WASP、Women Airforces ServicePilots
については、当ブログで女性飛行士の紹介と言う形の紹介を
何度となく行ってきました。
今日はスミソニアン博物館によるWASPの資料を紹介します。
■ WASPの誕生
「第二次世界大戦のエース」に続く写真パネルで紹介されていた
WASPコーナーの説明によると。
「1941年、ジャクリーン・コクランが、輸送コマンド航空隊の司令官に
コンサルタントという形で任命され、軍航空飛行場において
輸送パイロットに女性を採用するという案の検討が始まりました」
このブログでは何度となくご紹介しているので、
コクランという女性が右下の大きな写真の人物であることは
皆さんも覚えておられるかもしれません。
しかし、これも記憶しておられるかもしれませんが、当時、
女性からなる補助航空隊の成立は世間の声とかが障害となって、
アメリカ合衆国の「オーソリティ(権威)」から拒否されてしまいます。
そこでコクランが話を持ち込んだのはイギリスでした。
コクランはまずそちら側に女子航空隊を創設しますが、
もちろんその際も表に立ったのは彼女ではなく、
あのハップ・アーノルド将軍でした。
アーノルド将軍については、「陸軍航空の父」という位置づけで
ここでも紹介していますが、女子航空隊創設を実現させた人物です。
さしずめ女子航空隊のアーノルド将軍が父、
コクランが母といったところでしょうか。
まずイギリスで女性パイロットによる補助航空隊を稼働させ、続いて
1942年9月にはアメリカに女性パイロットプログラムが組織されます。
プログラムは2部構成になっていて、ひとつは飛行経験者による輸送部隊、
そしてもう一つは未経験者の養成プログラムでした。
当ブログでは「クイーン・ビー」としてとして既にご紹介済み、
ナンシー・ハークネス・ラブ「クィーン・ビー」
がアメリカにおける輸送&教育隊の初代司令に任命されます。
Women's Auxiliary Ferrying Squadron、略称WAES、
女性補助輸送中隊が正式な名称でした。
そして、イギリスの輸送隊を組織していたジャクリーン・コクランは
アメリカに帰ってきて訓練航空隊の創設に関わることが決まりました。
1949年8月5日、二つのプログロムが統合されて
Women Airforces Service Pilots (WASP)
が誕生します。
1944年に廃止されるまで、WASP全体的の総空中航行距離は6千万マイル。
プログラムに受け入れられた1074名の女性のうち、900人は
「実践」に出ることなく終わり、プログラム中に30名が殉職しました。
「Order of Fifinella」(フィフィネラ団)
WASPは、プログラムが廃止される1カ月前の1944年11月に、
マックスウェル飛行場で「フィフィネラ団」を制定しました。
この組織の目的は、WASP解散後の再就職に関する情報の共有、
WASP出身者同士のコミュニケーションを維持すること、
そして航空業界の法律や潜在的な雇用者に影響を与えるための
統一された組織を形成することでした。
1944年12月20日には300人、そして1945年には会員は700人を超え、
WASPの全階級から代表者を集めた諮問委員会が設立されました。
時が経つにつれ、組織は会員数を増やしてゆきます。
具体的な活動は年2回のニュースレターの作成、
各地での同窓会のコーディネート、
すべての会員の消息を明らかにする名簿の管理などです。
最後の同窓会が行われたのは意外と遅く、2008年のことで、
開催場所はテキサス州アーヴィング。
そして翌年の2009年には正式に解散を行いました。
他のいくつかの航空隊のシンボルと同じく、
このデザインもディズニーによるもので、しかもスタッフではなく、
ウォルト・ディズニー本人の作画を使用する許可を得ています。
ちなみに「フィフィネラ」とは、航空隊の女性たちの面倒を見るために
航空機の翼の上に乗ってくれる小さな良いグレムリンのことだそうです。
■ ”ハップ”・アーノルド将軍
ところで、女子航空隊に最初は反対していたくせに、
結局のところ設立に鶴の一声でゴーサインを出したため、
「父」と言わざるを得なくなったハップ・アーノルド将軍の制服が、
まさにここWASPコーナーのおまけのように展示してあります。
アーノルド将軍の着用したこのタイプの軍服は、全ての将校に共通のもので、
一般に「ピンクとグリーン」(Pinks and greens)と呼ばれていました。
ピンクアンドグリーンを着た陸軍幹部。
(左はおそらくジミー・ドーリトル?)
