの男女を撃ち続けました。
なぜ民間人にここまでしたかというと、アメリカ兵の多くは
村人たちが全員手榴弾で攻撃してくると思っていたからでした。
(だと証言しています)
検察側の証人である下士官のデニス・コンティは、
「多くの女性が、子供を守るために覆いかぶさったため、
銃撃が終わっても何人かの子供たちは生きていた。
その後、歩ける年齢の子どもたちが立ち上がると、カリーは彼らを撃ち始めた」
と語りました。
集落の敵への支援を断つという理由で、家畜にまで殺戮は及びました。
マイケル・ベルンハルトPFCが通りかかったとき、虐殺は進行中で、
「歩いていくと、こいつら(法廷にいる男性たち)が変なことをしていました。
建物に火をつけて、出てくる人を銃撃したり、小屋に入って銃撃したり、
村人を集めてからまとめて銃撃したり・・。
村中に人の山があちこちにありました。
まだ生きている人たちにM79グレネードランチャーを撃ち込んでいました。
彼らは、女性や子供も普通に撃っていました。
私たちは抵抗を受けず、犠牲者が出たわけでもない。
他のベトナムの村と同じように、「オールド・パパサン」(なぜ日本語)
や女性、子供たちがいましたが、実のところ、死んでいようが生きていようが、
軍人年齢の男性は一人も見た覚えがありません」
ソムランの南側にある未舗装の道で殺された村人のグループ。
この写真を撮影した陸軍のカメラマン、ロナルド・ヘーベルの目撃証言によると、
「女性や子供も含めて15人くらいが90mくらい離れた土の道を歩いていました。
突然、GIがM16を撃ち、M79グレネードランチャーを人々に投げ始めました。
自分が見ているものが信じられませんでした」
作戦最後の日、二つの中隊はさらなる住居の焼き討ちと破壊に関与し、
ベトナム人の抑留者に対する継続的な虐待を行っています。
軍事法廷では、チャーリー中隊には殺害に参加しなかった者がいたものの、
公然と抗議したり、上官に意見を申し立てていないことも指摘されました。
午前中までに、チャーリー中隊のメンバーは何百人もの民間人を殺し、
数え切れないほどの女性や少女を強姦したり暴行しました。
ミライで武器を見つけられず村人がベトコンである可能性は無くなった上、
彼らからの攻撃どころか反撃も全くなかったにもかかわらず。
■ ヘリコプター乗員が試みた虐殺阻止
アメリカ師団第123航空大隊B中隊(エアロ・スカウト)のヘリコプターパイロット、
ヒュー・トンプソン・ジュニア准尉
(Warrant officer Hugh Thompson Jr.)
が地上部隊への近接航空支援のためにソンミー村上空を飛行していると、
地上に死傷している民間人を発見し、現場に着陸しました。
トンプソンはそこで出会った軍曹(第1小隊のデビッド・ミッチェル)に、
この人たちをを溝から出すのを手伝ってくれないか、と尋ねましたが、
軍曹は、
"help them out of their misery". (溝よりこの悲惨な状況から出してやったらどうですか)
と答えるだけでした。
ショックを受けて混乱した彼は、その後カリー少尉とこんな会話をしています。
「トンプソンです。ここで何が起こっているんですか、少尉?」
「カリーだ。これは私の仕事だ」
「これは何です?この人たちは誰ですか?」
「ただ命令に従っているだけだ」
「命令?誰の命令ですか?」
「ただ従っただけだ」
「しかし、彼らは人間であり、非武装の民間人ですよ?」
「いいかトンプソン、これは私のショーだ。
私がここを仕切っている。君が気にすることではない」
「ええ、立派なお仕事ぶりですね(Yeah, great job.)」
「 ヘリに戻って自分のことに専念したほうがいいぞ」
「これで済むと思わないでくださいよ!(You ain't heard the last of this!)」
トンプソンがこの後ヘリを離陸させたとたん、
ミッチェルが溝の人々に向かって発砲を始めました。
トンプソンはその後、壕に集められたベトナム人たちに
アメリカ兵たちが近づいていくのを発見したので、近くに着陸し、
「私が村人を壕から出すので、もしその間、
兵隊が逃げる人たちを撃ったら発砲して止めても構わない」
とヘリ乗員部下のコルバーンとアンドレオッタに第二小隊に銃を向けさせ、
そこにいた中尉(第2小隊のスティーブン・ブルックス)に、
「壕には女性と子供がいます。
彼らを脱出させるのを手伝ってくれませんか」
と頼むと、ブルックス中尉は
「彼らを脱出させるには手榴弾を使うしかない」
と言いはなったのですが、トンプソンは中尉に部下の制止を頼んで壕に入り、
怖がる12~16人の民間人をなだめすかしてヘリコプターに連れて行き、
全員を友人のUH-1パイロット二人の助けを借りて、2機のヘリに分乗させました。
しかし、ここまででトンプソンが見たものはこの戦争犯罪のごく一部だったのです。
ミライに戻ったトンプソンと乗員たちは、いくつかの大きな遺体の山を発見しました。
彼らはヘリを着陸させ、乗組員長のグレン・アンドレオッタ特技兵4が溝に入り、
無傷で生存していた4歳の少女を発見して、安全な場所に運びました。
他にも生存している子供を見つけ病院に搬送した後、トンプソンは
本部に飛び、上官に虐殺の事実を怒りを込めて報告しています。
