米ソの宇宙開発では、多くの組織で何十万人もの人が働いていました。
どちらの側にも多くの優秀なエンジニア、有能な管理者、
そして「ドリーマー(夢見る人)」がおそらくはたくさんいましたが、
二カ国のそれぞれの頂点に立って、重要な技術的、
管理的役割を果たした二人の人物のキャリアには、
この両大国における違いのいくつかが物語られていると言えます。
アメリカ側に君臨したのは、チーフデザイナーとして実力もあり世評が高く、
アメリカの一般社会で大変よく知られた人物でありましたが、
方や、秘密主義のベールで覆われたソ連側の人物については、
その情報の多くが彼の死後まで公にされることはありませんでした。
今日は、「宇宙開発競争のライバル(Competitors)」というタイトルで
フォン・ブラウンとセルゲイ・コロリョフについてお話しします。
■ ヴェルナー・フォン・ブラウン
「ミサイル・マン・フォン・ブラウン」
などとタイムの表紙で呼ばわれております。
サー・エルトン・ジョンかな?・・あれはロケット・マンか。
陸海軍が別々に宇宙開発(というかミサイル開発ですね)を行なっていたため、
要するにこんなことだからソ連にスプートニクられたんと違うんかい、
と考え、反省したアメリカは、三軍の垣根を取り払った宇宙開発組織、
NASAを立ち上げたわけですが、その創立直後、
ドイツ出身の科学者ヴェルナー・フォン・ブラウン率いる
陸軍の弾道ミサイル研究所は、民間の宇宙開発組織になり、
そして1960年にはNASAの一部として、アラバマ州のハンツビルにある
マーシャル宇宙航空センターの中核をなすことになりました。
1970年まで、フォン・ブラウンはマーシャルセンターの初代所長として
アメリカの月ロケットである巨大なサターンVを含む、
ロケットとロケットエンジンの開発を担当しました。
フォン・ブラウンは宇宙探査開発研究の熱心な支持者でした。
1950年代、それは世界中の人の関心が宇宙に向けられつつあった頃ですが、
彼はこの頃将来必ず訪れるであろう宇宙時代を描いた一連の雑誌記事、
そしてテレビ番組に出演し、その存在は有名になります。
Disneyland 1955 - Man in Space - Wernher von Braun
途中からフォン・ブラウン(英語ではフォンではなく”ヴォン”と発音する)博士の
解説が始まりますが、さすがドイツ人、英語がわかりやすい(笑)
英語の字幕をつけるとさらにわかりやすくなりますのでお試しください。
【初期の人生】
ヴェルナー・フォン・ブラウンは1912年3月23日、
当時のドイツ帝国の小さな町ヴィルジッツで生まれました。
政治家だった父も、母も中世ヨーロッパの王族を祖先とする貴族で、
父の名前には「フライヘア」という称号がついています。
彼のバイオグラフィを見ていて、当ブログ的に大いに驚き興味深かったのは、
フォン・ブラウンはチェロとピアノを習い、作曲家志望で
パウル・ヒンデミットから直接レッスンを受けていた
という事実でした。
「ヒンデミット:シェーンベルクらの無調音楽に対しては、自然倍音の正当性を守る立場から否定的で
教育も一風変わっておりヴィルヘルム・マーラー式和音記号を採用せず、
数字付き低音の正当性を主張したドイツ人作曲家」
の薫陶を受けたフォン・ブラウンの現存する曲の作風は、
どうしてもヒンデミットに似ているんだそうです。
うーむ、聴いてみたいぞこれは。
探してみたら物好きな人が彼の曲をCDにしているのが見つかりましたが、
再生できないようになっていました。
代わりに?ミュージックコメディアンが歌う
「ヴェルナー・フォン・ブラウンの歌」が見つかりました。
Tom Lehrer - Wernher von Braun
忠誠心が便宜によって支配されている男
偽善者というよりむしろ政治的だと呼んでくれ
だそうです。(適当)
学校時代決して数学の天才とかではなかったようですが、
宇宙に興味を持ち出した彼は物理学と数学に専念し、
ロケット工学への関心を追求し始めました。
