Quantcast
Channel: ネイビーブルーに恋をして
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2815

ジョン・グレン少佐の弾丸機 F8U-1Pフォトクルセイダー〜フライングレザーネック航空博物館

$
0
0

フライング・レザーネック航空博物館の展示から、
朝鮮戦争以降、ベトナム戦争前の、いわゆる冷戦期に生まれた
航空機をご紹介します。
■  ヴォート F8U-1P (RF-8Z, G)クルセイダー  Crusader
ヴォート・クルセイダーについては、最初にアラメダ旧海軍基地の
USS「ホーネット」の甲板で見て以来、あちらこちらでお目にかかり、
その度ごとにお話ししてきています。
ここにあるクルセイダーは写真偵察隊の偵察機となります。
【 F8U-1Pクルセイダーの機体史】

F8U-1Pは、F8U-1戦闘機の非武装写真偵察バージョンです。
F8U-1PはF8U-1と異なり、前部胴体の下半分を四角くして、
3つの3次元地形カメラと、2つの垂直カメラを設置できるようにしてあります。


カメラ関係を搭載する関係で、内部の大砲、ロケットパック、
火器管制レーダーはすべて取り外されています。
ただし、防御のために、水平尾翼を縮小して速度を向上させています。
エンジンはF8U-1と同じ、プラットアンドホイットニーのJ57-P-4Aを搭載。
F8U-1Pの初号機は1956年12月17日に飛行しました。
【ジョン・グレン少佐の『弾丸プロジェクト』】

ジョン・ハーシェル・グレン少佐
1957年7月、カリフォルニアからニューヨークまで、
西海岸線から東海岸線までの速度記録を破る試みが計画されました。
海兵隊のジョン・H・グレン少佐(当時)が操縦するF8U-1Pが、
カメラを使ってルート上の地形を撮影しながらアメリカを横断するというもので、
この飛行は「プロジェクト・ブレット」と名付けられ、
AJ-2サベージの空中給油機が支援することになっていました。
わたしはエド・ハリス似のこの海兵隊パイロット、
後の宇宙飛行士、上院議員のライトなファンですので、
このときのプロジェクトについてもここでその経緯を書いておきます。

1950年代半ばから1960年代初めにかけて、航空・宇宙分野での
重要な成果は、大きなニュースとして扱われる傾向にありました。
1957年7月16日、ジョン・グレン上院議員(当時は海兵隊少佐)が
大陸横断航空速度の新記録を樹立し、国民的英雄となった時もそうでした。

この日、グレン少佐はF8U-1Pクルセイダー(BuNo.144608)で、
カリフォルニア州からニューヨーク州までノンストップで飛行し、
725.55mphの記録を達成しました。
飛行時間は3時間23分8.4秒で、それまでの記録保持者
(F-100Fスーパーセイバー)に15分の差をつけました。

1957年には、合計4人のパイロットが大陸横断航空速度記録を更新しており、
ジョン・グレン少佐もその一人となったのです。

しかし、グレン少佐の記録達成は、決して宣伝のためのものではありません。
「プロジェクト・ブレット・フライト」(弾丸飛行計画)は、
「プラット・アンド・ホイットニー社のJ-57エンジンが、
戦闘出力、つまりアフターバーナーをフルに使っても
ダメージを受けないことを証明すること」が目的でした。

飛行後、すぐさまプラット・アンド・ホイットニー社のエンジニアは
J-57を分解し、その検査結果に基づいて、
このエンジンは長時間の戦闘状態でも機能すると判断し、
その結果、J-57の出力制限はこの日から解除され、
実験はみごとな成果を得ることができたのでした。

宣伝や名声のためでなかったとはいえ、1957年7月16日、
グレン少佐は航空史にその名を刻むとともに、
米国の何千人もの若者にインスピレーションを与える存在となりました。

プロジェクト・ブレットにより、結果的にグレン少佐は
アメリカ最高のテストパイロットの一人としての名声を得たのです。
グレン少佐は5度目の殊勲十字章を授与され、その後まもなく、
NASAの第一期宇宙飛行士に選ばれたのは周知の通り。

