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スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(連合国フランス編)〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」コーナーから、
世界の戦闘機のエースを紹介しています。

このコーナーでスミソニアンが選んだトップエースは21名。
アメリカ人パイロットが5名というのは自国なので仕方がありませんが、
あとは8カ国から2名ずつという内訳です。

米英につづき、ソ連、ポーランドまできましたので、今日は
残りの連合国であるフランスのエースを紹介しましょう。

🇫🇷フランス

当ブログで第一次世界大戦について取り上げたとき、
「ソンムの戦い」「ヴェルダン攻防戦」などでは
「肉挽き機」というくらい壮絶な死者数を出したことについてお話ししました。

フランスは第一次世界大戦でドイツと戦って勝ったわけですが、
その人的被害はあまりに凄まじかったため、報復感情もあって、
戦後フランスはドイツに対し莫大な損害賠償を請求します。

そしてそのことがドイツを追い詰め、ヒトラー率いる国粋主義的政党、
ナチス労働党が生まれるきっかけを生むことになります。

1939年にドイツがポーランド侵攻を行い、第二次世界大戦が始まると、
フランスはイギリスとともにドイツに対し宣戦布告を行いますが、
フランスは第一次世界大戦の成功体験から、「マジノ線」という防衛ラインを置くと
それで安心し、近代装備を備えたドイツ軍にしてやられ、降伏してしまうのです。

フランスがなぜこうもあっさりとドイツ軍に凱旋門を明け渡したかというと、
第一次世界大戦の被害が大きすぎて、
国民の戦意(モラルですね)が低かった、ということのようですが、
もちろんそうではない人もいて、パルチザンとなってゲリラ活動を行いました。

というわけで、フランス空軍の第二次世界大戦における戦闘というのは、
どのように行われたのか、あまり人々に語られることはないわけですが、
航空隊の戦闘機エースはもちろん存在します。

 

ピエール・アンリ・クロステルマン空軍中佐

WC Pierre Henri Clostermann DSO DFC&Bar
( 28 February 1921 – 22 March 2006)

FAFL RAF AAEF

33機撃墜

まず、彼が所属した最初の軍の略語FAFLについて説明します。

Forces Françaises Libres(自由フランス軍)

はフランスがドイツに占領され、仏独戦が休戦となってから以降に
枢軸国軍と戦ったフランスの個人あるいは集団を表します。

自由フランス海軍はイギリス海軍の補助的任務を行い、
自由フランス空軍(FAFL、Les Forces aériennes françaises libres )は
フランスから逃れたパイロットや、南アメリカ諸国からの志願者から成り、
バトル・オブ・ブリテンにも参加しました。

しかし、クロステルマンが本格的に戦闘機乗りとしてデビューしたのは、
自由フランス軍という身分のまま、王立空軍RAFでのことになります。

彼のWCというタイトルは、Wing Commander、RAFの中佐という意味です。

 

ピエール・クロステルマンは、アルザス-ロレーヌ地方出身の外交官の息子で、
父親の赴任地であるブラジルが出身地です。

外交官令息という恵まれた環境に育ち、14歳で水上機の操縦を始めており、
その後はアメリカに留学して航空工学の学士号と免許を取得しています。

自由フランス軍に入隊したときには、
彼の飛行時間はすでに315時間になっていました。

祖国フランスのために空軍パイロットとして奉仕する決心をし、
彼はイギリスに渡り、RAFの士官候補生コースを優秀な成績で卒業します。

彼のRAFでの初飛行は、スーパーマリン・スピットファイアでした。


指輪とかブレスレットとかお洒落な感じがさすがおフランス人

写真は、フランス人ばかりの第341戦闘機部隊「アルザス」に配置された
クロステルマン軍曹(当時)。

ちなみにこの「クロステルマン」という名前は、
彼の家系がドイツ系であることを表しています。
ドイツ軍の伝説のエース、マルセイユの家がフランス系だったように、
ヨーロッパでは他国の血筋を表す名前を持つ人が普通にいるものです。

