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ジョー・フォスコーナー〜フライング・レザーネック航空博物館

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サンディエゴの海兵隊航空博物館、「フライング・レザーネック」には
ご覧のような「ジョー・フォス」コーナーがあります。




ジョー・フォスはアメリカ海兵隊の戦闘機エースです。
スミソニアンの展示「第二次世界大戦の世界のエース」で
スミソニアンに選ばれたのは、グレゴリー・ボイントン一人でしたが、
この人の名前もその世界では大変有名です。

ジョセフ・ジェイコブ・"ジョー"・フォス
Joseph Jacob "Joe" Foss(1915〜2003)は、
第二次世界大戦中のアメリカ海兵隊を代表する戦闘機のエースの一人。
ガダルカナル・キャンペーンでの空戦での活躍が評価され、
1943年に名誉勲章を受章しました。

戦後は、空軍准将を経て、第20代サウスダコタ州知事、
全米ライフル協会会長、アメリカン・フットボール・リーグコミッショナーなどで
名声を得たほか、テレビ放送作家としても活躍したという、
実に多才な人物です。
ところで今回検索していて、世の中には英語による
「ミリタリーWiki」なるページがあることを知りました。
このページのありがたいことは、軍人であれば
そのサービスや勤務地、ランクについて、
途中経過も含めて記載してくれているところです。
たとえばジョー・フォスの場合、1940年から1946年まで
海兵隊におり、その後アメリカ空軍に移籍したのですが、
海兵隊では少佐まで、空軍では准将まで、とわかりやすく書いてあります。
そして軍サービスで得た「あだ名」についても。
彼のニックネームは
「スモーキー・ジョー」「オールド・ジョー」
「オールド・フース(Foos)」「エース・オブ・エーセズ」など。
「エースの中のエース」といわれたフォスとはどんなパイロットでしょうか。
「ミリタリー・ウィキ」の力も借りながらお話しします。
■リンドバーグに憧れて

ニューヨークタイムズ紙の表紙を飾ったジョー・フォスの写真。
フォスは、サウスダコタ州の、農家の長男として生まれました。
実家は貧しく、電気も通っていない家だったそうです。

12歳のとき、地元の飛行場に、伝説の飛行家チャールズ・リンドバーグが
「スピリット・オブ・セントルイス号」のツァーで訪れました。
はて、この名前には何か聞き覚えが。
と思い、念のためスミソニアンで撮った写真を調べてみたところ、
ありました。

「スピリット・オブ・セントルイス」実物が。



同機はライアンNYPという型で、1927年、
リンドバーグが史上初の大陸間ノンストップ飛行を達成した機体です。

具体的にはニューヨークからパリまでの5810kmで、
この時の英雄的な飛行はその後、
「翼よ あれがパリの灯だ」という映画に自伝として描かれました。
この飛行によってリンドバーグは一躍ヒーローになり、
リンドバーグブーム、ひいては飛行機ブームが巻き起こりました。
フォスが見たツァーというのは、大陸間横断を成功させた後、
「スピリット」に乗って行った凱旋飛行で、
フォスの故郷であるサウスダコタを含む中南部の都市を巡りました。

それを見て空に憧れたフォスは、その4年後には、
父親と一緒に1人1ドル50セントを払って、空を飛びました。

これは、おそらく遊覧飛行という程度のものだったと思われます。


1933年、フォスが17歳になったとき、父親が事故死します。
暴風雨の中、畑から戻ってきて車から降りたところで電線を踏み、
感電死してしまったのでした。

彼は学校を中退して母親と一緒に農場で働かざるを得なくなります。
その頃、彼の住む地域で海兵隊の飛行チームのデモが行われました。
そしてオープンコックピットの複葉機による華麗な曲芸飛行に魅せられた彼は、
海兵隊の飛行士になることを決意したのでした。

まず彼はガソリンスタンドで働いて書籍代や大学の授業料を稼ぎ、
操縦の個人レッスンを受けることから始めました。

その後州立サウスダコタ大学(USD)に入学した彼は、
志を同じくする学生たちと一緒に、当局に交渉して
大学内に航空局の飛行コースを設けてもらい、
卒業までに100時間の飛行時間を稼ぐことができました。
スポーツに秀でており、大学時代はボクシング部、陸上競技チーム、
フットボールのチームで活躍していたそうです。

