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日本を攻撃させた日本軍士官 ワダ・ミノル〜フライング・レザーネック航空博物館

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フライング・レザーネック海兵隊航空博物館のHPを検索していて
一人の帝国陸軍軍人にまつわる資料を見つけ、わたしは強い衝撃を受けました。
彼は、フィリピンにおける日本軍の侵攻を阻止する
アメリカ海兵隊の航空機に乗っていました。
捕虜として捕らえられたこの日本軍の士官は、
アメリカ軍に日本軍の位置と状況を語り、攻撃に協力していたのです。

1945年8月9日、長崎に第2の原爆が投下された日、
海兵隊爆撃隊VMB-611のPBJ-1Dミッチェル爆撃機と
海兵隊戦闘隊VMF-115のF4Uコルセア戦闘機は、
ミンダナオ島ザンボアンガのモレット飛行場から
帝国陸軍原田中将の司令部への攻撃に向けて離陸準備をしました。

先頭機のパイロットは3人の変わった乗客の名前を
フライトマニフェストに追加しなければなりませんでした。
陸軍の地上連絡将校兼攻撃調整官のモーティマー・ジョーダン少佐、
通訳のチャールズ・イマイ軍曹、そして一人の日本軍将校の名前を。

将校は日本軍の軍服を着たまま、無線機のガンナーの位置に座り、
見覚えのある目印を探していました。
彼はかつて自分が所属した軍の司令部に爆撃機を誘導し、
2万2千ポンドの爆弾と5インチのロケット弾を投下させたのです。

彼の名前はワダ・ミノル。

実なのか稔なのか穣なのか、その名前も正確にわからないのは、
日本語での彼についての資料が一切残されていないからです。
ついでに言えば、媒体によって彼のランクは
「Lieutenant」「Junior officer」「2nd Lieutenant」と様々です。


英語のwikiはありますが、そもそも彼が作戦に参加したこと自体
アメリカでも戦後ずっと機密扱いされてきました。
そしていまだに全容が公開されていないという状態です。

まずは英語のWikiを翻訳しておきます。
和田ミノルは、日本で教育を受けた米国人である。
日本軍ではジュニア・オフィサーであり、1945年にミンダナオ島で
米軍の捕虜となった「KIBEI」である。
「キベイ」はもちろん帰米から来た英語で、1940年代によく使われました。
アメリカで生まれた日系アメリカ人が日本で教育を受けた後、
アメリカに戻ることを意味しています。

日系人の中には、日本語や日本の文化を学ばせるため、
二重国籍の子供たちに日本に帰国させて教育を受けさせる人がいて、
彼らが帰ってくると「キベイ」と呼ばれました。

和田はアメリカに生まれた日系アメリカ人で、日本に渡りました。
何事もなく帰米していれば文字通りの「キベイ」だったのですが、
そこで戦争が始まってしまったのです。

彼は1945年にフィリピンで捕虜になった。

彼は海兵隊の爆撃機に重要な情報を提供し、爆撃機を率いて
日本の第100師団の司令部を攻撃して大成功を収めた。
和田の動機は、太平洋戦争の早期終結に貢献して
犠牲者を最小限にしたいというものであった。
戦後しか知らないこんにちの我々にとっても、
和田という士官のとった行動は実に奇異に感じられます。
当時の日本人、しかも軍人が、敵に自軍の情報を流し、
あまつさえ攻撃の指揮に参加したというのですから。

百歩譲って、その理由が金のためとか、命惜しさなら
まだわからなくはないですが、その理由が
「戦争を早く終わらせたいと思ったから」
現代の日本における護憲派や国が武器を持つことに拒否を示す人々は、

「敵が侵略してきたら抵抗せずに降参すれば良い」

などと言いますが、この和田の言い分は
それと同じベクトルの独善的な理想論です。

共通点は、それ(自分の理想とする結論)に到達する過程で起きる
第三者の生き死についてはあえて「見てみないフリをする」ということです。
そしてわたしは、次の一文を読んで、さらなる衝撃を受けました。
捕虜になった際、和田は英語を話せないことが判明した。
■ 米海兵隊航空隊ミンダナオ攻撃