RAFという組織は、リベラルというのか、外国人パイロットを取り入れ、
その民族グループごとにまとめる組織を作って任務をまかせるという、
実に合理的なやり方で枢軸国と戦っていたわけですが、それは、
同じ連合国同士協力してもらうが、文化風習が違う異質な存在を
我々の中には決して混入させない、というあの民族独特の排他主義のもとに
きっちりと運営されていたという感があります。

その現れが「アルザス」などの民族部隊です。
このフランス人部隊の役割は、「元リビア・シリア」そして
「RAF内で孤立したフランス人」を再統合することでした。

アルザス航空隊はRAFの組織でしたが、彼らの身分は自由フランス軍人のままです。


【RAFの自由フランス軍部隊】

クロステルマン軍曹が他の三人のフランス系軍曹と到着したとき、
部隊にはまだ飛行機がなく、しばらくすると9機が届けられました。

パイロット30人に対し9機の飛行機で訓練は開始されます。
飛行隊長はある意味完璧主義で、空対地、空対空、空対海戦について

「自分たちの態勢を完璧に、油を塗った歯車を持つ美しい機械のように仕上げる」

という姿勢で訓練を行いました。

クロステルマンの部隊は主にフランス上空での爆撃機の護衛で、
彼はよく隊長のウィングマンを務めていました。

そして90機のルフトバッフェを24機で迎え撃つことになったある日の任務で、
彼はウィングマンを務めた隊長、ルネ・ムショットを失います。

René Mouchotteムショット(左)

ムショットは初めて英連邦以外の国の士官としてRAFの飛行隊長となった人で、
フランスでは至る所にその名前がレガシーとして残されています。
華々しい功績を挙げたとかいう話は残っていませんが、どうもその人格が
誰をも敬服させずにはおかないほどの立派な指揮官であったようです。

 

ムショットの遺体は数日後にベルギーの海岸で発見されました。

国際的に評価の高く尊敬されていたリーダーをむざむざ失ったことを、
彼の過失とする人々もいたようですが、後の調査によると、撃墜されたのではなく、
体調不良による操縦ミスで飛行機を墜落させたのではないかということになっています。
(と少なくともクロステルマンは語っているそうです)

しかし、ムショットの後任の隊長はクロステルマンを編隊から外しました。

 

そのことがきっかけで、クロステルマンはフランス人部隊を出て、今度は
602飛行隊「シティ・オブ・グラスゴー」15への配属を希望しました。

ここで彼は、イギリス人の友人と「気楽で楽しい生活を送った」とされます。
どうもフランス人パイロットの社会には馴染めなかったようですが、これは、
ブラジル生まれでアメリカに留学し、フランス本土でほとんど生活をしてこなかった、
という彼の育ちが多少なりとも関係しているような気がします。


イギリス人の方が俺なんか気楽に付き合えるんだよな(左)ってか


そしてノルマンディ上陸作戦では5回の空戦成功を収め、
RAFの基準で11回の勝利を追加しました。

ところで、彼自身が身をもって経験し、恐れていたことに、ドイツ軍の対空砲がありました。

クロステルマンの部隊はルフトバッフェのMe262ジェットを封じ込め、
さらに敵の鉄道網と対空砲を攻撃するという任務を負っていましたが、
ドイツ軍の対空砲は恐ろしいくらい正確で、何人もの同僚を失うことになりました。

しかし、彼はMe262と交戦し、破損した機体を胴体着陸させたり、
次にフォッケウルフ・コンドルに撃墜されるも無傷で生還するなど、
強運に徹頭徹尾恵まれたパイロットでした。

「僕に任せておけば楽勝さ」

生還するたび、彼は楽天的にこんなことを嘯いていたそうです。

彼が危うく難を逃れたのはこれだけにとどまらず、戦闘ではない
デモンストレーション飛行で、一度はチームメイトの機と空中衝突し、
墜落していく機のコクピットからパラシュートで脱出していますし、
また別のデモンストレーション(デンマーク国王天覧)では
ランディングギアの故障で着陸に失敗するも、命に別状はありませんでした。

