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スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース(枢軸国編1)〜スミソニアン航空博物館

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英米に始まり、スミソニアンが選んだ第二次大戦の戦闘機エースを
連合国からご紹介してきましたが、ようやく枢軸国側に参ります。

今更説明するまでもないことですが、枢軸国=アクシスは、
第二次大戦前から戦時中にかけて、米・英・仏等の連合国に対立した諸国家、
つまりドイツ、イタリア、日本を中心とする国家のことです。

語源は、1936年、ムッソリーニが

「ローマとベルリンを結ぶ垂直線を枢軸として国際関係は転回する」

と演説したことに由来します。

おいおい、日本はその線にどうかかわるんだ、という説もありますが、
ムッソリーニもヒトラーも、日本などは枢軸の「軸」とは思っていないので、
つまり枢軸国以外のアルバニア、ブルガリア、フィンランド、ハンガリー、
ルーマニア、スロバキア、スペイン、タイと同様、

「枢軸の周りを転回している国の一つ」

程度に認識していたに過ぎないんだなと思われます。

ところで今回、わたしは今まで考えたこともなかった、

「フィンランドは第二次世界大戦で連合国枢軸側どちら側だったのか」

について、驚くべきことを(わたしだけ?)知りました。
しかも、調べてみるとこの区分けが非常に曖昧です。

連合国だったのか?というと、そうでもない。
ちなみにウィキでは、

枢軸国側に宣戦・戦闘行為を行ったが、連合国とは認められていない国

これではまるでコウモリみたいです。

それでは説明しよう。

フィンランドは開戦3ヶ月後、連合国側であるソ連に本土侵攻されました。
そして「冬戦争」で闘ったので、この時点では「反連合国」です。

しかし、1944年9月にソ連および英国と休戦協定締結することになりました。
その休戦協定には

「フィンランド領内からドイツ軍を追放するか武装解除して人員を抑留せよ」

と要求した条項があったのです。

ドイツ軍の撤退はフィンランドと戦争していたわけではなく、後述するように
ソ連との戦争で航空機を供与するなど共闘関係だったため平和的でしたが、
一旦何かのきっかけでフィンランド軍とドイツ軍の間に戦闘が発生すると、
以降、ドイツ軍は、徹底した焦土戦術を伴い、
これによってほどなく両国間に正式な戦争、
ラップランド戦争が始まってしまいます。

そういう流れでフィンランドは対独宣戦布告を行いますが、
なんとそれは1945年3月3日という終戦間際のことでした。

ですから、文献によってフィンランドは枢軸国側となったり連合国となったりします。

フィンランドからは、枢軸国側ならドイツに次ぐ、
そして連合国側ならダントツトップとなる
戦闘機のトップエースを排出していますが、彼らの撃墜記録は
そのほとんどが対ソ連戦の、ソ連空軍機に対してのものであることを、
まずご理解いただけるといいかと思います。

🇫🇮 フィンランド

エイノ・イルマリ・"イッル”・ユーティライネン空軍准尉

W. O. Eino Ilmari Ill Juutilainen

FAF(Finnish Air Force)

93機撃墜 

 "The Terror of Morocco"『モロッコの恐怖』『無敵の帝王』

93機撃墜というのはあくまでも「公式記録」であり、実はもっと多かった、
という説が今でも有力なトップエースが、アメリカでもドイツでもなく、
フィンランド人であることを知っていたら、
あなたはよほど「この世界」に通じている人でしょう。

実際彼はドイツ人パイロット以外では最多撃墜数をあげました。
スミソニアンでは93機となっていますが、英語のWikiでは94機、さらに
本人は126機と主張しており、これはかなり信憑性のある数字とされます。

 

彼が使用したのは、フォッカーD.XXI、ブリュースター・バッファロー、
そしてメッサーシュミットBf109の戦闘機で、
敵戦闘機からの攻撃を一度も受けず、(被弾はわずか1発だけ)
戦闘中に僚機を失うこともありませんでした。

(英語Wikiでは『日本の戦闘機エース、坂井三郎のように』とある)

撃墜したのは、
ポリカルポフI-153「チャイカ」
I-16、ツポレフSB爆撃機
です。

ユーティライネンのブリュースターにはハーケンクロイツが付いています。

彼の偉大な記録にケチをつける気は毛頭ありませんが、
相手がソ連機でなければ、こんなに撃墜できたのかな。

いや、ふと思っただけですが。

 