つまり、この時の成功が、彼を宇宙飛行士にし、ひいては
上院議員としての地位を約束したということになります。
【失われたジョン・グレンのクルセイダー】

ジョン・グレンという人は航空史の中でも特別な存在で、
彼のような記録更新・樹立の機会に恵まれたパイロットは稀です。

しかし、そんなパイロットは、歴史に名を残すきっかけとなった航空機に
誰しも「特別な思い」を抱いていることは間違いないでしょう。
グレン少佐もおそらく。

ジョン・グレンが海兵隊飛行士として1957年の記録達成時に搭乗したあとの、
クルセイダーの歴史はこのようなものです。

グレン少佐の乗ったF8U-1Pクルセイダーは現役で使用するため
RF-8Gとして再指定されました。
そして、グレン少佐が建てた偉業を表す、小さな真鍮製の記念プレートが
機体の左舷に取り付けられたのです。
それから数年間、グレン(おそらく宇宙飛行士)のもとには、
この機体に乗った飛行士たちからのメモが届けられていました。
メモに書かれていたのは、おそらく、
「あなたが歴史的な飛行をしたクルセイダーに乗れて光栄です」
とか、そんな感じだったのでしょうか。

その後、ベトナム戦争が始まると、グレンはあのクルセイダーがベトナム上空で撃墜されたとか、また、インド洋での空母着艦の際に
損傷して横倒しになったなどという「噂」を耳にするようになりました。

ジョン・グレン少佐のクルセイダーに最後に搭乗したトム・スコット中佐は、
この歴史的な航空機の終焉について次のように語っています。
スコット中佐は、1972年、中尉として写真偵察隊に配備された頃、
空軍基地の航空機ボーンヤードからグレンのクルセイダーを入手し、
すぐに整備させて、現役復帰させ、
ここミラマー基地でこの機体を初飛行させたあと、
USS「オリスカニー」(CVA-34)に搭載させました。

USS「オリスカニー」がトンキン湾に到着し、作戦開始となったある日のこと。
スコット中尉は着艦を試みましたが、悪天候と荒れた海のために、
フライトデッキのアレスティングワイヤーに引っかけることができません。

飛行甲板が一定の周期で上下する中、スコットは2度目の着艦を試みました。
しかし、艦尾の上を通過したとき、艦のうねりが予想外に逆転し、
スコット機は飛行甲板の丸みを帯びた腹部に最初にぶつかり、
それから右メインランディングギアが引きちぎられました。

機体は跳ね上がって機首から落下し、再び空中に舞い上がると、
スコットは片手で操縦桿を握り、機体をコントロールしようとしました。

飛行タワーからの
「イジェクト!イジェクト!イジェクト!」
という声がヘルメットの中で鳴り響く中、
スコットはイジェクトハンドルを渾身の力で引きましたが、
最初はハンドルの抵抗に耐えられず、もう一度、力を込めてイジェクトを試み、
スコットはついにコックピットからの脱出に成功しました。

パラシュートが開き、スコット中尉の脳裏には
「運が良ければ甲板に着地できるかもしれない」
という考えが掠めましたが、同時に常識も働きました。

甲板に着地できなければ、他の甲板設備や飛行甲板上の
他のジェット機に衝突する可能性があることに。

スコット中尉はパラシュートを空母から遠ざけながら、
トンキン湾への着水に備えて浮力装置を膨らませました。
その後彼はコッチ(Koch)の金具から両手を離したため、
水中で顔を下にしてパラシュートに引っ張られた状態になってしまいました。

艦体に巻き込まれていくパラシュートから
必死でもがいて体を外すことができたスコットが上空を見ると、
艦の救助ヘリコプターが自分の救出にやってきていました。

ヘリはホバリングしてスコットの近くに救助隊員を降ろしました。
若くて泳ぎが得意そうな救難員はすぐにスコットのところにたどり着きましたが、
驚いたことに彼は浮き輪を持ってくるのを忘れていました。

後で聞いたら、彼が海上救助を行ったのはこの日が初めてで、
経験の浅さからすぐに疲労し、スコットにしがみついて浮いていました。
不幸なことですが、パイロット用のカポックでは
大人二人を水面に浮かせることはできません。

スコット中尉と救助者が、誰が誰を救助するか海上で話し合っている間、
ヘリコプターの乗員は乗員で、自分たちの問題に対面していました。

救難ヘリのパイロットと、ドアの前にいる
ホイスト・オペレーターとの間のインカムが機能しておらず、
パイロットは、操縦している機体をどうするのか、そもそも
要救助者がヘリに乗っているのかどうかさえわからない状態だったのです。

しかし、苦労の末に意思疎通してなんとか救助用ハーネスを降ろし、
スコットと救助員の上を何度か通り過ぎているうちに、
二人ともハーネスを掴んでヘリに吊り上げられたのでした。


