サンディエゴの海兵隊航空博物館、フライングレザーネックには、
F-4ファントムが2機展示されています。
我が日本国航空自衛隊では、ついこの間まで
このファントムが老体に鞭打って現役で頑張っていたものです。
とはいえ、アップデートにアップデートを繰り返し、
最後の頃には外側以外最初のオリジナル部分はすでになく、
わたしなどこれを現代のテセウスの船呼ぶべきではないか、
とさえ思っていたわけですが、とはいえ、
アメリカでは博物館でしかお目にかかれないこの機体が、
日本では相変わらず元気に飛んでいて、しかも最後まで
なかなか優秀だったなどという話を耳にしてからは、
むしろその運用方法を誇りに思ったものです。
■ マクドネル・ダグラス F-4J (S)ファントムII Phantom
F-4ファントムIIは、マクドネル・エアクラフト社が
アメリカ海軍のために開発した、タンデム式二人乗り、双発の
全天候の長距離超音速ジェット迎撃/戦闘機です。
適応性が大変高く、1960年にアメリカ海軍に就役してからは、
海軍のみならずアメリカ海兵隊やアメリカ空軍にも採用されるようになり、
1960年代半ばにはそれぞれの航空隊の主力戦闘機という位置を獲得していました。
ファントムは1958年から1981年までの間に合計5,195機が製造されました。
アメリカの超音速軍用機としては史上最も多く生産された機体であり、
冷戦時代の象徴的な戦闘機としての地位を確立した名機です。
【誕生までの経緯】
1953年、マクドネル社はアメリカ海軍に「スーパーデーモン」の提案を行います。
それはたとえば任務に応じて1人用または2人用のノーズを取り付けることができる
というユニークなアイデアのものでした。
しかし海軍は超音速戦闘機はもう間に合っているという態度だったため、
マクドネルは、全天候型の戦闘爆撃機に計画を作り直しました。
ところが、1955年5月26日、マクドネル社にやってきた4人の海軍将校は、
計画書を見て1時間も経たないうちに全く新しい要求を提示してきたのでした。
海軍はすでに地上攻撃用のダグラスA-4スカイホーク、
空中戦用のF-8クルセイダーを保有しているし、ということで、同じ全天候型ならと
戦闘爆撃機でなく艦隊防衛用迎撃機を要求してきたのです。
スカンクワークスのケリー・ジョンソンが
自社のマネジメント法則の第15番目として社員に伝えていた、
"Starve before doing business with the damned Navy.
They don't know what the hell they want and will drive you up a wall
before they break either your heart or a more exposed part of your anatomy."
「忌まわしい海軍と商売をする前にどうしても知らなければならない。
彼らは自分たちが何を望んでいるのかもわからず、あなたを壁に追いつめるだろう。
あなたの心臓、またはあなたの解剖学的構造のより露出した部分を壊す前に」
という「文章に書かれていない対海軍の法則」について以前書きましたが、マクドネル・ダグラス社も、海軍相手の商売にはいろいろと苦労したようですね。
それはともかく、新型機は強力なレーダーを操作するために、
座席をパイロットとWTOの二人乗りとすることになりました。
設計者は、次の戦争での空戦では、パイロット一人に負わせるには
多すぎるほどの情報必要となるだろうと考えたのでした。
この決定あっての名作「ファントム無頼」の誕生だと思うと胸熱です(嘘)
デザイン面で特に際立っていたのは、特徴的なインテークです。
スプリットベーンという固定式の形状のインテークから空気を取り込みます。
ここには固定式ランプと可変式ランプがそれぞれ1つずつ装備され、
マッハ1.4〜2.2の間で最大限の圧力回復が得られるように角度が調整されています。
スプリットベーンの、各吸気口の表面から低速で移動する境界層の空気を
「排出」するために追加された12,500個の穴も特徴的な工夫でした。
穴だらけ
また、量産機には、境界層をエンジン吸気口から遠ざけるための
スプリッタープレートも装備されました。
また、主翼には特徴的な「ドッグトゥース(犬歯)」が付けられ、
高攻撃角でのコントロール性が向上しました。
これのことかしら
レーダーはAN/APQ-50を採用し、全天候型の迎撃能力を実現。
空母での運用に対応するため、着陸装置は