しかし前者の事故では彼は3人のチームメイトを喪い、これらの事故は
彼をRAFとの関わりから「足を洗う」きっかけになりました。

 

第二次世界大戦中あげた33機撃墜記録はフランス人パイロットのトップであり、
その後はフランス空軍(Armée de l'Air et de l'Espace FrançaiseAAEF)に移籍して
予備中尉に任官し、予備役大佐という階級で軍人としてのキャリアを終えました。

戦後は政治家となり、著作を行なって、2006年、85歳の生涯を終えています。

 

ついでに、彼は戦後RAFが所有していた(というかドイツから召し上げた)
Me262を操縦し、初めてジェット機を操縦したフランス人パイロットになりました。

 

マルセル・アルベール 空軍大尉

Cap. Marcel Albert(25 November 1917 – 23 August 2010)

FAFL RAF

23機撃墜

Marcel Albert.jpg

ピエール・クロステルマンに次ぐ撃墜記録を挙げたフランス人エース。

アルベールの父親は第一次世界大戦に出征し捕虜となったり、
マスタードガス後遺症で苦しんだという人物です。
学齢期に父親を失った彼は国からの奨学金で中等教育を受け、
パイロットの資格も取りました。

下士官から始めて戦闘機部隊配属された彼は、当時のフランス最高の戦闘機、

ドゥボワティーヌ Dewoitine D.520

に乗って30ものミッションをこなし、ドルニエ17とハインケル111、
2機に対し勝利を挙げました。

【ヴィシー空軍から自由フランス軍へ】

ドイツに祖国が占領されたことについて、フランス人パイロットは
遺恨に持ち、前線では絶え間なく存在感を確保するため神経を尖らせていました。

しかし、彼らはフランス敗北の原因の大部分が空軍にあったということを
おそらく理解していなかったのではと思われます。

彼らは、なぜ何百機もの新型機が倉庫に放置されているのか、
作戦部隊の装備が大幅に不足しているのかを知りませんでした。


アルベール軍曹は他の2名の軍曹仲間とともにフランス軍を「辞め」、
自由フランス軍に逃れることを決意します。

自由フランス軍、それはつまりRAFの「フランス人部隊」ということでもあります。

彼はそこでスーパーマリン・スピットファイアによるミッションをこなし、
少尉に任官するに至りました。

【ノルマンディ戦闘機群】

ドゴール将軍がフランスの戦闘機部隊をロシア戦線に派遣することが決まり、
アルベール少尉は志願してロシアに赴き、そこで
「ノルマンディ戦闘機群」に配備されてYak-9戦闘機に乗ることになります。

飛行するYak-9M (1944年撮影)

彼はここでフランス人同僚を全員失い、唯一の生存者となりました。
ロシアで挙げた撃墜数は21機となり、彼は大尉に昇進して、ソ連政府から
最高賞である「ソ連の英雄」のゴールドスター賞を授与されました。


1944年12月23日、彼はグループの元メンバー数人とともに、
フランスに帰郷&休暇に出かけ、帰ってきたら戦争は終わっていました。

その後彼はパリに戻り、凱旋式典で迎えられると同時に腸チフスで入院しています(´・ω・`)


戦後彼はプラハのフランス大使館に軍属として赴任しますが、
新しい職場に馴染めず、そこで知り合ったアメリカ人女性と結婚して
ニューヨークに渡り、紙コップを作る会社を起こして成功しました。

そして92歳、テキサス州の老人ホームで人生を終えました。

 

フランス人のツートップエースがどちらも祖国でなく、アメリカで
第二の人生を選んで結構幸せな一生を送ったことは、たんなる偶然かもしれませんが、
何かフランス人の超個人主義の現れかもしれないなどと思ってみたりします。

 

続く。

 


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