スミソニアン航空博物館の「第二次世界大戦の航空」展示の一隅にある
「第二次世界大戦のエース」でこれだけ楽しめてしまったわけですが、
お待たせしました。
エンディングをラスボス枢軸国日独で締めさせていただきます。
まずは皆さん大好きな(え?わたしだけ?)ドイツのエースハルトマンから。
ドイツ
エーリッヒ・アルフレート・ハルトマン少佐
Erich Hartmann (19 April 1922 – 20 September 1993)
Luftwaffe(Wehrmacht) 、 Luftwaffe (Bundeswehr)
352機撃墜
ニックネーム「Baby(Bubi)」(ベビー)「Der Schwarze Teufel」(黒い悪魔)
ルフトバッフェ、という言葉をこのシリーズでナチス人民空軍に使っているので
勘違いされないように改めて書いておくと、この言葉は空中兵器を意味し、
ドイツ空軍を表すドイツ語であるので、現在のドイツ空軍のことも
ルフトバッフェと称します。
ハルトマンが第二次世界大戦時に所属した「Wehmacht=ヴェアマハト」は
1935年から1945年まで存在したドイツ国防軍で、
から成るというわけです。
戦後ドイツ軍はドイツ連邦軍(Bundeswehr=ブンデスヴェア)になりましたが、
空軍という言葉そのものは変える必要は全くないのでそのままです。
ライヒはナチスの「ドイツ第三帝国」という意味なので、戦後は変更されています。
童顔だったハルトマンのニックネームの一つに、「Bubi」というのがあって、
それは「kid」という意味である、と英語で検索すると出てくるのですが、
実はキッドをドイツ語でいうと「キント」になるんですよね。
これ、ドイツ人が「Baby」を発音すると「ブビ」になりますので、
英語圏の人がわかりやすいように、あえて発音表記にしたのに違いありません。
それはともかく、写真でもお分かりのように、ハルトマン君、本当に童顔です。
第二次世界大戦ベビーフェイスパイロットコンテストがあったら、
こちらもダントツで(あるいは川戸正治郎と僅差で)優勝でしょう。
さて、エーリッヒ・ハルトマンについて検索すると、不思議なことに
ドイツ語より英語となんなら日本語の資料の方が情報が多量に出てきます。
第二次世界大戦期、人類史上最強の戦闘機エースであったハルトマンについては、
戦後自粛に萎縮してきたドイツ人より、他の民族の方が素直に?彼の功績を
(すなわちそれは連合国航空機の撃墜ということになりますが)賞賛できるのかもしれません。
【幼少期から空軍入隊まで】
ハルトマンは、医師であるアルフレッド・ハルトマンとその妻エリザベートの
2人の息子の長男として生まれました。
経済的理由で移住した中国で彼は幼年期の一時を過ごしています。
(本人は小さ過ぎて覚えていないと思いますが)
ドイツでギムナジウムを卒業するといきなりパイロット資格を取ります。
ちなみに、ハルトマンはギムナジウム時代、のちに妻になる
ウルスラ "ウシュ "ペッチと出会っています。
ウルスラさんと
彼は301回目の勝利を得た後、10日間の休みをとって
幼なじみであった彼女と市民結婚式を挙げています。
母親がドイツ初のグライダーパイロットという家庭に育ち、
彼女から直接飛行訓練を受けたハルトマンは、14歳という年齢ですでに
ヒトラーユーゲントでグライダーの教官を務めていました。
そんな彼が18歳でドイツ空軍の将校候補生として志願したのは当然のことでしょう。
飛行訓練生時代の彼にはこんな逸話が残されています。
入隊して2年目の砲撃訓練飛行中、規則を無視して
飛行場の上空でBf109で曲芸飛行を行い、1週間の宿舎への監禁と、
給料の3分の2の罰金という処罰を受けたのです。
しかし、そういえばこれに似た話(腕利きパイロットのいわゆるヤンチャ)
って、結構あちこちの「撃墜王物語」で聞きませんかね?