ピンクアンドグリーンは第二次世界大戦中の
アメリカ陸軍の将校用の冬服を指す愛称のようなものです。
ピンクという言葉が謎ですが、これはグリーンの上着に合わせる
ズボンがかすかにピンク色を帯びていたことからきています。
という評価のせいか、着用は勤務時間外か、非公式な夜の社交行事のみ、
と限定され、1958年には廃止されています。
アーノルドは1944年12月に元帥に昇進し、
特別記章を両肩に付ける身分になります。
第一次、第二次大戦にまたがる、長く際立ったキャリアの間に、
彼はそれこそ数多くの勲章とメダルを授与されましたが、
本人は陸軍勲章、殊勲飛行十字章、
そしてエアメダルのリボンだけをつけていました。
リボンの上にはコマンドパイロットのウィングマークがあります。
アーノルド将軍のファイブスターフラッグ実物が展示されています。彼はアメリカ陸軍と空軍、二つの軍で五つ星ランクを取った唯一の人物です。
1949年、特別にアーノルド将軍のために製作されたブルーフラッグは、
初の空軍大将旗として、
陸軍のレッドフラッグ将軍旗と対照的に用いられました。
大統領令としてファイブスターランクを与えると記された賞状実物。
1949年5月7日の議会命令により、アーノルドは空軍将軍に任命されました。
授賞式で、時の大統領トルーマンから任命書を受け取っています。
ここにはハップ・アーノルド、本名ヘンリー・ハーレイ・アーノルド将軍の
バイオグラフィーも展示されているので一応翻訳しておきます。
ペンシルバニア州生まれ、1907年ウェストポイント卒業
1911年、オハイオ州デイトンにあったライト兄弟の航空学校で飛行を学ぶ(ライト兄弟のどちらかに教わったわけではない)
1931年以降「ハップ」(HAP)とあだ名で呼ばれるようになる
1912年、マッケイトロフィー(航空レース)で優勝
1934年、アラスカへの初探検飛行を成功させる
1938年、陸軍航空隊の隊長に就任
1941年、陸軍航空隊司令官に就任、陸軍大将に昇任
連合参謀本部の一員となる
第二次世界大戦中、240万人以上の組織の長として
航空隊の訓練、装備を統括する立場に
1944年12月にが元帥位に上り詰める
1946年、陸軍航空隊指揮官を退役
彼は空中給油、無人飛行機、ボーイングB-29スーパーフォートレスなどの
高度な航空技術開発の先駆者であり、退役後も
航空科学と米空軍の技術開発の間の連携を指導しました。
そのリーダーシップ、そして個人的な経歴の積み重ねの成果は、
彼に「現代空軍の父」という名前を与えました。
女子航空隊WASPの創設も、そんな彼に取っての
偉大な業績の一つだったのです。
現在においてもハップ・アーノルド将軍は、
アメリカ空軍史上唯一の五つ星ランクの軍人です。
■ WASPのトレーニング
飛行場のエプロンを行進するのはWASPの訓練生たち。
航空パンツの上に半袖あるいは長袖の白いシャツ、
帽子はギャリソンキャップらしいデザインですね。
場所はテキサス州のアベンジャーフィールドで、これは
女子航空隊訓練課程の卒業式における整列の写真です。
同じくテキサス州スウィートウォーター(地名)のアベンジャー飛行場、
WASPの訓練生が航空エンジンについての実習を受けている様子です。
教員らしい右側の男性は航空隊の軍曹と言ったところでしょうか。
髪を伸ばしている人ばかりですが、考えてみると、
大多数のアメリカ人女性、とくに頻繁に美容院に行かない学生などは
ロングヘアにしていることが多いので、彼女らもそれと同じかもしれません。
