今のところ閉館していて再開の予定が立っていないらしい
フライング・レザーネック海兵隊航空博物館ですが、
かつては、来館者に海兵隊航空への理解と協力を求めるための
いろんなイベントを開催していたものです。
オープン・コクピット・デイとは、その日決められた航空機に
乗り込んで、コクピットに座ることができるという企画のことです。
2013年から2019年まで続けられてきたのは、
「パイロットとピクニック」Picnic With a Pilotという企画。
海兵隊のヴェテランパイロットを囲んで現役時代の
体験や自慢話などをうかがうチャンスです。
たとえば2019年8月24日にお話を伺ったというアコスタ中佐は、
TOPGUNを卒業し、FAー18のインストラクターパイロットで、
最終的には海軍長官事務補佐官まで行ったという人です。
同じ話をするとしても、こういうギャラリーなら
やっぱり、おじさんとしてはいつもより張り切ってしまう感じ?
「パイロットとピクニック」企画は、毎週土曜日に行われていたようですが、
今は博物館そのものが閉館しているので残念です。
さて、今日ご紹介するタイガーIIは、
オープン・コクピット・デイが最後に行われたらしく、
コクピットに上がるための台が、いまだに設置されています。
■ノースロップ F-5E タイガーII
Fー5EタイガーIIは、 軽量・多目的戦闘機という位置づけで、
1950年代後半にノースロップ社によって設計された
F-5超音速軽戦闘機ファミリーのひとつです。
タイガーIIと呼ばれるのはアップデート型のF-5のEとFで、
F-5のAとBは「フリーダムファイター」Freedom Fighterという、
タイガーとは何の関連性もない名前で呼ばれていました。
同時代の戦闘機にはマクドネル・ダグラス社のF-4ファントムIIがありましたが、
こちらと比べてFー5シリーズは小型でシンプルなため、
調達・運用コストが低く、輸出機として生産が行われました。
1970年、アメリカの同盟国に低コストの戦闘機を提供するための
国際戦闘機コンペティションで優勝したノースロップが、
1972年に導入したのが、第2世代のF-5EタイガーIIということになります。
もともとノースロップは、第二次世界大戦時代の護衛空母に乗せるため、
F-5を開発していたのに、海軍がそれらを引退させてしまったうえ、
アメリカ空軍は軽戦闘機というものを戦略上必要としなかったため、
製品の行き場を海外の販路に求めたという事情もありました。
その後タイガーIIを導入した国は、南ベトナム、タイ、イラン、エチオピア、
サウジアラビア、ヨルダン、大韓民国、リビア(王政時代)、モロッコで、
カナダはライセンス生産を行っていました。
冷戦中の1972年までに同盟国のために800機もの機体が生産されています。
【計画と生産】
1953年、NATO(北大西洋条約機構)は、通常兵器以外に核兵器も搭載でき、
さらに荒れた飛行場でも運用できる軽量の戦術戦闘機を必要としていました。
そこでノースロップ社のチームはヨーロッパとアジアを視察して、
各国のニーズについて調査を行ったのですが、その結果、
どこも高価なジェット機を数年ごとに買い換えることはできないと判断し、
10年以上の使用に耐える機体を目指すことにしました。
持ちがいいというよりは、長期間にわたって
アップデートできる技術が導入された機体です。
その結果、設計チームは、性能と低コストのメンテナンスを重視し、
コンパクトで高推力のゼネラル・エレクトリック社製J85エンジン2基を搭載した
小型で空力に優れた戦闘機を開発しました。
F-5Aは、主に日中の制空任務を目的として設計されていますが、
地上攻撃のプラットフォームとしても機能する機体として、
1960年代初頭に就役しました。
冷戦時代には、米国の同盟国のために1972年までに800機以上が生産されました。
アメリカ空軍は軽戦闘機を必要としていませんでしたが、
F-5AをベースにしたノースロップT-38タロン練習機を約1,200機調達しました。
このアップグレードでは、より強力なエンジン、より大きな燃料容量、
翼面積の拡大と前縁延長による旋回率の向上、オプションの空対空給油、
空対空レーダーを含むアビオニクスの改良などが行われました。
主にアメリカの同盟国で使用されていますが、
サポート任務を行うため、F-5N/F型はアメリカ海軍とアメリカ海兵隊で
アグレッサー訓練機として運用されています。
【プロジェクト・スパローホーク】
F-5からは偵察専用のRF-5タイガーアイ🐯👁が派生しました。
また、F-5は一連の設計研究の出発点ともなっています。
YF-17コブラやF/A-18といった海軍戦闘機は、
これが元になって誕生したといっても過言ではありません。