兵学校の訓練で複葉機の宙返りをして怒られたあの人とか、
戦争中わざわざ敵航空基地までいって宙返りしてきたあの人たちとか。
これらの話がもしかしたらハルトマンの伝記にインスパイアされた
ライターの創作かもしれない、と思うようになってしまっている今日この頃です。
それはともかく、ハルトマンは後に、この出来事が自分の命を救ったと回想しています。
「自室待機をしていなければ、僕は死んでいたかもしれません。
自室待機処分を受けていた週のある午後、砲撃演習が行われました。
ルームメイトが、僕の乗る予定だった機で飛行したのですが、
離陸した直後、機体は砲撃場に向かう途中でエンジントラブルを起こし、
不時着しましたが、彼はこの事故で亡くなったのです」
その後、ハルトマンはいっそう熱心に練習に励み、自分の飛行体験から
他の若いパイロットたちに伝えるための新しい「ディクテ」を編纂しました。
【第二次世界大戦の対ソ連戦】
ハルトマンは1940年から、ドイツ空軍のさまざまな訓練所で基本的な飛行訓練、
続いてメッサーシュミットBf109の操縦を学び、戦闘機隊デビューすると
すぐに初撃墜(イリューシンIl-2)の記録を挙げます。
ただし、最初の出撃は散々でした。
ウィングマンとして最初の戦闘任務に就いた彼は、10機の敵機に遭遇すると、
焦ってスロットルを全開にして隊長機から離れ、交戦しますが、
ヒットしないどころか危うく衝突しそうになり、その後、
低層雲の中に逃げ込み、燃料切れで不時着すると言った具合です。
この初陣で彼は空対空戦のほぼすべての規則に違反していたため、
彼は3日間の地上勤務を命じられることになりました。
彼が初撃墜をしたのはその22日後でしたが、しばらく記録はこれだけにとどまりました。
彼のあだ名「Baby=ブビ」はこの頃上官から与えられました。
しかしそのベビーフェイスはすでに戦隊長を務めるようになっていました。
彼は赤軍から「黒い悪魔」デア・シュワルツ・トイフェルと呼ばれました。
Bf109の先端を黒いギザギザ模様に塗っていたことからついた渾名です。
1944年3月2日には、彼は202回目の、そしてその5ヶ月後には
301回目の空中戦勝利を達成して鉄十字章を受賞されました。
最後の撃墜は終戦まであと数時間となった1945年5月8日正午、
ソ連のヤコブレフを撃墜したのが352回目の空中戦勝利となり、
同日、上官から少佐に昇進を告げられますが、終戦のドサクサで
その情報は人事部まで届いておらず、のちにトラブルになります。
彼の行った戦闘任務は 1,404回、空中戦は825回。
ソ連機345機、アメリカ機7機、合計352機の連合軍機を撃墜しました。
彼は任務上16回機体を不時着させていますが、
敵の直接攻撃によって撃墜されたことは一度もありません。
ドイツ軍パイロットに次ぐ撃墜記録を挙げたフィンランドのエース、
ユーティライネンについて書いたとき、おずおずと、
「もし相手がソ連軍でなければこんなに撃墜数は伸びなかったのではないか」
と言ってみたわたしですが、驚くことに(驚くほどでもない?)
ハルトマンも同じようなことを言っております。
作戦に参加した最初の年から、ハルトマンは、いうなれば
「ソ連の『パイロットに対する敬意の欠如』」
というべき機体と装備のいい加減さをはっきりと感じていました。
ほとんどの戦闘機には有効なガンサイトさえなく、パイロットは当初
フロントガラスに手で照準を描いていたこともあったというのです。
「信じられないかもしれませんが、最初の頃は、
ロシアの戦闘機が後ろにいても全く恐怖を感じませんでした。
手描きの照準では、適切に引鉄を引くことができず(偏向射撃)、
命中するわけがないからです」
ハルトマンはまた、ベルP-39エアコブラ、カーチスP-40ウォーホーク、
ホーカー・ハリケーンは、ソビエトに貴重なガンサイト技術を提供したものの、
それでもフォッケ・ウルフFw190やBf109には劣ると感じていました。
のちにイギリスのテストパイロットがハルトマンに
どうやってその記録を達成したのかを尋ねたとき、ハルトマンは
至近距離での射撃に加えて、ソ連の(貧弱な)防御武装と操縦戦術のおかげだ、
と正直に答えています。
しかし彼は、捕虜のソ連軍パイロットから、極寒地で
エンジンオイルが凍らないようにする方法などを教えてもらったりしています。
【ハルトマンの戦法】