そのきっかけは、少年時代に読んだSF作家の作品だったようです。
好きが高じて微積分と三角法をマスターし、
早いうちからロケットの物理学を理解していたとか。
ベルリン工科大学で機械工学を学んだ彼は、留学して物理学で博士号を取得し、
さらに大型で高性能のロケットを作るという夢を膨らませていきました。
ある日、高高度気球飛行のパイオニアであるオーギュスト・ピカールが
講演を行ったとき、若い学生だったフォン・ブラウンが近づき、
「あの、僕いつか月に行こうと思ってるんですよねー」
と言ったそうです。
ピカールは、お、おう・・・となりましたが、とりあえず
この無謀な夢想家らしい若者を励ましたということです。
そんな彼が選んだ就職先とはドイツ軍。
そこで液体燃料ロケットの開発に携わることになったのでした。
陸軍での研究をもとに、フォン・ブラウンは物理学の博士号を取得しました。
【V2ロケット開発】
どうしてこうなった。
V -2の研究施設があったペーネミューデで、
ナチスの偉い人たちに囲まれるフォン・ブラウン。
ここで何度となく話していますが、大陸間弾道ミサイルや
宇宙ロケットの前身であるV2弾道ミサイルは、
フォン・ブラウンのロケットチームが中心になって開発したものです。
ここでちょっと面白い?話を一つ。
ベルサイユ条約で武器開発に制限が設けられたドイツですが、
この時禁じられた兵器開発のリストにロケット工学が含まれていなかったのです。
フォン・ブラウン自身、この「不思議な見落とし」のおかげで
ロケット科学者としてのキャリアを積むことができた、と感謝していたという。
まあ、それを取り決める担当者が時代を読めなかったってことですね。
V-2は、弾頭を200マイル離れた目標に打ち込むことができるミサイルです。
Vは「報復」を意味する「Vergeltungswaffeヴェルゲルトングスヴァッフェ」
の頭文字で、宣伝省のヨーゼフ・ゲッベルス閣下直々の命名だったとか。
目標はとりあえずイギリスとベルギーで、100機製造されましたが、
誘導システムの精度が低く、確たる戦果を上げることはできなかったようです。
この時期フォン・ブラウンはゲシュタポに逮捕されていますが、
その理由は、彼がヒトラーのことを
「チャップリンの口髭をつけた尊大な愚か者」
「全く良心のない、自分を唯一の神と考える無神論者」
「もうひとりのナポレオン」
と断じていたのがバレたから・・・・では、勿論ありません。
フォン・ブラウンは後年、こういった「ナチス・ディス」を盛んに行い、
ヒムラーにSSに誘われて入ったが、制服を着て写真に写ったのは一度きりで
言うたらコスプレみたいなもの、階級も便宜上と言い訳をしたそうですが、
実際は公式の会合には毎回制服で出席していたし、
少尉任官後、きっちり少佐にまで昇進もしていますし、
V-2ロケットの収容所囚人労働のことも、
「いかなる死や殴打も個人的に目撃したことはない」
と断言していながら、囚人への残虐行為を黙認どころか、
なんなら囚人に鞭打ちをさせていたこともある、などと証言されており、
後からなかなかツッコミどころ満載な話がボロボロ出てきているんだとか。
まあしかし、保身上の理由から彼がナチス時代そのものを否定したとしても
アメリカ人にフォン・ブラウンの嘘?を責める資格はないと思います。
ナチスとの関わりを全て知った上で、技術と頭脳欲しさに
西側に引っ張ってきたのは、他ならぬアメリカだったのですから。
上のYouTubeのコメントにもこんな皮肉がありますよ。
"Are you a Nazi?"
"Yes"
"Were you part of the leadership that sent millions of innocent men,
women and children to their deaths?"
"Yes"
"Do you know anything about rockets?"
"Yes"
"Well that's alright then; welcome to America!"
