スミソニアンが選んだ21名の第二次世界大戦のエース。
我が大日本帝国から選ばれたのは、海軍搭乗員の二人です。
勿体をつけるまでもなく、それは西沢博義と杉田庄一であるわけですが、
ここであらためてその21名のエースの名前を列挙しておくことにします。
【スミソニアンが選んだ21名のエース】
ルフトバッフェ編で書いたように、撃墜数というのはあくまでも
その時代の、その国の装備で、相手があってのことであるので、
必ずしもその数が戦闘機乗りとしての技量を評価するものではないのですが、
ここではその21名を撃墜数順に列記していきます。
1、エーリッヒ・ハルトマン352
2、ゲルハルト・バルクホルン301
3、西沢広義104
4、エイノ・イルマリ・ユーティライネン🇫🇮 93
5、杉田庄一80
6、ハンス・ウィンド🇫🇮78
7、イヴァン・コジェドゥーブ62
8、アレクサンドル・ポクルィシュキン59
9、マーマデューク・パトル🇬🇧51+
10、リチャード・ボング🇺🇸 40
11、トーマス・マクガイア🇺🇸 38
11、”ジョニー”ジェームズ・ジョンソン🇬🇧38
13、デビッド・マッキャンベル🇺🇸34
14、ピエール・クロステルマン🇫🇷 33
15、フランシス・スタンリー・ガブレスキー🇺🇸 28
15、グレゴリー・ボイントン🇺🇸28
17、アドリアーノ・ヴィスコンティ🇮🇹26
18、フランコ・ボルドーリ-ビシュレッリ🇮🇹 24
19、マルセル・アルベール🇫🇷 23
20、スタニスワフ・スカルスキ🇵🇱22+
21、ヴィトルト・ウルバノヴィッチ🇵🇱18
3位に我が西沢広義中尉が入ってきています。つまり西沢は連合国相手に最も多い撃墜数を挙げたことになります。
しかし、たとえばアメリカ航空隊は、ある程度以上の数字をあげたら
人的リソースの確保というか、褒賞の意味合いで、
エースを後方に配置し、ボングのように教官職に付ける制度だったので、
死ぬまでこき使われた(?)帝国陸海軍の搭乗員より
数字が低くてもこれはあたりまえのことです。
それからこのランキングを見ていて気付くことがもう一つ。
スミソニアンは同じ国から2名ずつ(アメリカ以外)を選んでいますが、
その二人の撃墜数が、国によってほぼ拮抗していることです。
つまり、撃墜数というのは環境(期間)と与えられた装備、
相手のレベルによってある程度上限が決まってくると言えるでしょう。
そういう細かいファクターも絡んでくるとなれば、
単純に各国エースの撃墜数を順位にすることには、
ほとんど意味がないということもおわかりいただけるでしょう。
(やってしまってますけど)
【スミソニアンが選ばなかったドイツのエース】
300機以上の撃墜数をあげたエースがいる一方、
9機の撃墜にもかかわらず、超有名なルフトバッフェのエース、それが、
ハンス=ウルリッヒ・ルーデル大佐
Hans-Ulrich Rudel (2 July 1916 – 18 December 1982)
です。
ハルトマンがヒットラーに勲章を授与されたとき、
「君とルーデルみたいなのがもっといればよかったのに」
とまで言わせたドイツの空の英雄。
彼は急降下爆撃機のパイロットであり、戦闘機ではないのに
なまじ9機撃墜というエースの要件を満たしているため、
一応エース名鑑にはその名前がありますが、その真の功績は
ユンカースJu87シュトゥーカで東部戦線のソ連戦車を500両以上、
列車を800両以上撃破したことにあります。
【スミソニアンが選ばなかった国のエース】
米英独日仏伊波芬露。
スミソニアンは以上9カ国からしかエースを選ばなかったので、
その他の国が輩出したエースをご紹介しておきます。
マト・デュコバク大大尉
Cap. Mato Dukovac(23 September 1918 – 6 June 1990)
クロアチア独立国空軍
44機撃墜
クロアチアは第二次世界大戦中ドイツとイタリアの支援を受けて
クロアチア独立国となっていました。
両国の傀儡国家なので、つまり枢軸側ということになります。
日独伊が三国同盟を結ぶとこれと軍事同盟を結び、
日本とも国交がありました。
デュコバク大尉が空戦を行った相手は赤色空軍となります。
数が多めなのはそのせい・・・?