ハルトマンの戦術はは最終的に「見る→決める→攻める→壊す」というものです。
一旦「立ち止まる」ことで状況を判断し、そののち、
回避行動をとらない目標を選んで近距離で破壊するというものでした。
射撃手であり偏向射撃の名手だったハンス・ヨアヒム・マルセイユとは対照的に、
ハルトマンはドッグファイトよりも近距離での待ち伏せや射撃を好みました。
しかし、空戦の研究家に言わせると、明らかに「名人」の域だった
マルセイユと違い、彼には卓越した才能があったわけではなく、
知的な戦術革新者ではなかったようです。
成功の秘訣は彼が自分の飛行能力、視力の良さ、攻撃性を自覚した上で
決してリスクを取らず、優位な位置、主に後方の至近距離から攻撃し、
すぐに離脱後すると冷静に状況を再評価して次の行動をとったことでした。
彼は本能的に「落としやすい相手」「簡単な標的」を見抜く直感を持っていたのです。
しかしこの大量撃墜という結果が、あまりに「非現実的」な数字だったため、
ドイツ空軍の最高司令部にもこれを疑う者が何人もいました。
ようするに、嘘をついているのではないかと思われたわけです。
彼の主張は二重三重にチェックされ、彼の編隊のオブザーバーは
彼のパフォーマンスを注意深く監視するというおかしな状態になりました。
もちろん敵にもその名前は鳴り響いていて、彼のコールサインは共有され、
その首には1万ルーブルの賞金がかけられましたが(軍隊なのに)、
肝心のソ連パイロットたちが彼と直接対戦することを避けたため、
これで彼の「キルレート」は下がったとまでいわれています。
【ヒトラーから勲章を】
1944年3月、ハルトマンには他のルフトバッフェエースとともに、
アドルフ・ヒトラーから柏葉鉄十字騎士章が授与されました。
彼らはドイツに戻る汽車で全員コニャックやシャンパンをしこたま飲み、
ハルトマンなどは帽子掛けから間違えてヒトラーの帽子をとって被ってしまうほど酔っていました。
ヒトラーは酒嫌いだったので、副官は真っ青になって彼らを叱責しました(´・ω・`)
また、ダイヤモンド勲章受賞の時には、ヒトラー暗殺未遂事件直後だったため
セキュリティ対策のためにピストルの持ち込みを禁じられると、彼は、
そんなことをするなら勲章などいらぬと突っぱねています。
このとき、ヒトラーはハルトマンと長時間話し込み、
「ドイツは軍事的にはもう戦争に負けている」
ことを訴え、君とルーデルのような人物がもっといればいいのに、
といったとか。(お酒の件は不問だった模様)
彼は少なくとも一回、敵によって命を救われています。
アメリカ軍と交戦しているとき、燃料切れになったメッサーシュミットから、
パラシュートで脱出したハルトマンに、第308戦闘機隊の
ロバート・J・ゲーベル中尉が操縦するP-51マスタングが真っ直ぐ近づきました。
ハルトマンはこのとき覚悟を決め、自分の運命を受入れようとしていましたが、
ゲーベル中尉は、ただハルトマンの離脱とパラシュート降下をカメラパスで記録し、
通り過ぎる最後の瞬間彼にバンクをし、ハルトマンに手を振って去りました。
(11機撃墜のエース、ゲーベル中尉
戦後は物理学の専門家としてジェミニ計画に参加した)
【最後の戦闘任務】
1945年3月、空中戦勝利数が337となったハルトマンは、
新型ジェット戦闘機Me262部隊への参加を2度目に要請されました。
ハルトマンとジェット戦闘機。
鬼に金棒の具体例のようなマッチングで、これが実現していたら
彼の撃墜記録はどうなっていたんだろうと考えずにいられませんが、
彼は実質この要請を断っています。
そして彼の最後の空中勝利は、ヨーロッパでの戦争の最終日である5月8日、
チェコスロバキアのブルノ上空で、相手はYak-9でした。
これが停戦となる何時間か前のことです。
着陸すると戦争は終わっていたというわけですが、
ハルトマンはJG 52の司令官として、部下をソ連軍ではなく、
アメリカの第90歩兵師団に降伏させることを選択しました。
この時彼は上から自分とウィングマンだけイギリスに飛んで降伏し、
部下はソ連軍に降伏させろと密かに命令を受けていましたが、
彼は部下を置いていくことを拒否したことになります。
結局米軍はハルトマンらをソ連に引き渡すことなるわけですが。
米軍兵士はドイツ兵の脱走を見てみぬふりをするものもいました。
その後に起こった捕虜に対するソ連軍の残虐な行為(特に女性に対する)