1940年には、パイロットの資格と経営学の学位を取得したフォスは、
海軍航空士官候補生プログラムに参加して海軍予備軍になるために、
ヒッチハイクでミネアポリスに向かいました。

■ 軍でのキャリア
海軍飛行士に指定されたフォスは少尉任官し、
まずUSS「コパヒー」( USS Copahee (CVE-12))に乗り組んだ後、
フロリダのペンサコーラ海軍航空基地教官として勤務しました。

学費を稼ぐために働いているうちにかれはすでに26歳になっており、
志望である戦闘機パイロットになるには年を取りすぎていたため、
代わりに海軍の写真学校に配属されたのです。

もちろん彼はこれに不満でした。

最初の任務を終えると、サンディエゴの海軍航空基地、
ノースアイランドにある海兵隊写真撮影隊(VMO-1)に転勤を命じられますが、フォスはめげず、戦闘機課程への異動を繰り返し希望しました。

上もこれに根をあげたのか、彼はグラマンF4Fワイルドキャットで
訓練課程の履修を許されます。
ただし所属は写真撮影隊のままだったそうです。
そうして彼は1942年6月から1か月間で150時間以上の飛行時間を達成し、
最終的に海兵隊戦闘飛行隊121VMF-121に幹部として配属されたのでした。


同年フォスは高校時代の恋人ジューン・シャクスタと結婚しています。
■ガダルカナル



1942年8月20日、初めてガダルカナルの戦いで投入された戦闘機隊は、
VMF-223、通称ブルドッグスでした。
到着後、中隊はカクタス航空隊の一員となり、その後2ヶ月間、
ラバウルを拠点とする日本軍と制空権をめぐって戦いを繰り広げました。


FL航空博物館の室外航空展示には、ご覧のように
フォスの時代のワイルドキャットが展示されています。
他の航空機は野ざらしなのに、これだけ屋根がついており、
特別扱いを感じさせる展示となっています。

General Motors FM-2 Wildcat
このFM-2の意味は、F=ファイター(戦闘機)、
M=マニファクチャー(GMイースタン)、2=モデルバージョンです。
現地の説明を翻訳しておきます。

最初のF4Fワイルドキャットは、WW2前と初期に、
グラマンエアクラフトによって設計・製造されました。
この航空機は1941年から1942年の間に海兵隊と海軍が運用できる
唯一の効果的な戦闘機という位置づけでした。

太平洋戦行きの初期の主要な敵は帝国海軍の三菱A4M零式でした。
零戦はワイルドキャットを打ち負かすだけの力を持っていましたが、
ワイルドキャットの重火器と頑丈な機体構造は、
熟練したパイロットが飛行させた時有利になりました。
グラマンは新しい戦闘機F6Fヘルキャットを導入する準備を完了していましたが、
海軍は依然としてF4Fを必要としていました。

ヘルキャット生産の余地を作るために、GMは
ワイルドキャットF4Fの二つのバリエーションを生産しました。
GMのワイルドキャットは、多くの点でグラマンバージョンとは異なりました。

FM-2はより強力でかつ軽量なライトR-1820星型エンジンを搭載していました。
4基の50口径機関銃を搭載し、地上の標的、船、
または浮上している潜水艦に対して高速ロケット弾を搭載しました。

また、エンジンによって増加するトルクを打ち消すために、
標準のF4Fよりテールを高くしてあります。



展示中のワイルドキャットは、ガダルカナルキャンペーン中の
ジョー・フォスが所属した「ブラック53」塗装をされています。

VMF-223は1942年10月中旬までに、日本のエース・笹井醇一を含む
110機半の敵機を撃墜して島を後にしています。

ジョー・フォスの所属するVMF-121は、VMF-223を救援するため、
1942年10月「ウォッチタワー作戦」の一環としてガダルカナルに派遣されます。
「ウォッチタワー作戦」(望楼作戦)は、ニミッツ大将を総指揮官として
サンタクルーズ、ツラギ等周辺諸島の攻略を目指したものです。
護衛空母「コパヒー」から発進し、ガダルカナルに到着したフォスらは
ヘンダーソン飛行場でカクタス航空隊の一部となり、
ガダルカナルの戦いにおいて極めて重要な役割を果たしました。
スミス