戦後、ユーティライネンは1947年まで空軍に所属し、辞めてからは
1956年までプロのパイロットとして活動したといいますが、
それはデ・ハビランド・モスに観光客を乗せて飛ぶ遊覧飛行の操縦でした。

とにかく飛行機で飛ぶのが大好き、という人だったのでしょうか。

 

1997年、彼はフィンランド空軍の2人乗りF-18ホーネットに乗り、
人生最後のフライトを行いました。
このとき83歳。亡くなる2年前のことです。

 

ハンス・ヘンリック・”ハッセ”・ウィンド空軍大尉

Hans Henrik "Hasse" Wind (30 July 1919,– 24 July 1995)

FAF

78機撃墜

Hans Henrik Wind in Suulajärvi 1943.png

ウインドは1938年、パイロット養成コースに志願して参加し、
パイロットとしてのキャリアをスタートさせました。

ソ連との冬戦争(1939-1940)では予備役として参加したものの、
飛行機がなく出撃する機会はありませんでした。

フィンランドとソ連の第二次戦争ともいえる「継続戦争」で
初めて戦闘機に乗って参戦したウィンドは、ブリュースターB239で
ソ連軍相手に撃墜数39の勝利を収めるというスタートを切りました。

その後I-15で連合国のハリケーン、I-16、スピットファイア、Yak-1を撃墜。
その後機種をメッサーシュミットBf109Gに変更しています。

彼はフィンランド空軍で最も巧みな空中戦術家の一人とされており、
教官として執筆した「戦闘機戦術講義」は、その後何十年にもわたって
フィンランド空軍の新人パイロットの訓練に使用されていました。

彼は「無傷の帝王」と言われたユーティライネンとは違い、
空中戦で重傷を負っています。
なんとか生還したものの、その後2度と戦闘任務に就くことはありませんでした。

彼の戦時中の302回の出撃、75機撃墜は
フィンランドのエースで2位にランクされています。

戦後はすぐに空軍を退役し、結婚してビジネススクールで勉強をし、
あらたな第二の人生を歩み出しました。

1995年に75歳で亡くなったとき、彼は妻と5人の子供、
たくさんの孫に囲まれていたということです。
 

🇮🇹イタリア

さて、というわけで枢軸国の中の枢軸、枢軸の元祖、イタリアです。

元祖のわりに三国同盟の中でとっとと連合国側に寝返ってしまうあたり、
「ヘタリア」の異名は伊達ではないと思ってしまうわけですが、
全部が全部ヘタリアだったわけではなく、強かった部隊もありましたし、
(知らんけど)もちろん戦闘機のエースも輩出しています。

アドリアーノ・ヴィスコンティ空軍少佐

Mag. Adriano Visconti di Lampugnano (11 November 1915 – 29 April 1945)

RA(Regia Aeronautica= Italian Royal Air Force)
ANR(Aeronautica Nazionale Repubblicana= National Republican Air Force)

26機撃墜


この人の「少佐」」メージャーのイタリア語が
「マッジョーレ」であるのにはちょっとだけウケました。
それから、イタリア系の名前の出身出自をを表す言葉、
「ダ・ヴィンチ」(ヴィンチ村出身)
「ディ・カプリオ」(カプリオ家出身)
の前置詞『ディ』が、この人の名前にもついているのですが、

「ディ・ランプグナーノ」

という響きが長過ぎ、あるいは「音楽的でない」という理由か、
彼はその名前からdi以降をすっぱりないことにしてしまっています。

 

Visconti.jpgマリオじゃないよ

【イタリアの降伏】

彼は航空アカデミーのコースで免許を取り、その後軍飛行士になりました。

戦闘機パイロットとしてマッキM.C.200戦闘機の操縦訓練を受けた後、
マッキM.C.202でマルタ島やアフリカの空で作戦行動を行い、
中尉時代には、スピットファイアVを初撃墜します。

そして大尉に昇進した彼が航空偵察を専門とする戦闘機隊の司令官となった
1943年9月12日、ヘタリアがヘタれてしまい、無条件降伏してしまうのです。

ヴィスコンティ大尉とその部下はその知らせに完全に驚かされます。
(そらそうだ)
他のイタリア軍司令官と同じように、彼もまた
上層部と連絡を取ろうとしましたが、全く無駄に終わりました。