最大沈下速度7m/秒の着陸に耐えられるように設計されていました。
ネーミングにあたっては、「サタン」や「ミトラス」(Mitras、光明神)という案もありましたが、最終的には議論の余地のない
「ファントムII」という名称に落ち着きました。
ファントムIIは一時的にアメリカ空軍からのみ
F-110A「スペクター」と呼ばれていたこともあるそうですが、
これらは公式には使用されませんでした。
ファントムは、最高速度がマッハ2.2を超える大型戦闘機です。
空対空ミサイル、空対地ミサイル、各種爆弾など、9つの外部ハードポイントに
18,000ポンド(8,400kg)以上の武器を搭載することができます。
F-4は、当時の他の迎撃機と同様に、当初は内部に大砲を搭載しない設計でした。
後のモデルでは、M61バルカン・ロータリー・キャノンを搭載しています。
1959年以降、F-4は絶対速度記録、絶対高度記録を含む
15の飛行性能の世界記録を達成しています。
ちなみにそのファントムの記録と達成年は以下の通り。
1. Altitude - Top Flight98,557 ft 1959 2. 500 km closed course 1216.76 mph 1960 3. 100 km closed course 1,390.24 mph 1960 4. Los Angeles to New York - LANA2 hr 49 min 9.9 sec 1961 5. 3 km Sage-burner902,769 mph 1961 6. 15/25 km Sky burner1,606.324 mph 1961 7. Sustained Altitude 66,443.8 ft. 1961 8. Time-to-Climb - High Jump
3,000 m6,000 m9,000 m12,000 m15,000 m20,000 m25,000 m30,000 m 34.52 sec48.78 sec61.62 sec77.15 sec115.54 sec178.5 sec230.44 sec371.43 sec 19621962196219621962196219621962 New York to London - Royal Blue 34 hr 3 min 57 sec 1969
【運用】
F-4は、アメリカ軍ではベトナム戦争で広く使用されました。
空軍、海軍、海兵隊の主力制空戦闘機として活躍し、
戦争末期には地上攻撃や空中偵察の役割を担うようになりました。
前にも書いたことがありますが、ベトナム戦争では、
米空軍パイロット1名、兵器システム士官(WSO)2名、
米海軍パイロット1名、レーダー迎撃士官(RIO)1名が、
敵戦闘機に対して5回の空中戦勝利を達成し、エースとなっています。
もみあげのカットが時代を感じさせます
以前当ブログでご紹介したことがある、海軍エース、
デューク・カニンガムとウィリー・ドリスコール。
Randall “Duke” Cunningham (pilot) and William P. “Willy” Driscoll (WSO)
ファントムは二人乗りで、パイロットとWSOがチームとなるのですが、
操縦を行うのがパイロット、これに対し、
武器システム士官は火器管制、レーダーや武器などの操作を行う役目です。
ですから、ファントムの勝利の栄光は、共同作業の結果として
どちらにも同等に与えられることになります。
F-4は1970年〜1980年代にかけて米軍の航空戦力の主力として活躍しましたが、
時代が代わり、空軍のF-15イーグルやF-16ファイティングファルコン、
米海軍のF-14トムキャット、米海軍と米海兵隊のF/A-18ホーネットなど、
より近代的な航空機が登場すると徐々に置き代えられていきました。
ここにあるF-4Jは、F-4Bの改良型で、
空対空戦闘能力と地上攻撃能力の向上に重点が置かれていました。
その後1977年、F-4JはF-4Sに改良され、
スモークレス・エンジン、機体強化、機動性向上のため、
リーディングエッジ・スラットなどの改良が行われました。
なぜスモークレスエンジンに替えられたかというと、これはわかりやすい理由で
大量に排出される黒煙は敵に発見されやすかったからです。
展示されているF-4Jは、1969年1月10日にアメリカ海軍に納入され、
F-4Bの後継機としてNASミラマーを本拠地とする
戦闘機114飛行隊(VF-114)の「ツチノコ」に配属されました。
ツチノコってこんな生き物か?