カクタス航空隊のエースといえば、有名なのが
笹井を撃墜したマリオン・カールとジョン・L・スミスでしたが、 フォスも積極的な近接戦術と驚異的な砲術の技術で評判になりました。
ただし、フォスは10月13日初めての空戦で零戦を撃墜したものの、
自身のF4Fワイルドキャットも銃でエンジンを損傷、
3機の零戦に追尾されたフォスはアメリカ軍の滑走路に逃げ込んで
フラップなしのフルスピードのまま着陸し、
かろうじて椰子の木立を避けて生還を果たしています。
■ フォスのフライングサーカス
隊長であるフォスが
「ファーム・ボーイズ」と「シティ・スリッカーズ」
と名付けた二つのセクションからなる8機のワイルドキャットの小隊は、
すぐに「フォスのフライング・サーカス」と言われるようになります。
腕利きのパイロットと彼が率いる小隊を「〇〇サーカス」と称するのは
アメリカが発祥だと思いますが、日本でも
「源田サーカス」なんてのがありましたよね。
なにをどう勘違いしたのか、
「ラバウルにいるアメリカ軍の搭乗員にはサーカス出身
(芸人のことか?)などがいるらしい」
と登場人物に言わせていた「ラバウルもの」があって、
当時初心者だったわたしは、マリオン・カールを
サーカスのアクロバット出身と一瞬とはいえ勘違いしていたことがあります。

ジャングルの環境は過酷で、1942年12月、フォスはマラリアにかかりました。
治療のためにシドニーに送られたフォスは、
そこでオーストラリアのエース、クライヴ "キラー "コールドウェルと出会い、
新たにこの戦域に配属されたRAFのパイロットたちに作戦飛行の講義を行いました。
’Killer’コールドウェル


1943年1月1日、フォスはガダルカナルに帰還しましたが、
現地防衛戦は1942年11月の危機的状況から回復していたため、
彼は1ヶ月で帰国を果たしました。
ガダルカナルにおける一連の戦闘で、フォスは
第一次世界大戦ののエース、エディ・リッケンバッカーの26機撃墜に並び、
アメリカで最初の「エース・オブ・エース」の栄誉に浴しました。
■戦闘復帰
1944年2月、フォスは太平洋戦域に戻り、
F4Uコルセアを装備するVMF-115を率いました。

フォスはこの2度目の遠征で、同じ海兵隊の戦闘機エースである
マリオン・カールと出会い、友人になったということです。

そして、彼にとって少年時代の憧れだったチャールズ・リンドバーグが
この時期、航空コンサルタントとして南太平洋を視察していたこともあり、
彼と一緒に飛行するという願ってもない機会に恵まれました。
左からカール少佐、リンドバーグ、フォス少佐
ここでフォスは8ヵ月間任務を行いましたが、
戦時中の撃墜記録をを伸ばす機会はありませんでした。

そしてまたしてもマラリアにかかったため、アメリカに帰国して、
サンタバーバラの海兵隊航空基地で作戦・訓練担当官となります。
■戦後の人生
1945年8月、フォスは、チャーターフライトサービスと飛行教習所
「ジョー・フォス・フライング・サービス」を経営し、
パッカードなどの車も販売する会社を立ち上げました。

【サウスダコタ州兵】
1946年、フォスはサウスダコタ州航空州兵の中佐に任命され、
第175戦闘迎撃飛行隊の指揮官となりました。
朝鮮戦争中、大佐だったフォスはアメリカ空軍に召集され、
最終的に准将の地位に就いています。

【政治家】
サウスダコタ州議会の共和党議員を2期務め、
1955年からは39歳で州最年少の知事に就任しました。
選挙運動は自分で軽飛行機を操縦して行ったそうです。