彼の報告はすぐに作戦の総指揮者であるフランク・バーカー中佐に届き、
バーカーは直ちに地上部隊に「殺戮」をやめるよう無線連絡しました。
その後の同様の作戦は同じ事態になる恐れから中止され、
このことは数百人レベルの民間人殺戮を防いだといわれています。
■ その後
そしてミライでの一連の行動に対して、トンプソンは特別空軍十字章を授与され、
アンドレオッタと砲手のローレンス・コルバーンは銅星章を授与されました。
その後、グレン・アンドレオッタは1968年4月8日にベトナムで戦死したのですが、
彼の死後に授与された勲章やトンプソンが授与された勲章の引用文は
上層部が虐殺の事実を隠蔽しようとする思惑から、
「ミライで少女を『激しい十字砲火』から救出した」
「的確な判断により作戦地域におけるベトナム人とアメリカ人の関係を改善した」
と捏造した記述が含まれていたため、トンプソンは怒って賞状をを捨てました。
戦後30年近く経った1998年、トンプソンのヘリコプター乗員の勲章は、
敵との直接的な衝突を伴わない勇敢さに対して米軍が授与できる最高の勲章
とされる
ソルジャー・メダル(Soldier’s Medal)
に変更されました。
このときの勲章の引用文には、
「ミライで行われた米軍による不法な非戦闘員の虐殺の際、少なくとも
10人のベトナム民間人の命を救った、任務を超えた英雄的行為に対して」
と書かれていたのですが、それでもトンプソンは当初、受賞を拒否しています。
■ 同国人からの誹謗中傷
トンプソンは事件についてペンタゴンの公式調査で証言しました。
ワシントンDCに召集され、下院軍事委員会の非公開の特別公聴会に出席したところ、
そこで彼は、アメリカ軍による虐殺事件を隠蔽しようとしていた議員たち、特に
メンデル・リバーズ委員長(民主党)は仲間のアメリカ軍に武器を向けたことで
トンプソンだけが処罰されるべきであると公言し、彼を激しく非難した上、
なんなら軍法会議にかけようとまでしましたが、失敗に終わりました。
リバーズ下院議員
トンプソンは、アメリカ軍人を告発する証言をしたことで、
多くのアメリカ人から悪者扱いされ、誹謗中傷を受けることになりました。
2004年に出演したテレビ番組では、
「電話で死の脅しを受けたり、.朝起きるとポーチに死んだ動物や
切り刻まれた動物が置かれていたりしました」
と告白しています。
■ 軍法会議と戦後
この事件で殺された民間人の数はは資料によってまちまちで、
今に至るまで正確な人数は分かっていません。
虐殺現場の慰霊碑には、1歳から82歳までの504人の名前が記されていますが、
アメリカ軍の公式推定値は347人と低めの数字です。
そもそもアメリカ軍は当初この作戦について、「激しい銃撃戦の末」
「128人のベトコンと22人の民間人が死亡した」と発表していたのです。
1970年11月17日、軍法会議で、司令官のコスター少将をはじめとする
14人の将校が、事件に関する情報を隠蔽した罪で起訴されましたが、
後にほとんどが不起訴となりました。
カリー中尉は一貫して、
「自分は指揮官であるメディナ大尉の命令に従った」
と主張しましたが、判決では20人以上の計画的な殺人の罪終身刑を宣告されました。
これは起訴された中で唯一の有罪判決となりました。
のちにカリーの判決は、終身刑から20年に短縮され、
裁判開始から4年後には仮釈放されています。
一方メディナ中尉は虐殺につながった命令をしたことを否定し、
すべての罪を免れ、無罪判決を受けましたが、数ヵ月後、彼は
証拠を隠蔽し、民間人の死亡者数について嘘をついたと認めました。
虐殺に関わった一人の分隊長は、誰でもその場にいたら
ああするしかなかった、と2010年になって語りました。
「ミライについて話すと、ほとんどの人は
『まあそうなんだけど、違法な命令なんだから従うべきではなかったよね』
というんですよ。
でも信じてください。そんなことはできないんですよ。
軍隊でそんなことは不可能なんです。
もし戦闘状態で、いやそれはできません、その命令には従えません、
といったとしたら、壁の前に立たされて撃たれるだけです」
ミライでの虐殺記念日には毎年関係者が集まり続けました。
その中には、あの日トンプソン准尉に命を助けられた14歳の少女、
8歳の少女などが出席していました。
2009年になって、沈黙してきたウィリアム・カリー氏は、初めて
公式に虐殺について謝罪しました。
「あの日、ミライで起こったことを後悔しない日はありません。
殺害されたベトナム人やその家族、巻き込まれたアメリカ人兵士や
その家族にも申し訳ないと思っています。大変申し訳ありませんでした。
なぜ命令を受けたときに立ち向かわなかったのかと聞かれれば、
私は少尉で指揮官から命令を受け、愚かにもそれに従ったと言わざるを得ません」
しかし、当時7歳だった生存者の男性は、この謝罪を
"terse"(簡単な、そっけない)
ものだと評し、時間が経っても和らぐことのない痛みが残ることを
彼に思い出させるために、自分や多くの家族の置かれた窮状を説明した
公開書簡をあらためてカリー氏に送りつけました。
「戦争だったから」
という言葉は彼にとって殺戮行為へのなんの釈明にもならなかったようです。
彼はあの日のことを許していないし、これからも許すことはないのでしょう。
続く。