スミソニアンの「第二次世界大戦のエース」、ついつい
エーリッヒ・ハルトマンに一項を割いてしまいましたが、
今日はスミソニアンの選んだもう一人のドイツ空軍のエースです。
ナチス・ドイツ
戦後の貫禄よ
ゲルハルト・”ゲルト”・バルクホルン少佐(最終少将)
Gerhard Barkhorn (20 March 1919 – 11 January 1983)
301機撃墜
【初期の人生とその後のキャリア】
バルクホルンはハルトマンに次ぐ成績を上げた戦闘機パイロットです。
1919年、現在はロシアのカリーニングラードとなっている、
当時ワイマール共和国のケーニヒスベルクに、
土木関係の公務員の父を持つ4人兄弟の3番目として生まれた彼は、
兄弟と共にドイツ青年運動のグループに参加しており、
青年期には帝国労働奉仕に加わったりしています。
その後ナチス・ドイツの空軍学校に
ファーネンユンカー(士官候補生)として入隊し、
ハインケルHe72複葉練習機で飛行訓練を受けますが、
当時の飛行教官は彼のことを当初ヘタクソだと評価していたといいます。
彼が少尉に昇進した1939年の9月、ドイツ軍のポーランド侵攻によって
ヨーロッパに第二次世界大戦が始まりました。
バルクホルンは戦闘機パイロット学校に配属され、訓練機を経て
メッサーシュミットBf109に初搭乗することになります。
最初の頃、彼の空中射撃訓練の結果はむしろ平凡以下でした。
飛行学校でもそうだったように、彼はスロースターターで、
何事も最初はうまくいかず、むしろ不器用なタイプでした。
【第二次世界大戦】
歯並び良し!
バルクホルンは訓練終了後、第一次世界大戦の戦闘機パイロット、
マンフレッド・フォン・リヒトホーフェンにちなんで命名された
リヒトホーフェン戦闘機隊に配属されました。
戦後、トップエースだったハルトマンがこの戦闘機隊の司令官になり、
スターファイターの導入をめぐって解任されたという話をしたばかりです。
かつてこの分隊はフランクフルトにあり、Bf109 Eを装備して、
第二次世界大戦の「偽装戦争」の時期に国境の哨戒を行っていました。
「偽装戦争」=Phony War、フランス語:Drôle de guerre(奇妙な戦争)
ドイツ語:Sitzkrieg(座り込み戦争)は、日本語では、
「まやかし戦争」「いかさま戦争」
などと言われており、ドイツがポーランド侵攻してから8ヶ月間を指します。
ナチス・ドイツは1939年9月1日にポーランド侵攻を行い、
2日後に英仏はナチス・ドイツへの宣戦布告を行うわけですが、
それでドンパチが始まったわけではなく、実質翌年の1940年5月10日、
ドイツによるフランスへの侵攻があるまで何も起こりませんでした。
これはイギリスとフランスが大規模な軍事行動は行わなかったからですが、
もちろんこの両国は全く何もしなかったわけではありません。
海上封鎖を中心とした経済戦を展開し、ドイツの戦力を低下させるために、
数々の大規模な作戦を綿密に計画していたのです。
作戦の中には
ノルウェーに侵攻してドイツへの鉄鉱石の供給源を確保する
バルカン半島に英仏軍の戦線を展開する
ソ連を攻撃してドイツへの石油の供給を断つ
などがありました。
こういうのを見ると、イギリスという国の狡猾さというか、
国家としての老練さというのは鉄板だなと思いますよね。
着々と裏側から手を回していく老獪さが。
この頃もバルクホルンには戦闘機エースとしての目立った動きはありません。
偽装戦争では交戦のしようがなかったのでしょう。
それどころか、猩紅熱にかかって1ヶ月入院したりしています。
彼が初めて敵と接触することになるのは、バトル・オブ・ブリテン、
英仏海峡を越えた戦闘哨戒中でした。
何度か爆撃機を援護する任務をこなし、ここですでに勲章を授与されますが、
初交戦はその後、英仏海峡上空で遭遇したスピットファイアでした。
しかし、このときの彼は散々で、何度も被弾し、
英仏海峡に墜落するありさま。
非常用ディンギーで2時間漂流中、ドイツの救助隊に発見されました。
つまり、バルクホルンは「偽装戦争」「バトル・オブ・ブリテン」で
1機も撃墜していないと言うことです。
これは彼がスロースターターだったからではなく相手がRAFだったからです。
彼はハルトマンに次ぐ撃墜数を挙げましたが、
それはすべて対ソ戦によるものでした。
前回のハルトマン編でも書きましたが、
この頃のソ連空軍というのは全くお粗末な装備で戦わされていたのです。
これもその一環というべきか、当時他の国が決してやらなかった
「戦闘機に女性を乗せる」のも、ソ連だけがやっていましたし。
逆にそんなソ連軍でエースになった人は真の実力者だったといえましょう。
【バルバロッサ作戦】
Unternehmen Barbarossa ウンターネーメン・バルバロッサとは、
1941年6月22日に始まったドイツによるソ連奇襲作戦の名称です。