1958年、下院議員選挙に立候補しましたが、同じく戦時中のパイロットの英雄、
民主党のジョージ・マクガバンに敗れて落選し、政界を引退しました。

【フットボール・リーグコミッショナー】
知事を務めた後、フォスは1959年に新設された
アメリカン・フットボール・リーグの初代コミッショナーに就任しました。
就任中、フォスはリーグの拡大に貢献し、ABC、NBCと
有利に放映権を結ぶなどしています。

【テレビ司会者】
フォスは、生涯を通じて狩猟やアウトドアを愛しており、
ABCテレビの司会を務め、狩猟や釣りのために世界中を旅しました。

アウトドアTVシリーズ「The Outdoorsman: Joe Foss」では
司会とプロデューサーを務めています。
972年には、KLMオランダ航空の広報部長を6年間務めました。

【全米ライフル協会】
フォスは1988年から2期連続で全米ライフル協会の会長に選出されました。


ライフル協会会長の頃のフォス

■その他展示品


2013年の消印がついた、これは葉書でしょうか。
栄誉賞、海軍十字章、サウスダコタの州旗、
ライフの表紙、旭日旗に「26機撃墜」
なんなら彼の墓石まで印刷されています。
 航空帽、海兵隊キャップ、サウスダコタ州兵キャップ。


パイロットログブックと1942年7月20日付のサイン。
戦闘機航空課程を終了したときのものです。

左側のフライングクロス授与の際のサイテーションは、
海軍長官だったジェームズ・フォレスタルのサインがあり、
このような文言が書かれています。
米国大統領は、喜びをもって、名誉勲章を授与します。

ジョセフ・J・フォス大尉
アメリカ海兵隊予備役
以下の表彰状に記載されている任務に対して

海兵隊戦闘飛行隊の執行官として、ソロモン諸島のガダルカナルにおいて
職務の範囲を超えた傑出した英雄的行為と勇気を示した。

1942年10月9日から11月19日までの間、ほぼ毎日
敵との戦闘に従事したフォス大尉は、
23機の日本軍機を個人撃墜し、他の航空機を撃破せしめた。
また、この期間中、彼は多くの護衛任務を成功させ、
偵察機、爆撃機、写真機、水上機を巧みにカバーした。
1943年1月15日には、さらに3機の敵機を撃墜し、
この戦争では他に類を見ない空中戦の記録を残したのである。

1月25日、敵軍の接近に対し、フォス大尉は
8機のF4F海兵隊機と4機の陸軍P-38を率いて行動を開始し、
圧倒的な数の差に臆することなく、迎撃と攻撃を行い、
日本の戦闘機4機を撃墜し、爆撃機に1発の爆弾も投下させることなく撃退した。

彼の卓越した飛行技術、感動的なリーダーシップ、不屈の闘志は、
ガダルカナルにおけるアメリカ軍の戦略的陣地の防衛において、
際立った要因となった。



ところで、先日当ブログで取り上げた
「スミソニアンが選んだ第二次世界大戦のエース」で、
海兵隊のエースは28機撃墜のボイントンでした。

フォスはあと2機というところで国に帰されてしまったので、
海兵隊一位を奪われてしまったということになります。


FLに展示されているワイルドキャットには、彼の名前の下に
彼の撃墜数とされる26機を表す旭日旗のペイントが施されています。
しかしながら先日、わたしはネットの片隅でこんな話を読みました。
「戦後日本側の被撃墜記録と照合したところ、
彼の撃墜を主張する数より少なかった」
彼我の撃墜被撃墜の記録が合わなかったという例はいくつもありますが、
不思議と撃墜数は被撃墜側の記録(つまり正解)より多く、
実際より自己申告が少なかったという例は寡聞にして知りません。
ハルトマンのように本当に撃墜したかどうか見張りがついていればともかく、
(それも全てを見届けられないと思いますが)自己申告ではどうしても
人間は自分のいいように記憶を操作してしまうものなのでしょう。
おそらく「スミソニアンの選んだエース」にしても、
何人かは不確かな撃墜を「まいいか」と撃墜にカウントしたり、
もしかしたらちょっと水増ししていた人もいたのではないでしょうか。

その点、撃墜数を公式な記録とするのをやめた日本軍は、ある意味
パイロットをこの手の「要らん煩悩」から解き放ったと言えるのかもしれません。



続く。



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