ちなみにコブラはFー16に負けて制式採用されませんでしたが、
実用化作業を施されてF/A-18になりました。
YF-17コブラ
F/Aー18ホーネット
ノースロップF-20タイガーシャークは、F-5Eの後継機として開発された
先進的な機体でしたが、最終的には輸出先が決まらず中止されました。
1964年、アメリカ空軍はプロジェクト・スパローホークを立ち上げました。
これは、軽攻撃機であるグラマンA-6A、ダグラスA-4、ノースロップF-5Aを
戦術的な任務環境で評価するというプロジェクトです。
テストの目的は、これらの航空機の近接航空支援能力を判断することでした。
結果から言うと、このプロジェクトでF-5Aフリーダムファイターが
有能な戦闘爆撃機であることが証明されたわけですが、国防長官は南ベトナム空軍にジェット機を供給することにあまり熱心ではなく、
しかも残念なことに、このときF-5Aは1機、模擬空戦中に失われました。
翌月に行われた評価テストはスコシタイガーと呼ばれるものです。
【スコシ・タイガープログラム Sukoshi Tiger Program】
ノースロップF-5A/Bフリーダムファイターは、当初、
軍事援助プログラムを受けている国と、
外国軍売却で航空機を購入する国に納入される予定でしたが、
ベトナムでの消耗が激しく、すぐに入手可能であったため、
空軍は東南アジアで使用するために200機の取得を要請しました。
同機は1965年までにすでに十数カ国の空軍で使用されて輸出に成功していました。
しかし、国防総省が同機の海外販売に熱心に取り組んでいるにもかかわらず、
米空軍はF-5を1機も発注していないと主張する声もありました。
そこでマクナマラ国防長官は、
「スコシ・タイガー」と名付けられたプロジェクトのもと、
東南アジアでF-5の運用評価を行うことを命じたのでした。
ある英語のサイトには、
「プロジェクト名は、日本語の「小虎」に由来している」
と大嘘が書かれていましたが、これは日本人なら誰も間違いだとわかりますね。
1965年、ウィリアムズ空軍基地に12機のF-5Cを搭載した部隊が編成されました。
この機体は、F-5Aにいくつかの改良を加えたもので、
飛行中の燃料補給機能、装甲板の追加、
アビオニクスや搭載兵器の変更などが行われました。
10月22日にウィリアムズを出発した飛行隊は、4日後に
ベトナムのビエンホアに到着し、同日中に最初の戦闘ミッションを行います。
戦闘評価は4ヶ月強の予定で、その後帰国することになっていました。
Sukoshiというのはご想像の通り「少し」で、(もちろん”小さい”ではない)
littleというところをわざわざ日本語にすることで、
「アジア」を強調したものと考えられます。
ベトナムに持っていくのになんで日本語なんだ?という気がしますが、
まあ、彼らにとって日本もベトナムもアジアだし、
みたいな大雑把な認識を持っていたことの現れかもしれません。
それにアメリカ航空隊というのは、第二次世界大戦中から
「サラ-マル」(空母サラトガのあだ名)とか「チョットマッテ号」
(アメリカ陸軍航空軍第98爆撃群第344爆撃隊に所属したB-29爆撃機)
とか、露悪的に日本語を使って喜ぶ悪い癖があったので、
この「スコシ」もその名残りだったのではないかという気がします。
スコシタイガーでの給油テスト中
この評価でF-5は、1966年1月1日からダナンに派遣され、
前線基地での活動や北ベトナムでの任務を経験することになっていました。
計画はいくつかの段階に分かれており、
第1段階ではビエンホアから遠くない目標を攻撃し、
第2段階では部隊をダナン飛行場に移動させて地元の目標を攻撃し、
第3段階ではビエンホア飛行場に戻って集中的な作戦を行うこと、
となっていました。
スコシ・タイガー評価は1966年3月9日に終了しました。
その期間飛行隊はビエンホアから2,093回、ダナンから571回の出撃、
合計3,116時間の戦闘飛行を行いました。
評価期間中に失われた機体は1機のみで、技術的な問題から16機が損傷し、
42回の出撃が中止されました。
しかし、 評価は成功したとみなされています。
折しもプロジェクト終了時に米国の戦力増強が承認されたばかりであったため、
F-5部隊はそのまま南ベトナムに留まることが決定され、
そのまま共和国空軍に引き渡されて、
ベトナム人飛行士と整備士の訓練が開始されました。
戦闘評価は33名のチームで行われ、性能、武器運搬精度、
整備性、信頼性、操縦性、生存性、脆弱性などが、
現地のF-4、F-100スーパーセイバー、F-104スターファイターとの
比較データとして提出されました。
その結果、F-5はフル装備で560発の20mm砲を2門、汎用爆弾を2個、
