ハインツ歴史センターの特別展、「ベトナム戦争展」より、
展示物をご紹介しながらベトナム戦争について考察しています。
■ 哲学者のヘルメット
激戦となったハンバーガーヒルで戦った、ニューヨーク・クイーンズ出身の
サル・ゴンザレスが装着していたヘルメットが展示されています。
左の方には「ピース・アンド・ラブ」の言葉とピースマーク、
フィリス ケイティ ロンダ ジュディ
という女性たちは彼のかつての恋人でしょうか。
彼は哲学的な文句をヘルメットに細々と書き込んでいて、
その内容がなかなか興味深いので、原文と翻訳を挙げておきます。
Hail to our learning in combat!
Forgive them father for they know not what they do!
我々の戦闘における教えに万歳!
父よ、彼らをお許しください。
彼らは自分が何をしているか知らないのですから
We are the unwilling, led by the unqualified doing the unnecessary, for the ungrateful
我々は不本意ながら、不適格者に率いられ、不必要なことを、恩知らずな者のために行う
Our fathers have lost their way, that my friend is why you’re here today
我々の父親たちは道を踏み外してしまった 友よ、それが今日君がここにいる理由だ
When you have nothing you have nothing to lose
何も持っていなければ 失うものは何もない
Old soldiers never die-just young ones
老兵は死なず ただ若兵が死にゆくのみ
これらの隻句が全てこのゴンザレスさんのオリジナルなら、
彼はなかなかの思索家であり、インテリだったと思われます。
特に最後のは、マッカーサーの有名な言葉をもじっていて秀逸です。
展示物の説明にこの哲学者がハンバーガーヒルでどうなったのか、
全く触れられていないのですが、このヘルメットについては
「ベテランのサルバドールが着用していた」
と説明があるので、おそらく彼はこの戦いで生き残ったのでしょう。
だとすればヘルメットにうっすらと見える血痕は、誰のものなのでしょうか。
■ 予備士官パイロットとアークライト作戦
パイロットのオキシジェンマスク付きヘルメットと、本人のIDが展示されています。
これからわかることは、
名前:リチャード・G・ナルショフ(Richard Narushoff)
所属:アメリカ空軍
階級:エアフォースROTC-少尉
ナルショフ氏はピッツバーグ在住で、地元のデュケイン(Duquesne)大学で
ROTC(予備役将校訓練課程:Reserve Officers' Training Corps)終了後、
空軍に加わり、1969年にはB-52爆撃機のナビゲーターとしてベトナムに参戦しました。
ヘルメットだけでなく、フライトスーツも展示されています。
いずれも本人の寄贈によるものです。
ナルショフ氏はベテランとして戦争体験を語る「オーラルヒストリー」に参加しています。
翼の生えた剣が城壁の前に立ちはだかっている意匠の舞台章、
空軍の名札には、通称である「リッチ・ナルショフ」とあります。
ナルショフ氏がB-52勤務で使用していたナビゲーション用の品々。
ストップウォッチ、フラッシュライト、機内で使用した低空地図、
計算用のメジャーなどです。
B-52は長距離爆撃機で、7万ポンド(3トン強)の爆弾と核爆弾を搭載することができます。
ナルショフがナビとして参加したのは「アークライト作戦」の一環で、
タイ、グアム、沖縄、日本(なぜか現地の説明は別々に書かれている)
そしてフィリピンの基地から飛び立ってラオス・カンボジア上空でミッションを行いました。
「アークライト作戦」(Operation Arc Light)とは、1965年に開始された
グアムに駐留するB-52 ストラト・フォートレスを用いた爆撃作戦です。
アークライト作戦は敵ベースキャンプ、集結地、補給線などに対して行われ、
爆弾は地上からは全く機体を確認できない高度30,000フィートから投下されたため、
気がつけば空から爆弾が降ってきた、という状態だったそうです。
この作戦以降、ベトナム戦争中は「アークライト」という言葉が
「近接航空支援のプラットフォームとしてB-52を用いる」
という意味で使われ、コードネーム にもなっていました。
ナルショフ氏は無事で帰還することができましたが、この作戦で
1965年6月から1973年8月の間にアメリカ空軍は31機のB-52を失いました。
うち18機は北ベトナムで撃墜されています。
■ ベトナム戦争ベテランのアートグループ
シカゴに「National Veterans Art Museum」なるミュージアムがあります。
ベトナム戦争やその他の戦争・紛争の退役軍人が制作したアートを
展示・研究している施設です。
エントランスホールの天井には、ベトナムで亡くなった米軍兵士を表す
58,226枚のドッグタグが吊るされています。
この美術館の使命は、米国のあらゆる軍事紛争に参加した退役軍人による
アート作品の収集、保存、展示を通じて、戦争の影響に対する理解を深めることです。