もちろん英語では”Aadvarks"(アアドバーク)です。
そういえばこの名前、「ツチブタ」と訳したことがありますが、
確かそんな名前の航空機もありましたですね。
ツチノコ飛行隊は、USSキティホーク(CV63)に搭載されて
東南アジアに2回派遣され、ベトナムでの戦闘に参加しています。
その後同じくミラマーにあったVF-213「ブラック・ライオンズ」と
VF-121「ペースメーカー」のツアーを経て、
MCASユマの海兵隊戦闘機攻撃訓練飛行隊101(VMFAT-101)に配属され、
その後は艦隊海兵隊の乗組員の訓練に使用されました。
1980年にはハワイのカネオヘベイ基地に移され、
海兵隊戦闘攻撃飛行隊235(VMFA-235)「デス・エンジェル」や
VMFA-212の「ランサー」と一緒に活動しました。
その後、ノースアイランド、ハワイのVMFA-232「レッド・デビル」、そして最終的にはVMFA-235に所属しました。
1986年、17年の歳月と4,680時間の飛行時間を経て退役し、
博物館ではMCAS エルトロでファントムに乗っていた予備軍、
VMFA-134「スモーク」のマーキングが復元されています。
■ マクドネル・ダグラス RF-4BファントムII
Rとついているのですぐにお分かりのように、
ここには偵察バージョンのファントムIIもあります。
マクドネル・ダグラス社のRF-4Bは、汎用性の高い
F-4ファントムIIの写真偵察バージョンです。
1965年3月12日に初飛行し、1965年5月にはMCASエルトロを拠点とする
第3海兵隊複合ユーティリティー飛行隊(VMCJ-3)に最初の納入が行われました。
RF-4Bは、海兵隊複合飛行隊VMCJ-1とVMCJ-2にも搭載され、
1966年にはベトナムのダナンでVMCJ-1に装備されて戦闘に参加しました。
マクドネル・エアクラフト社が生産した46機のRF-4Bはすべて海兵隊に提供され、
1970年12月24日には最後のRF-4Bが納入されています。
(きっと”クリスマスプレゼント!”と洒落たのではないかと思われ)
このRF-4Bの最後の12機は、RF-4Cのフレームに大きなタイヤとホイールウェル、
強化された主翼を取り付けて製造されました。
RF-4Bはより長い機首に前方および側方斜視カメラを収納し、
夜間撮影用のフォトフラッシュカートリッジを搭載していました。
画期的だったのは、飛行中にフィルムを現像したり、
低空でフィルムカセットを排出したりすることで、
地上の指揮官が空中情報をいち早く入手できるようになったことです。
また、大型のAN/APQ-72レーダーは、はるかに小型の
AN/APQ-99前向きJバンドモノパルスレーダーに置き換えられました。
地形回避や地形追従に最適化され、マッピングにも使えます。
当初、現役の海兵隊航空団(MAW)には、
写真偵察機と電子対策機を別々に供給する運用中隊がありました。
1975年、海兵隊の写真偵察任務は第3海兵航空団のVMCJ-3が担当することになり、
この飛行隊はすぐに第3海兵写真偵察飛行隊(VMFP-3)と改称されます。
この飛行隊はその後、海軍と海兵隊の両方のユーザーに分遣隊を送りました。
海兵隊で使用された最後のRF-4Bは、「砂漠の嵐」前の1990年に退役しました。
【FLAMのRF-4BファントムII】
展示されているRF-4BファントムIIは、1965年10月15日に最初に受領され、
MCAS エルトロのVMCJ-3に引き渡され、そこでその生涯を過ごしました。
1981年には、チェリーポイント基地、岩国基地、そして
空母ミッドウェイ(CV-41)にも派遣されています。
(ということはずっと横須賀にもいたということですね)
1990年4月25日に5,364時間で退役し、博物館に寄贈されたこの機体は、
MCAS エルトロを拠点とする海兵隊写真偵察部隊3Marine Photo Reconnaissance Squadron Three, (VMFP-3)
ニックネーム「Eyes of the Corps」の塗装がされています。
続く。