ナパームキャニスターを2個搭載した場合の平均航続距離は120海里と
他の戦闘機に比べ、航続距離が短く耐久性に欠ける、
という欠点が明らかになりました。
この不足を解消するために、給油機による支援が行われることになりました。
写真はそれを解消するための空中給油の様子です。
その他の細かい問題点はあっても、メンテナンスが非常に簡単で、
エンジンの交換もわずかな時間で済み、小型であるために
戦闘でのダメージも小さいうえ、搭載能力に優れ、
F-5はFACの地上攻撃機として人気を博し、最終的には
VNAF(ベトナム空軍)にも大量に供給されることになったのです。
そして1967年以降、同機はVNAFの最も強力な武器となったのでした。
【運用】
タイガーIIは、空爆と地上攻撃の両方の任務をこなすことができるため、
幅広い役割を果たしており、ベトナム戦争でも多く使用されました。
1987年に生産が終了するまで、タイガーIIは1,400機が生産されています。
F-5N/Fのバリエーションは、その後もアメリカ海軍とアメリカ海兵隊で
アグレッサーとして使用されており、
2014年時点でまだ約500機がバリバリに就役しています。
【FLAMのF-5EタイガーII】
ここに展示されているF-5EタイガーIIは、
ノースロップ社がカリフォルニア州ホーソーンで製造した輸出用戦闘機で、
当初は南ベトナムに納入される予定でしたが、
南ベトナムが崩壊したので輸出の話はなくなり、国内配備になりました。
シリアルナンバーは74-01564で、
1976年にT-38Aタロンからのアップグレードに伴い、
まず、ネリス空軍の第57戦闘機兵器航空団に送られました。
F-5Eは、ソ連のMiG-21とほぼ同じ大きさと性能を持っていたため、
アグレッサーとなって敵対的な戦術を教えたり、
米空軍飛行隊にDACT(Dissimilar Air Combat Training)として使われました。
第57飛行隊は最終的に第64アグレッサー飛行隊となり、
当機は部隊指揮官の飛行機として活躍しています。
その後、米海軍に移管され、ネバダ州ファロンにある
打撃戦闘機群127飛行隊(VFA-127)の「デザート・ボギーズ」に送られ、
海軍飛行隊にアドバーザリー訓練を提供しました。
そして1996年、VFA-127が解体されるまでそこに所属し、
その後VFC-13戦闘機隊の「セイント」に移されます。
聖人って・・。
「セイント」は、海軍戦闘機兵器学校(TOPGUN)がファロンに移転した際、
NASファロンでのアドバーザリー訓練の役割を担いました。
2007年、この機体はフロリダ州セントオーガスティンにある
ノースロップ社のメンテナンス施設に送られました。
海軍がスイス空軍のF-5Nを購入した際に、本機の退役が決定され、
海軍籍から外されました。
■スイスから「輸入」されるタイガーII
これはどういうことかと思って調べてみたのですが、
米海軍がスイス空軍から取得したF-5E 16機とF-5F 6機を改造し
取得して、仮想敵の高高度・高速の戦術戦闘機として運用したということです。
F-5はここでも書いたように長年その役割を担ってきましたが、
最新の安全システム、航空電子機器、共通の戦術的能力がなかったので、
最近スイス空軍から取得した16機のF-5Eと6機のF-5Fを改造し、
アップグレードをして運用しようということのようです。
2020年から、米軍はスイスから22機のF-5E/Fを取得し、
現在就航している43機を補完し、場合によっては置き換えていっています。
PMA-226のアドバーザリー部隊チームリーダーであるフォーサイス氏は、
「このパンデミック下、1970年代の機体に21世紀の技術を統合するのは
技術、スケジュール、管理にかなりの問題があったにも関わらず、
パートナー、艦隊、PMA-226チームとの建設的な協力が任務を成功に導いた」
と述べているそうです。
アップグレード改造を受けるF-5機は、
F-5N+/F+と命名される予定です。
空対地警告、悪天候対策、燃料レベル警告などの必要な計器類を追加することで、
パイロットや機体を失う潜在的なリスクを低減するのが目的で、
このアップグレードはまた、「友軍」の空対空訓練を改善するため、
戦術的な機能が追加されたものとなっています。
特筆すべきは、Tiger IIがアドバーザリーの役割に理想的で、
安価に運用でき、保守が簡単で複雑なシステムがないことです。
しかし、現在の状態では、現実的には
MiG-21「フィッシュベッド」(MiG -21のNATOコードネーム)
程度の「脅威の再現」しかできないことがわかっており、
今、信頼できる対抗手段を現実として導入するために近代化が切実に必要なのです。
続く。