バルバロッサとは神聖ローマ帝国のフリードリヒ一世のあだ名で、
barba「あごひげ」+rossa「赤い」=赤ひげ。
フリードリッヒ一世が救国の英雄であることからあだ名を拝借したようです。
バルクホルンの戦闘機隊、JG52は、バルバロッサ作戦発動の準備のため、
独ソ境界線付近の飛行場に出動を命じられました。
6月22日、ドイツがソ連への攻撃を開始した日、彼は侵攻支援のため
空戦を行い、これが最初の撃墜を彼にもたらします。
相手はイリューシンDB-3爆撃機でした。
続けざまにポリカルポフのI-16戦闘機、翌日にはDB-3爆撃機を撃破し、
彼は一気に3度目の空中戦勝利を収めました。
また、この頃彼はミコヤン・グレヴィッチ社のMiG-1戦闘機の
ドイツでの初期の呼称であるI-18戦闘機の破壊を主張しています。
MiG-1
その間にもバルクホルンはオーバーロイトナント(中尉)に昇進。
撃墜数は10機となっていました。
案の定、ソ連空軍を相手にするようになってから、彼は急激に
撃墜数を伸ばして行ったわけです。
【飛行隊長】
バルクホルンは1942年3月1日にJG52の第4戦闘機隊長に任命されました。
6月22日、にドイツ軍が行った「フリデリクスII」作戦の支援で
ラヴォーチキン・ゴルブノフ・グドコフのLaGG-3戦闘機を5機撃墜し、
「1日エース」(エースの条件が5機撃墜であることから)になりました。
LaGG-3、ラググ3は、空中分解を起こすこともあるという代物で、
ソ連兵たちはその木製部分を持つ飛行機をして、
保証付きの塗装済棺桶(Lakirovanniy Garantirovanni Grob =LaGG)
と呼んでいましたから(パイロットはなかなかの皮肉屋が多い)
技量の低いパイロットが操縦するラググ3を1日5機撃墜するのは
RAFや米航空隊を相手にするよりはよほどイージーだったのは否めません。
彼は不時着によって下肢に重傷を負ったことがありますが、
相手はソ連機ではなく、高射砲の命中でした。
1942年12月19日、バルクホルンは勝利数を101に伸ばしましたが、
これはドイツ空軍における「大台」を達成した32番目となります。
【ハンス・ヨアヒム・マルセイユの実力】
ここで、ご存じない方は、是非Wikiでもいいですから、
「第二次世界大戦のエース」「独軍のエース」のランキングを見てください。
対ソ連戦でルフトバッフェのパイロットがいかにイージーモードだったか、
「大台」が数えるのも面倒になるほど多いのに驚かれることでしょう。
352機のハルトマン、301機のバルクホルンに次いで、
200機台が13人、162機〜199機までが13人。
どうして162機からにしたかというと、158機撃墜した
ハンス・ヨアヒム・マルセイユは、対ソ戦ではなく、
全て対連合国機の撃墜でこの数字を上げているからです。
「アフリカの星」マルセイユ
対ソ連機の撃墜数はある意味「チート」で、メッサーシュミットなら
誰でもある程度数字を挙げることができる一方、
同じパイロットでも相手が連合国ならこんなにうまくいくはずない、
とわたしは常々言っています。
こう言ったことを勘案すると、ルフトバッフェで真に実力があったのは、
ハンス・ヨアヒム・マルセイユだった、ともう一度言っておきます。
彼は自他共に認める射撃の名手であり、相手にしていた敵機も、
欠陥だらけのソ連機ではなく、スピットファイアやハリケーンでした。
とはいえ、少なくともバルクホルンは
ソ連軍のパイロットを舐めていたわけではなく、
必ずしも常にイージーモードだったわけではないことを告白しています。
ある日、彼は「飛ぶ棺桶」であるはずのLaGG-3と会敵し、
40分間のドッグファイトを行い、
「まるでシャワーから出てきたかのように汗が噴き出してきた」
にもかかわらず、この相手を捉えることができませんでした。
明らかに劣る機体を駆るこのパイロットの技量がいかに優れていたかを思い、
バルクホルンは相手に崇敬の念を抱いたと回想しています。
1943年 2月27日、バルクホルンは120回目の空中戦勝利を挙げ、
騎士十字勲章に加えて柏葉勲章を授与され、
その休暇にクリスティーン・ティシャー(通称クリストル)と結婚しました。
彼らはその後ウルスラ、エヴァ、ドロテアと3人の娘を授かっています。
ズラっぽい髪型・・
【隊司令】
バルクホルンは1943年9月1日、
JG52のII.グルッペのグルッペンコムマンデゥール
(隊指揮官)に任命されました。
順調に撃墜記録を伸ばし、1943年11月30日に200回の大台に乗ります。
そして戦闘任務1000回を達成した最初のドイツ人パイロットとなりました。
Bf 109のコックピットにて(1943年秋)
さて、ここで「ハルトマン編」でお伝えした、
「エース車中泥酔勲章受賞事件」の話をもう一度お伝えします。
というのは、このときハルトマンと一緒に柏葉付鉄十字騎士章を