1945年8月10日、日本の降伏を間近に控えたフィリピン・ミンダナオ島で、
海兵隊の飛行機が空を飛び、日本軍の進駐を阻止しました。

先頭の飛行機で海兵隊を指揮していたのは、捕虜となった日本軍将校の
和田ミノル中尉であり、密林の中の攻撃目標の位置を案内していました。


米軍PBJミッチェルの無線オペレーター席に座り
日本軍第100歩兵師団の本部施設の位置となる目印を探している
捕虜、和田ミノル中尉(1945年8月9日、フィリピン・ミンダナオ島)

これは戦時中、日本軍将校がアメリカ軍航空機に搭乗員し、
米軍の攻撃に協力した、最初で唯一の出来事となりました。

なぜミンダナオ島で空中戦を展開する米海兵隊に和田中尉が協力するに至ったか。
この特異な出来事に至るまでに、太平洋でそれまでに起きた
いくつかの背景を理解する必要があります。



●1942年4月18日、南西太平洋地域(SWPA)の最高司令官に
ダグラス・マッカーサー元帥が任命されました。
SWPAには、オーストラリア、ニューギニア・パプア、フィリピン、
そしてソロモン諸島の一部が含まれており、マッカーサーの連合軍司令部は、
主にアメリカ軍とオーストラリア軍で構成されていました。

●1945年6月までに、マッカーサー司令部は長期にわたる作戦を成功させ、
ニューギニア・パプア地域から日本軍を排除し、
オーストラリアは日本軍侵攻の可能性から解放されます。

●次に奪還すべきだったのはフィリピン諸島でした。
それを踏まえてマッカーサーがマニラに司令部を移してまもなく、
1945年6月21日、沖縄戦は終了します。

●8月までに、ジョージ・C・ケニー大将の指揮下にある
マッカーサーのアメリカ空軍部隊は、すでに沖縄に司令部を移し、
日本本土への爆撃に専念することになりました。


ジョージ・チャーチル・ケニー将軍


●1945年8月9日、アメリカは第二次世界大戦中における
2回目の原子爆弾投下を長崎に行い、日本に壊滅的な打撃を与えました。
チャールズ・W・スウィーニー少佐が操縦する
B-29スーパーフォートレス「ボックスカー」による攻撃は、
日本だけでなく世界の運命を変えたといえるかもしれません。

フィリピンの日本軍

SWPAで日本軍を打ち破ったといっても、マッカーサー将軍の陸軍は
日本の防衛上のいくつかの「強力なポイント」をスルーしており、
アメリカ海軍もラバウルの日本海軍基地を実質無視していました。

マッカーサーはここに至ってフィリピンの日本軍に対峙する決心をしました。
この地の日本軍のほとんどは、自分たちの戦況の不利と
兵站の窮状などで陥った苦境にもかかわらず、降伏を拒否していました。
原田次郎陸軍中将が率いる日本陸軍第100師団は、
大幅に戦力を落としてミンダナオ島に駐留していました。
原田軍に対抗するのは、ロバート・L・アイケルバーガー将軍が指揮する
アメリカ第8軍と連合軍でした。

アイケルバーガー大将

アイケルバーガーは、日本軍の残存兵力をすべて破壊し、
ミンダナオ島の解放を成し遂げることを任命され、
残存兵力に対処するため、第1海兵隊航空団(第1MAW)の支援を受けました。
第1MAWは、1942年8月にガダルカナルに最初に到着した海兵隊航空部隊で、
カクタス航空隊を生んだ航空隊として有名です。

1945年、第1MAWの活動の中心はソロモン諸島の防衛になっていました。
1943年4月から1945年6月まで第1MAWの司令官を務めた
ラルフ・J・ミッチェル少将は、日本軍の駐屯地を迂回して
しれっと帰投してくるだけの部下に嫌気がさし、
一部の飛行隊をフィリピン攻略に参加させるよう上層部に圧力をかけていました。