は夜通し続いた、とハルトマンは書き遺しています。
ソ連側はさっそく彼にスパイとして協力することを打診してきます。
当然彼はそれを拒否したため、10日間コンクリートの床で寝て、
パンと水しか与えられないという独房生活を余儀なくされました。
このとき、妻を誘拐して殺すと脅迫され、ついには
Me262の情報について尋問を受けた際、ソ連軍の将校に杖で殴られたので、
ハルトマンは座っていた椅子で将校を殴って相手を気絶させています。
しかし彼は射殺されませんでした。
ソ連と言えどもこの英雄を殺害することのリスクを重々わかっていたのでしょう。
彼はこの時のソ連の脅しにも甘言にも一切首を縦に振ることなく、
彼を共産主義に染めようというソ連当局の試みにも、
さらには東ドイツ空軍への入隊要請も拒否し続けました。
【戦争犯罪の容疑者として】
ハルトマンはその後逮捕され、20年の懲役刑を宣告されます。
罪状は、
ソ連市民に対する残虐行為
軍事施設への攻撃
ソ連の航空機の破壊
その結果、ソ連経済に大きな損害を与えた
などの、つまり「戦争犯罪」でした。
彼は自己弁護を(弁護士がつかなかったので)行いましたが、
裁判長はこれを時間の無駄だと退けました。
判決として言い渡された25年の重労働を拒否し、独房に入れられると、
仲間の拘置者たちが暴動を起こし、看守を制圧して一時的に彼を解放しますが、
彼は公使館に再審を求め、最後まで決して諦めませんでした。
その結果、1955年末、ついにその甲斐あって釈放されます。
ハルトマン、33歳でした。
【戦後】
翌年1956年、ハルトマンはドイツ連邦軍に新設された西ドイツ空軍に入隊し、
第71 戦闘機中隊"リヒトホーフェン "の初代司令官となりました。
よかったよかった、と言いたいところですが、彼は、
F-104の調達に反対したことが下との軋轢を生み引退することになります。
この部隊は、当初はカナダエアー・セイバーを保持しており、
後にロッキードF-104スターファイターの装備を決めています。
ハルトマンはF-104を根本的に欠陥のある安全でない航空機と考え、
それが空軍が採用することに強く反対した理由でした。
彼の反対は決して根拠のないことではなく、F-104の非戦闘任務での
269機の墜落と116人のドイツ人パイロットが死亡したこと、
ロッキード・スキャンダルにまで発展した賄賂疑惑など、
彼の低い評価を裏付ける出来事に基づいていましたが、
つまりこういった率直な批判は上層部にとって邪魔だったということです。
彼のこの時の態度は、危険な状態での空戦は決して行わない、という、
戦闘機乗り時代の戦闘姿勢を彷彿とさせますし、ソ連の拷問にも
一瞬たりとも自分の正義を曲げることのなかった強い意志が窺えます。
同時にこんな人物が組織にとって目の上のコブでしかなかったのも当然でしょう。
ハルトマンがソ連に拘留されている間、1945年に生まれた彼の息子、
エーリヒ=ペーターは、父親の不在中生まれ、彼が帰ってくるまでに
亡くなり、ついに父はこの世で息子の顔を見ることはありませんでした。
ドイツに帰国したハルトマンは1957年に娘のウルスラ・イザベルをもうけました。
「これが鉄十字章だよー」
軍人としてのキャリアを終えた後、彼は民間の飛行教官になり、
1993年9月20日に71歳で亡くなりました。
死後、ロシア政府は彼の「有罪」は間違いであったとして、
ハルトマンの戦争犯罪は無罪の判決を下しています。
【金髪のドイツ騎士】
アメリカの作家であるコンスタブルとトリバーによって、
『The Blond Knight of Germany』というタイトルで伝記が書かれています。
ドイツでのタイトルは
『Holt Hartmann vom Himmel! (「ハルトマンを撃ち落とせ!」)
この著作は、商業的に大変成功し、本は売れましたが、歴史的には
史実とは異なる部分が多く、ハルトマンを称賛することによって
ナチスのプロパガンダの無批判な引用や、ソ連に対するステレオタイプなど、
事実を「歪める」ものとして評価されていない、とされています。
あれ・・・・?
「そんな」本が一時我が日本でも競って出版された時期がありましたよね。
あの一連の「零戦ブーム」を作った著作ラッシュって、
まさにこの本がブームになったのと同じ頃じゃなかったですか?
あれって、もしかしたらハルトマンが「元祖」だったのか・・・。
続く。