ヒトラーから受賞されることになり、総統の別荘に招待されたエースの中に、
バルクホルンもいたからです。
ついでに、他の二人は
ヴァルター・クルピンスキーWalter Krupinski(197機撃墜)
ヨハネス・ヴィーゼ Johannes Wiese(133機撃墜)
というメンバーでした。
このとき勲章を受けるために総統の「狼の巣」に招待されていたのは
戦闘機エースだけではなく、爆撃機部隊や対空砲士などもいたそうですが、
列車の中で酔っ払ったのはこの4人だけです。
互いの成功と健闘を称え合い、コニャックやシャンパンで乾杯した結果、
互いに支え合わないと立っていられない状態で駅に到着しました。
ヒトラーが地下壕で最後に自決したのち、カイテルに当てた書簡を持って
脱出したことで歴史に名前を残しているドイツ空軍の副官、
ニコラウス・フォン・ベロー少佐は、彼らを見てショックを受けました。
気の毒だった副官ベロー少佐
授賞式が終わっても彼らはまだ酔っており、エーリッヒ・ハルトマンが、
帽子台から自分のと間違えてヒトラーの軍帽を取り、被ったものの、
「あれー、これ大きすぎね?」
とかヘラヘラしているのを見たフォン・ベロー少佐は、
「それは総統閣下のものだ。元に戻しなさい」(震え声)
と動揺しながら言わなければなりませんでした。
このとき4人のエースはまとめてベロー少佐に叱責されています。
ついでに、このベロー少佐は戦後連合国軍の裁判にかけられましたが、
1948年には釈放されて1980年には回想録を出版しています。
【被撃墜】
彼を撃墜したのもまたソ連機ではなく、P-39戦闘機でした。
エアコブラ
右腕と足に重傷を負った彼は、 強制着陸して病院に搬送されました。
ちなみにハルトマンは、バルクホルンがこの負傷で欠場している間に
彼の通算勝利数を超える301回の空中戦勝利を記録しましたが、
二人の関係が気まずくなることは決してなく、
このときハルトマンが挙げた結婚式で
バルクホルンはベストマン(結婚式の介添え人)を務めました。
ハルトマンはバルクホルンをして、
「指揮官として、友人として、仲間として、そして父親として、
彼は私が出会った最高の人間」
と評しています。
しかし、この頃バルクホルンの精神は少しずつ変調をきたし始めました。
コックピットに座ると襲ってくる強い不安、
後ろに味方の飛行機がいるときでさえ拭えない恐怖。
この状態から彼は数週間かけて立ち直り、その後、
1945年の1月5日の301勝目までの3ヶ月間に26機を追加しています。
その後彼の部隊はフォッケウルフFw 190 D-9を配備しましたが、
この機体を戦闘で飛ばしたかどうかは不明のまま、バルクホルンは
健康上の理由で指揮を解かれました。
当時の彼は、4年間の戦闘で心身ともに大きなダメージを負っていたのです。
彼が1,104回目となる最後の飛行を行ったのは1945年4月21日でした。
バルクホルンはクルピンスキー、カール・ハインツ・シュネル、
エーリッヒ・ホーゲンらとともに連合軍の捕虜となりました。
【戦後の人生から死まで】
1945年9月3日、バルクホルンは釈放され、家族と再会します。
しばらく公職追放されていましたが、1949年フォルクスワーゲンに入社し、
施設・サービス管理の責任者を務めました。
1955年末、新たに創設されたドイツ空軍に入隊した彼は、
少佐に昇進し、イギリスに渡ってRAFで訓練を受けます。
チェンバレン空軍副司令官からRAFの航空機乗務員章を授与され、
ドイツに帰国後、
リパブリックF-84Fサンダーストリークを装備した部隊の指揮官となり、
続いてロッキードF-104スターファイターの操縦訓練も受けました。
彼の部隊は戦闘爆撃機F-104 Gへの移行を完了した最初の部隊です。
1964年からバークホルンはホーカー・シドレー・ハリアーV/STOL機の前身、
V/STOLケストレルの軍事的能力を評価する部隊にいました。
この飛行隊は、英米独の3カ国の軍人と地上スタッフで構成され、
彼は飛行隊のパイロットであると同時に、2人の副隊長の1人でした。
この任務で彼は機の推力を失速させて不時着させる事故を起こしましたが、
助け出されるとき、
「Drei hundert und zwei [302]!」
と言ったとされます。
ちょっと意味不明ですが、彼の撃墜数が301機であったことと関係あるかな。
知らんけど。
彼はその後少将まで昇進しました。
「指揮に必要なタフネスとプレッシャーの下で働く能力が欠けていた」
ことがそれ以上出世できなかった理由だとされます。
1983年1月6日、バルクホルンは妻のクリステルと友人を乗せて運転中、
自動車事故で帰らぬ人となりました。
完全な貰い事故で、妻は車から投げ出されて即死、
バルクホルンと友人は病院で意識不明のまま死亡しました。
連邦空軍の多くの上級士官が参列した軍葬では、
多くの勲章が彼の棺を彩り、空軍大将が弔辞を述べました。
続く。