ミッチェル少将
西太平洋での作戦の中心はフィリピンに移りました。
第1MAWを含む地上の海兵隊航空部隊は、マッカーサーの第5空軍に移されます。

その頃、ウィリアム・F・ハルゼー提督は、
第1MAWの4つのコルセア飛行隊(MAG-12)が

「その能力をはるかに下回る役不足の任務に就いている」

と感じていました。
また、南西太平洋地域を担当していたトーマス・C・キンケイド提督が
ここでは「航空援護が不十分」と訴えていたことにも気付いていました。
そこでハルゼーはマッカーサーと連絡を取って、たとえば第32海兵航空群の海兵隊爆撃隊611(VMB-611)を
PBJミッチェル爆撃機を装備したフィリピンで唯一のPBJ飛行隊にしたり、1945年4月までに、VMB-611とMAG-12コルセア飛行隊を
再編成してフィリピンに移動させるなどして強化しました。
ちなみに、先日ここで扱ったジョー・フォス少佐はVMF-115("Joe's Jokers")F4Uコルセア飛行隊の指揮官として
フィリピンに赴く予定でしたが、マラリアに苦しめられていたため、
フィリピン派遣直前にアメリカに帰国しています。
■日本軍捕虜 ワダミノル中尉
和田ミノルという人物については、1945年8月の一瞬をのぞいて、
ほとんど全てが謎に包まれたまま今日に至ります。

わかっていることは、先ほどまでの経緯を経てミンダナオに進駐した米軍が
日本軍部隊の排除を進めていく過程で多くの日本兵を捕虜にしていく中、
その捕虜の中に和田ミノル少尉がいたということです。

和田は第100師団に1年以上所属して輸送担当を務めており、
そのため、島や地形のことをよく知っていました。


和田はアメリカで生まれ、日系の「帰米」の習慣に従って、
日本に渡り教育を受けて東京帝国大学に入学しました。
英語の記述では、彼がその後陸軍士官学校に入学したとなっていますが、
厳密には、和田が入学したのは久留米にあった陸軍予備士官学校でした。

これは徴兵した兵の中から旧制中学以上の教育を受けた者を選抜し、
「甲種幹部候補生」として入校させ、
下級幹部指揮官に養成するための組織です。
戦争が始まって徴収された和田は帝大生であったことから
このシステムによって見習士官として原隊に復帰後、予備役少尉に任官して戦争に参加していたのだと思われます。
望むと望まないにかかわらず、日本の大学生は
皆が同じ道を辿り、指揮官としてアメリカとの戦争に投入されました。

和田は陸軍の輸送課に配属され、1945年には原田次中将が指揮する
フィリピン南部ミンダナオ島の日本軍第100歩兵師団にいました。
ここからは、和田自身が捕虜になった後、通訳を通して
アメリカ軍に対して語ったこととなります。

「戦争が進むにつれ、殺戮を嫌悪する気持ちが高まりました。
戦争の本質に強い幻滅を覚えるようになっていったのです。
私は日本と軍が声高に叫ぶ戦意高揚に対し冷淡でした。

戦争を目の当たりにすると、何よりも私は
日本列島と日本人に平和が戻ってくることを望みました。

戦争が(というのはつまりアメリカ軍の攻撃ということになるのですが)
フィリピンを過ぎ、硫黄島を過ぎ、沖縄を過ぎようとしている時、
私の中の反戦感情はますます高まりました。

ミンダナオ島では、目の前で行われている戦いと死が
ますます無意味なものに感じられるようになっていきました」


そして、1945年8月の最初の週、和田はアメリカ軍に捕らえられました。
投降したという説もありますが、今となっては真実はわかりません。
いずれにしても彼は生きて捕虜となったのでした。


日本軍捕虜和田稔中尉の調書書類作成をするL・F・マイバッハ中佐
(1945年8月7日、フィリピン・ミンダナオ島ダバオのリビー・フィールド)

日本人の捕虜は諜報将校に尋問されるのが常でした。
和田が捕まった後、海兵隊の情報将校は和田を徹底的に尋問しました。
尋問担当が珍しく同情的な人物だったせいか、和田は