スコットは、この歴史的な機体を失ったことを残念に思いましたが、
しかし、一方で機体と一緒に死なずに済んだことに感謝していました。

事故調査の結果、脱出時にイジェクションハンドルが引けなかったのは、
通常20ポンドの力で調整されているべきハンドルが、
「オリスカニー」の搭載したクルセイダーに限り、
100ポンドに誤って設定していたのではないかということがわかったのです。
ジョン・グレン少佐の記録を打ち立てたクルセイダーは失われましたが、
このインシデントが明らかになったことは
F-8に乗った他の飛行士にとっては幸運であり、
潜在的に何人かの命が救われたということもできるかもしれません。


【偵察型クルセイダーの活躍】
RF-8Aがその真価を発揮するのは、
1962年10月のキューバ・ミサイル危機の時でした。
フロリダを拠点とするVFP-62のRF-8Aは、
キューバ島に準備されていたソ連のミサイル基地の上空を繰り返し飛行し、
相手に対し、その存在を証明するとともに、
クルーの運用状況を監視することになっていました、

「ブルームーン」と名付けられたこの飛行作戦はは、10月23日に開始されました。
NASキーウェストから1日2回のフライトが行われ、
キューバ上空で低空高速ダッシュを行い、帰ってきます。

帰ってくるとすぐNASジャクソンビルに戻り、フィルムの現像を行います。
その後、セシル・フィールドに戻ってメンテナンスを行い、
キーウェストに戻って次のミッションに臨む、この繰り返しです。
VFP-62は、ブルームーンの厳しい飛行スケジュールをこなすための
十分なRF-8Aを持っていなかったため、
VMCJ-2を4機増強することを要求しました。

第2海兵隊航空団の司令官は、海軍に4機のRF-8Aを用意しましたが、
護衛に海兵隊員のパイロットをつけるようにと進言しています。

4機のVMCJ-2 RF-8Aは、キーウェストのVFP-62に合流する数日前に、
整備チームによって、画像の動きを補正する最新の
シカゴ・エアリアル製前方照射型パノラマカメラを新たに搭載しました。

キューバ・ミサイル危機で最も記憶に残る瞬間は、
10月25日に国連大使が、稼働中のミサイルサイト付近の低レベルの写真を
ソビエトや世界に向けてテレビで公開した時でしょう。

海兵隊パイロットのE.J.ラブ、ジョン・ハドソン、
ディック・コンウェイ、フレッド・キャロランの4人は、
海軍パイロットと同様に、その任務に対して殊勲十字章を授与されました。
【FLAMのクルセイダー】


F8U-1P BuNo.144617は、チャンス・ヴォート社が製造した
12機目のフォト・クルセイダーです。
1957年12月17日にテキサス州ダラスの工場で米海軍に受け入れられ、
ミラマー基地でVFP-61として引き渡されました。

1958年8月、VFP-61 DET Aと共にUSS「ミッドウェイ」  (CV-41)に搭載され、
クルセイダー最初の空母派遣に参加しました。
帰国後、工場に戻され、3ヶ月間のデポレベルのメンテナンスが行われました。

1959年10月、海兵隊に譲渡され、MCAS エル・トロのVMCJ-3となりました。
約1,100時間の飛行時間を経て、1965年11月、ダラスのヴォート社の工場に戻され、
「G」モデルに改造されました。
改造部分はエンジンで、その他、後期クルセイダーズの腹面フィンを装備し、
ナビゲーションや電子機器も改良されています。
さらに、ドロップタンク用の翼下ハードポイントや、
胴体の偵察ベイに取り付けられた4台のカメラを装備していました。

1966年4から4年半、海軍航空開発センターの
テストプロジェクト用追撃機として活躍し、
「ホークアイズ」での3年半の任期中には、
USS「ジョン・F・ケネディ」(CV-67)に配備されました。

1973年から、先ほどのグレン機と同じく、空軍で保管されていましたが、
やはり同じように、5年半後、倉庫から引き出され、
改修を行った後、USS「コンステレーション」 Constellation (CV-64)、
USS「コーラル・シー」 Coral Sea (CV-43)に搭載され、
忙しい2年間を過ごしました。
その後、ワシントン基地の倉庫に戻されていましたが、1986年1月10日、
オハイオ州コロンバスの研究・試験・開発・評価プログラムによって
保管場所から引き出され、カリフォルニア州エドワーズ基地で行われた
X-31強化戦闘機操縦プログラムの飛行段階で追撃機(アグレッサー)
として使用するために、貸し出されました。
このプログラムは1992年に終了しました。
ここにあるのが、最後のフォトクルセイダーとなります。
続く。




Viewing all articles
Browse latest Browse all 2815

Trending Articles