そこで彼はイタリア社会共和国空軍の設立に積極的に参加し、
マッキC.205戦闘機を装備した戦闘機隊中隊長に任命されることになります。

無条件降伏後も北イタリアを爆撃しにくる英米の爆撃機を撃退するため、
ヴィスコンティの部隊はメッサーシュミットBf109G-10に乗って戦いました。

同隊が最終的に降伏するまでの間、彼はP-38ライトニング2機、
P-47サンダーボルト2機の計4機を撃墜しています。

■ 殺害されたヴィスコンティ

彼の死亡年は1945年。
撃墜による戦死ではありません。

1945年4月29日、彼の所属する第1戦闘機グループは降伏しました。
隊員は生命の安全を保障された上で捕虜となり、
イタリアまたは同盟国の軍当局に引き渡されることになっていました。

ところが、収監された兵舎からパルチザンがヴィスコンティを連れ出し、
副官のヴァレリオ・ステファニーニとともに
後頭部をなんの予告もなしに撃って射殺したのです。

ステファニーニ副官

降伏条項を無視して行われたアドリアーノ・ヴィスコンティと
副官の殺害の真の原因は、今日に至るまで解明されていません。


フランコ・”ルボール”・ボルドーニ-ビスレリ中尉

Ten. Franco ’Rubor'  Bordoni-Bisleri (10 January 1913 – 15 September 1975)

RA

24機撃墜

Ten.というのはTenenteの略称のことで中尉です。
ついでにイタリア軍の士官の呼び方を一部書いておきます。

将官 Generale ジェネラーレ 

大佐 Colonnello コロネッロ

中佐 Tenente colonnello テネンテ・コロネッロ

少佐 Maggiore マッジョーレ

大尉 Capitano カピターノ

中尉 Tenente テネンテ

少尉 Sottotenente ソットテネンテ

音楽用語でSotto voce(音量を抑えて)というのがありますが、
ソット、というのは「それ以下」という意味なので、
少尉は「中尉以下」、中佐は「大佐以下」という意味になります。

 

ミラノの名家に生まれたフランコ・ボルドニ・ビスレリは、若い頃
レーシングカーのドライバーとして結構有名な存在でした。

パイロット志望でしたが、鼻腔狭窄症のため健康診断ではねられます。
しかし、さすがは上級国民(知らんけど)、軍当局から特別許可を得て、
爆撃学校に配属されるというチートで入隊を果たしました。

【北アフリカ】

彼の初撃墜はブリストル・ブレニムでした。
ビスレリはこれを迎撃するために100キロ以上の追跡しています。

Fiat CR.42 - Aegean Islands.jpg

ビスレリはこのフィアットC.R.42ファルコを操縦して、
ホーカー・ハリケーンMk.1、ブリストル・ブレニムを撃墜したそうですが、

ハリケーンMk1

飛行するブレニム Mk.I L1295号機 (1938年撮影)ブレニム

複葉機でこういうのを撃墜できるものなの?

1941年当時、ファルコは操縦しやすく頑丈な機体で、
グラディエーター、ブレンハイム、ウェリントンとは戦えた、
ということらしいですが、ハリケーンを撃墜というのは
操縦者がビスレリだったから・・・・?

その後彼はマッキM.C.202の初号機で撃墜数を伸ばしました。
彼が撃墜したのはカーチスP-40キティホークなどです。

度重なる空戦で全く銃弾を受けず無傷だったビスレリですが、
皮肉なことにこの期間1自動車事故で負傷し、病院船で国内に送られました。

【イタリア】

イタリアで彼はマッキM.C.205「ヴェルトロ」を手に入れました。


ローマ上空でP-38ライトニングに護衛されたB-17の編隊を迎撃した彼は
1機の爆撃機を撃墜することに成功しました。
彼はこの戦争で合計5機のB-17を撃墜しています。


【戦後と事故死】

終戦直後、ボルドニ=ビスレリは家業を継いで社長となり、
ミラノ・エアロ・クラブの会長に就任しました。

昔取った杵柄でレースに復帰し、マセラティを駆って、
ヨーロッパで最も評価の高いアマチュアドライバーの一人となり、
1953年にはイタリアのスポーツカー選手権で優勝を果たしました。

しかし、1975年9月15日、ビスレリが62歳の時です。

自身が会長を務めるミラノ・エアロ・クラブが主催した
落下傘部隊の記念式典に出席し、
ローマで教皇パウロ6世との会談を終えて帰国した際、操縦していた
SIAIマルケッティF.260は悪天候で山中に墜落し、死亡しました。

飛行機には10歳の息子と、友人も乗っていたそうです。

当時、彼の死は新聞で大きく報道されましたが、
彼が英国空軍のエースだった過去については
ほとんど報じられることはありませんでした。

 

続く。

 

 

 


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