「日本はこのような世界規模の紛争を起こすべきではなかった。
それは間違っている。戦争に幻滅し、戦争を終わらせたいと強く願っていた。
戦争を止め、日本国民に究極の平和をもたらすためなら、
自分の命を犠牲にしても何でもする」
「将軍や提督、昔ながらの軍隊が国民にこの戦争を強要した。
一般の日本人は戦争を望んでいない」

と語りました。

もちろん、アメリカ側も最初から和田を信用したわけではなく、
疑念を持つものもいましたが、最終的に彼は嘘をついていないようだ、
と尋問官は納得しました。
そして、おそらくこの日本人は使える、と思ったのでしょう。
言葉巧みにアメリカがアメリカがミンダナオ島で
戦争を1日も早く終わらせるのを手伝うように、
つまり情報を彼が自発的に渡すように仕向けて行きました。
もちろん彼は最初それを拒否しました。
しかし、米軍にとって和田のような「良心的日本人」は
願ってもない得難い人材でした。
末端の兵ではなく、地理に詳しい指揮官・下級将校であり、
その「良心」を利用すれば嘘の情報を教えられるなど、
造反のリスクもないに違いありません。
結局彼は米軍に協力することを承諾しました。
それは、ほんの数日前、トルーマン大統領が、原爆投下を決断したのと
不気味なほど似た思考プロセスを経てたどり着いた結論でした。
つまり、トルーマンが原爆投下を決断したのは日本への侵攻による損失の拡大を避けるためであり、
和田にとっては、アメリカ軍に協力して日本軍司令部施設を破壊することは、
長期にわたる無意味な戦闘による損失の拡大を防ぐという意味があります。

つまり、繰り返しになりますが、大局の目的のためには、
その過程で失われる人命の価値にはこの際目を瞑る、という論法は、
「トロッコ理論」と言われる究極の選択で、人数の少ない方に
トロッコの線を切り替えて多人数を救うというのに類似しています。

誰がどのように誘導したかはわかりませんが、このときのアメリカ軍情報部には、
よほど心理戦に長けた人物がいたのでしょう。彼は和田の良心をうまくくすぐり、おそらくおだてて、
拷問することなく捕虜の完全なコントロールに成功したのです。
 大日本帝国第35軍の第100歩兵師団は、
1944年初頭、ミンダナオ島で活動を開始していました。
戦闘経験の豊富な日本軍の精鋭部隊で構成されており、
アメリカ軍の侵攻を「何としても」撃退することを任務としていました。

そんな精鋭部隊の抵抗を打ち破る方法を探していた海兵隊にとって、
和田の情報は、非常に歓迎されるべきものでした。


第1海兵航空団の戦闘機・爆撃機のパイロットにブリーフィングを行う
米陸軍地上連絡将校モーティマー・H・ジョーダン氏(左)
日本軍捕虜の和田稔中尉(中央)
通訳のチャールズ・T・イマイ軍曹(1945年8月9日)

こうして和田中尉のアメリカ軍への協力が決まりましたが、
ミンダナオ島のキバウェ-タロモ・トレイル地域は
起伏に富んだ地形と密林に覆われており、
アメリカ軍が日本軍の司令部を発見するためには、
和田本人が米軍を率いてそこに連れて行くしかありませんでした。
このようにして、第二次世界大戦中に限らず、前代未聞となる
「敵将校に率いられて行う空襲」の舞台が用意されたのでした。


ブリーフィングで和田の指し示す地図の場所を英語に通訳して
爆撃隊のパイロットに説明しているイマイ軍曹
和田は英語が喋れないのでイマイがすべて通訳を行った

飛行前のブリーフィングで、和田は地図上の日本軍の位置を指摘し、
爆撃目標となりそうな場所を指摘しました。
そしてその後、シドニー・グロフ少佐が操縦する先頭のPBJに搭乗しました。

ミンダナオ島ダバオのリビーフィールドで、
日本人捕虜和田ミノルの名前をフライトマニフェストに追加する
米海兵隊のPBJミッチェルパイロット、シドニー・グロフ(右)