写真で行われている実習は、基幹部品の組み立てのようです。
高気圧チャンバーでの耐圧テストを受けているWASPたち。
この設備はテキサス州ランドルフ基地にありました。
その他のテストにおいても、女性の輸送パイロットは物理的に
男性のパイロットよりも喪失率が低いことが証明されています。
しかも、女性の男性より少量の筋肉構造は、より重い航空機を飛ばす能力とは
何の関係もないということがこのとき明らかになりました。
颯爽と飛行服で歩くWASPたち。
四人並んでこんな風に歩いているポーズは
おそらく宣伝用に撮られた写真ならではでしょう。
WASPプログラムの最大の目的は、
男性パイロットを戦闘任務に集中させることにありました。
したがって彼女らの任務は輸送、標的の曳航、
管理飛行、ユーティリティ飛行などに限られました。
この4人のWASPはB-17を輸送する任務を行うパイロットたちで、
オハイオの飛行基地に、後ろに見える機体を運んできたところです。
■ アメリカ史上初めて「戦死」したWASPパイロット
Cornelia Fort
コーネリア・クラーク・フォート(1919年2月5日~1943年3月21日)は、
アメリカ人飛行士として2つの出来事に参加したことで有名になりました。
1つ目は、1941年12月7日、真珠湾攻撃の際に日本軍の航空隊と遭遇した
最初のアメリカ人パイロットとなったことです。
真珠湾で民間人パイロットの教官として働いていた1941年12月7日、
フォートは真珠湾近くの上空で、単葉機の教官席で離着陸を教えていました。
当時、港の近くを飛んでいたのは、
彼らのほか数機の民間機だけだったといいます。
フォートは軍用機が自分に向かって飛んでくるのを見て、咄嗟に
学生から操縦桿を奪って対向機の上に引き上げました。
その翼に旭日旗が描かれていると思った次の瞬間、彼女は
真珠湾から黒煙が上がり、爆撃機が飛んでくるのを見たのです。
すぐに、真珠湾口近くの民間空港に飛行機を着陸させたところ、
彼女の飛行機を追ってきた零戦は滑走路を空襲し、
彼女と生徒は逃げ惑いました。
このとき空港の管理者は亡くなり、
当時上空にいた2機の民間機も戻ってきませんでした。
そのことが彼女に軍隊に奉仕する志望理由を与えたのでしょう。
1942年本土に戻った彼女は、その年の暮れ、ナンシー・ラブに誘われて、
新たに設立された女性補助フェリー隊(WASPの前身)に参加して
アメリカ国内の基地に軍用機を輸送する仕事に従事しました。
そして、彼女が遭遇した二つ目の航空史に残る出来事とは、
彼女自身がアメリカ史上初めて
現役で死亡した女性パイロットとなったことです。
1943年3月21日、ロングビーチからダラスへ向かう編隊飛行中、
彼女のBT-13の左翼が一緒に飛んでいた男性飛行士の
ランディングギアに衝突したのです。
このとき、男性飛行士はフォートの飛行機に近づきすぎ、
また近づいては離れるという不安定な飛行をしていたといいます。
そして両機は衝突し、フォート機の主翼の先端と前縁が破損。
男性飛行士は機を立て直すことができましたが、フォートは衝撃で
機体を急降下させ、そのままテキサス州の渓谷に墜落し死亡しました。
事故当時、彼女はWASPの中でも最も熟練したパイロットの一人でした。
彼女の墓の墓石には、
「Killed in the Service of Her Country」
(祖国のための任務中に殉職した)
と刻まれています。
続く。