250人以上のアーティストによる約2,500点の芸術作品が展示されており、
老若男女を問わず、軍事紛争に肉体的・精神的に関与した人々の視点から
戦争を理解してもらおうという試みであり、また、退役軍人に
戦闘や兵役の経験を芸術的に表現する場を提供するという使命を負っています。
ここに展示されているのはその中から、
ブルース・サマー(Bruce Sommer)氏の「Anguish」(苦悩)
という作品です。
苦悩に歪む男の顔。
過酷な体験そのものなのか、それともそれを体験した記憶なのか・・・。
■ WARTIME SAYINGS ON ZIPPOS(ジッポーの語る戦争)
全く知らなかったのですが(というか考えたこともなかったのですが)
ジッポーライターというものの生産地は、ここペンシルバニア州です。
1932年に誕生したオイルライター、ジッポーは、ベトナム戦争に行った
250万人のアメリカ将兵の必需品といっても過言ではありませんでした。
それくらい戦場ではタバコが必須だったのです。
ジッポーの表面は柔らかいクロームプレートで覆われており、そのため
彫刻が容易で、個性的な表現のためのキャンバスともなりました。
出征してきたアメリカ人に対し、そのための基本的なツールを備え、
ジッポーライターにストックスローガンや画像を掘り込んで提供するのは
ベトナム人の業者にとって大変「美味しい」ビジネスとなったようです。
軍用車両や航空機、武器、ユニットの紀章、
駐在したベトナムの地図やたわいもない落書きめいたもの、
ピンナップガール風にピースマーク、警句など、
モチーフは様々で、彼らはこぞってそれで「自己表現」を行いました。
ここには全部で280個のライターが展示されています。
それらを一つ一つ見ていくと、1960年から70年にかけて、戦地に赴いた
アメリカ人たちの考え、ユーモア、そして勇敢さを垣間見ることができます。
FROM THE WORLD, BEYOND BEYOND
THERE DOMES A PLACE CALLED VIET-NUM
「世界の果てのその果てに
ベトナムと呼ばれる場所がある」
こんな言葉を刻印した兵士もいました。
この展示は、
「The John and Jennifer Monsky Zippo Collection」
からの出展です。
■ ベトナム戦争の象徴としてのジッポー
このコーナーにはここに展示されている以外の軍人ジッポーが
備え付けのiPadで観覧できるようになっていました。
海軍軍人はやはり自分の艦の姿を刻む人が多いのかも知れません。
このような彫刻が施されたジッポーは、終戦後も多く残っており、
コレクターの間で大金で取引されているそうで、ちょっと検索すれば
アマゾンやebayでベトナム戦争のジッポーはすぐに見つけることができます。
(なので、時々偽物が流通しているのだとか)
一目でわかるこのライターに刻まれたイメージやスローガンは、
故郷から遠く離れた場所で兵役に就き、戦い、そして
死んでいった若者たちの心や人生を痛切に感じさせてくれます。
発売以来、ジッポーライターは、アメリカ軍と長い関わりを持ってきました。
真珠湾攻撃でアメリカが第二次世界大戦に突入すると、ジッポー社は
ライターの一般消費者向け販売を中止し、軍用のみに生産を切り替えています。
戦争に突入すると同時にジッポーライターは製造法も変えました。
平時に使われていた原材料は戦時中軍需生産に振り向ける必要があったため、
ジッポー社はスチールに「黒ひび割れ加工」を施すという製造法に変えました。
そしてジッポーライターはベトナム戦争の象徴ともいえる存在となります。
ベトナム戦争に参加した米軍兵士のほとんど全員がジッポーライターを携帯しており、
そのため、興味深く、時に感傷的なカスタマイズライターが生まれたのです。
ライターに刻まれたスローガンやイメージの多くが、
ベトナム戦争の典型的なイメージとなったわけですが、当初そのデザインは
多くが軍人であることに誇りを持ち、自分が戦っている目的を強く信じるがゆえに
自分の所属する部隊名やバッジ、標語など愛国的なものが中心となりました。
しかし、ベトナム戦争は、公民権運動、ビート・ジェネレーションやヒッピー運動、
ロックンロールの反乱、そして反戦運動などの高まりと反比例して、
年を追うごとに「不人気」となっていったのです。
多くの若者が志願して戦争に参加した一方で、労働者階級やマイノリティ社会から
不本意ながら徴兵され、興味のない戦争に参加させられた若者もいて、
ジッポーライターのスローガンの中で心に響くものの多くは、
得てしてこの後者の若者たちから生まれたものであるのが、言うなれば
他にはなかった独特の傾向だったということでしょう。
"死にかけるような体験をするまで、本当に生きたとはいえない
人生には、戦うものだけが知る味があり、それは守られている者には決してわからない”
死の淵から帰ってきた兵士の言葉です。
おそらくベトナムに出征するまでは日本にいたのであろう兵士の
鳥居を象った部隊章のジッポーライターの左側には、
元々刻まれていた意匠が全くわからなくなるほど完璧に
弾痕がくっきりと刻まれた「銃痕ジッポー」があります。
このライターによって、持ち主はもしかしたら致命的な傷を免れ、
一命を取り止めたのかもしれません。
続く。