先頭機の無線兼銃手の席に座った和田は、空爆の様子を見続けました。
和田は英語がほとんど話せなかったので、チャールズ・イマイ軍曹が
指示を聞いてフライトクルーに伝える役割を担っていました。

イマイ軍曹が和田の指示を翻訳し、同じ爆撃機の機首に乗っている
空爆調整官のモーティマー・H・ジョーダン少佐に伝えます。イマイはさらにその情報を無線で爆撃機に伝えるという流れです。


米軍のPBJミッチェルの無線オペレーターの位置から
日本軍の第100歩兵師団の本部施設を見つけるために目印を探す
日本軍捕虜の和田中尉


自らが率いた爆撃機が日本の第100歩兵師団本部に
爆弾を投下しているのを見る和田稔中尉
さぞ複雑な心境であったことと思われる
(1945年8月9日、フィリピン・ミンダナオ島)

ジョーダン少佐によると、和田はいくつかの重要なターゲットを特定し、
そのターゲットへのナビゲーションも非常に正確でした。
和田の助けを借りて、海兵隊はナパーム弾、破片爆弾、
ロケット弾、重機関銃の射撃で目標地域を叩きました。

ジョーダンは攻撃後このように言っています。

「日本軍の将校が我々を目標地点まで連れて行ってくれたので、
あとは爆弾を思う存分落とすだけだった。
やりすぎたといってもいいくらいだった」
和田中尉が指定した場所に数トンの爆弾が投下された後、
戦災査定では第100師団の指揮能力が破壊されたと結論づけられました。
その結果、ミンダナオ島での戦闘は一夜にして終結したのでした。


アメリカ軍のPBJミッチェル爆撃機に乗って帰路につく和田
アメリカ軍に協力して行われた空襲について何を思う


任務終了後、和田は当然のことながら憂鬱そうに見えましたが、
自分の行動に後悔の念はないらしい、と周りは判断したそうです。

海兵隊の空襲を見ていた和田が、VMB-611の飛行技術について、"You clazy six er-reven Malines pletty good fryers. "
(日本人英語に多いLとRがごっちゃになった発音)とお世辞めいたことを言ったからだというのですが・・。
これを卑屈と思うのはわたしが日本人だからでしょうか。


■ なぜアメリカ軍に協力したのか
「戦争を早く終わらせたい」という建前はともかく、
なぜ彼は尋問官の協力要請に素直に応じたのでしょうか。

彼はアメリカで生まれた日系アメリカ人でありながら、
「キベイ」の慣習によって幼い頃日本に送られたようです。

日本での生活は、おそらくアメリカ生まれであることを隠さねばならず、
アイデンティティに苦悩しながら成長したのかもしれません。
学生、しかも東大の学生でありながら英語が全く話せなかったというのは、
日本人のインテリには今日でも全く珍しいことではありませんが、
彼がアメリカ生まれであることを考えると異様です。

これを彼の屈折した自我と結びつけるのは穿ち過ぎでしょうか。

これも想像ですが、自分が生を受けた国のことは、戦争が始まってからも
周りの日本人のように敵視することはできず、ましてや、
お国のために命を捧げるに足る愛国心などさらさら持たないまま学徒動員され、
入隊後は表面を取り繕って軍隊生活を送ってきたのではという気がします。

しかし、あの8月10日、任務を終えて帰ってきた和田中尉は、
海兵隊員の目には、自分のやったことにむしろ満足しているように見えた、
と報告されており、それは、彼の人生において、終戦に貢献するという
重要なことを成し遂げた達成感からだろうとアメリカ人たちは考えました。

1945年8月10日の作戦終了後、和田は「国を持たない人間」になりました。
報復から守るために過去を消し、新しい身分と姿を与えられたのでした。

それ以降、和田の消息は不明となりました。

この日の記録は35年以上も機密扱いとなっており、
現在でもアメリカ海兵隊の公式史料には掲載されていません。

フライング・レザーネック航空博物館シリーズ続く




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