ちなみに彼は当時ドイツ空軍元帥でありリヒトホーフェンの従兄弟、
ヴォルフラム・フライヘア(男爵)・フォン・リヒトホーフェン
からドイツ十字章を手渡されております。
「バズー」コンスタンティン・カンタクジノ予備中尉
Constantin Cantacuzino Bâzu;(11 November 1905 – 26 May 1958)
ルーマニア王立空軍
44機撃墜
ルーマニアもまたソ連に土地を割譲されていたため、
ドイツ側につき枢軸国として第二次大戦に参加しました。
彼はルーマニア王立空軍の予備士官としてBf109Gに乗り、
RAFのスピットファイアやソ連赤色軍のエアコブラやYak-7、
そしてさらにはアメリカ陸軍P51マスタング、B-24、
P-38ライトニングを撃墜のリストに加えました。
この人の特異な点は、ルーマニアが1944年に連合国側に寝返ったため、
その後彼はルフトバッフェのHe111H、Fw190と撃墜している件です。
調べたわけではありませんが、連合国、ソ連、枢軸国と戦い、
計4カ国の空軍機を落としているのはこの人だけじゃないでしょうか。
ヤン・レズナク曹長
Ján Režňák(14 April 1919– 19 September 2007)
スロバキア空軍
32機撃墜
スロバキア空軍で戦闘機パイロットの訓練をうけ、兵長として
アヴィア Bk-534を装備し、東部戦線でウクライナに出撃を行います。
その後デンマークでBF 109Eへ機種転換を行い、
ソ連空軍との制空権争いでLaGG-3、I-16、I-153、MiG-3、
DB-3、Pw-2、Yak-1などを撃墜し、第二次世界大戦における
スロバキア空軍のトップ・エースとなりました。
🇨🇿ヨゼフ・フランチシェク軍曹
Josef František (7 October 1914 – 8 October 1940)
チェコスロバキア空軍
17機撃墜
この人の顔を見た途端、ガールフレンドにアクロバット飛行を見せていて
事故死してしまったというその最後を思い出しました。
本人は死んじゃったからともかく、目の前で墜落死されたガールフレンドは
その後のトラウマ半端なかったんじゃないかということも書いたかな。
まあ、なんだ。ドンマイ。
#劉粋剛(りゅう すいこう)空軍上尉
Liu Cuigang(1913年-1937年)
中華民国空軍
11機撃墜
試用機 カーチスホークIII, 日中戦争
日中戦争は第二次世界大戦か?という説もありますが、一応戦史的には第二次世界大戦の一部であるとされていますし、
当コーナーにはフライングタイガースの資料もありますので、
彼を「第二次世界大戦のエース」とみなします。
日中戦争開始後、劉は九六式陸上攻撃機、空母「加賀」「鳳翔」の艦上戦闘機隊
(複葉機[と九六艦戦)などと交戦、9月22日の南京防空戦、続く南京空戦で11機を数え、
事実上のトップエースとなりました。
その勇猛ぶりから「空軍五虎将の一人」「空の趙子龍」と呼ばれています。
加藤隼戦闘機隊と戦うため、派遣されることになった劉は、
ホークⅢ4機を率いて現地に飛びますが、途中で日没となり、
僚機と離れ離れとなってしまいました。
ある村の上空に飛来した劉の飛行機の音を連絡機と錯覚した町長は、
誘導のため三階建ての楼閣の傍で火をたいたところ、
燃料不足で火を目印に降下してきた劉は暗闇の中楼閣に衝突、死亡しました。
享年24。死後少校に特進しています。
その他、スミソニアンが選ばなかったエースは、
クリブ・コードウェル 28機1/2 オーストラリア空軍
レイモンド・ヘスリン 21機1/2 ニュージーランド空軍
セントジェルジ・デジェー 30機1/2 ハンガリー空軍
アンドレアス・アントニオウ 6機 ギリシア空軍
カルロス・ファウスティノス 6機 メキシコ空軍
などがいます。
続く。