さて、フォン・ブラウンが逮捕された話に戻ります。
V2計画を含むすべてのドイツの軍備計画を支配しようと企てたヒムラーが、
技術の問題解決協力を餌にフォン・ブラウンを抱き込もうとしたところ、
彼はV2の問題は技術的なものなのでそれには及ばない、と断りました。
その後彼はSDの監視下に置かれていましたが、ある日の同僚との会話で、
武器開発でなく宇宙船の開発がしたい、などと言っていたこと、さらに
戦争がうまくいっていない、と「敗北主義」的態度を取ったことを、
SSのスパイであった若い女性歯科医に報告されてしまうのです。
それから共産主義者のシンパっぽいとか、政府支給の飛行機を定期的に操縦し、
いつでもイギリスに逃げる準備をしていると疑われ、ゲシュタポに逮捕されました。
彼はなぜ自分が勾留されたのか全く知らされないまま独房で2週間過ごしましたが、
当時の軍需・戦争生産省大臣だったアルベルト・シュペーアが
彼が研究に不可欠であることをヒトラーに認めさせ、放免となりました。
ちなみに彼のSSでのキャリアは次の通り。
SS 番号: 185,068ナチス党員番号: 5,738,692階級SS-Anwärter: 1933 (候補生、SS騎馬隊?)SS-Mann: 1934 (上等兵)SS-Untersturmführer: 1940 (中尉 Second Lieutenant)SS-Obersturmführer: 1941 (大尉 First Lieutenant)SS-Hauptsturmführer: 1942 (大佐 Captain)SS-Sturmbannführer: 1943 (少佐 Major)
【アメリカでのキャリア】
1944年末には、ドイツが破壊され占領されることは明白となり、
フォン・ブラウンは戦後の計画を立て始めました。
連合国がV-2ロケット施設を占領する前に、フォン・ブラウンは南下し、
そこで他の主要なチームリーダーとともにアメリカに降伏したのでした。
ペーパークリップ計画と呼ばれる軍事作戦の一環として、
彼と125人の初期グループがアメリカに送られたという話もしましたね。
彼らがアメリカで当初どういう待遇を受けたかについてはあまり語られませんが、
とにかくアメリカの料理の不味さ?には参ったようです。
物資不足のドイツでしたが、ペーネミュンデでは特別扱いだったため、
そんな彼らにとってアメリカの「ゴム引きの鶏」は耐え難いものでした。
しかも引っ張ってきておいて、アメリカではフォン・ブラウンは
工学部を卒業したというだけの26歳の陸軍少佐の下で、
「ウェルナー」呼ばわりされて研究など何もさせてもらえない始末。
その後、ドイツからV2実物が送られてきて、ようやく彼の出番となります。
この時も、彼らは一種の軟禁状態で、軍の護衛なしに
実験場敷地を出ることができなかったため、彼らは自分達のことを
「PoPs=Prisnors of Peace(平和下の捕虜)」
と自嘲していました。
そのうちアメリカをスプートニクショックが見舞うと、
ようやくアメリカは、「ペーパークリップ作戦」なんてのを発動して
苦労してかき集めてきたはずのドイツからの頭脳を、
持ち腐れさせていたことに気づくのです。
1960年、陸軍のレッドストーン工廠にあったロケット開発センターが
フォン・ブラウンごと新設のアメリカ航空宇宙局(NASA)に移管されました。
NASA創設は、つまりフォン・ブラウンをはじめとするドイツ人の
「再利用」を意味し、その主な目的は、巨大なサターンロケットの開発でした。
NASAのマーシャル宇宙飛行センターの所長となったフォン・ブラウンは、
人類を月に送り込むサターンVロケットの設計責任者となるのです。
その後のマーシャル宇宙飛行センターでは、初の宇宙飛行士アラン・シェパードを
軌道下飛行させるためのロケット、レッドストーン・マーキュリーの開発を行い、
シェパードの飛行が成功するや否や、ジョン・F・ケネディ大統領は、
「10年後までに人類を月へ送る」という目標をぶち上げました。
そして、1969年7月20日、人類初の月面着陸成功により、
アポロ11号は、ケネディ大統領のミッションと
ヴェルナー・フォン・ブラウン博士の生涯の夢の両方を達成したのです。
■セルゲイ・コロリョフ
Sergey Pavlovich Korolyov (Сергей Павлович Королёв)
1930年代、ロシアのエンジニア兼飛行士であったセルゲイ・コロリョフは、
モスクワを拠点とする愛好家のグループであるGIRDを率い、
ソビエト連邦初の液体推進剤ロケットを製造してテストしました。
第二次世界大戦後、コロリョフはソ連のミサイル開発設計局のトップに任命され、
1975年までに彼はそこでR-7を建造して打ち上げました。
それは、スプートニク号を地球軌道に乗せ、
ルナ宇宙船を月に向けて推進させるために使用された、
史上初の運用可能な大陸間弾道ミサイルでした。
コロリョフの残した偉大な功績は、ボストークとソユーズの有人宇宙船、
さまざまな弾道ミサイルとロケット、ゼニット(Zenit)偵察衛星、
モルニヤ(Molniya)通信衛星、有人月面宇宙船などです。
コロリョフが指揮した設計局は、その後進化し、
エネルギア・ロケット&スペースコーポレーション、(RSC Energia)
として、現在も活動しています。
【初期の人生】
10代の頃。あらイケメン
ロシア軍人の父と裕福な商人の娘である母の元に1907年生まれたコロリョフは、
幼い頃は両親が離婚するなど、なかなか複雑な環境で育ったせいか、
頑固で粘着質、口が達者で友達が少なく、いわゆる陰キャのぼっちだったそうです。
勉強ができ、教師からは好かれたので、同級生から嫉妬されたという説もあります。
建築職業学校で大工の職業訓練を受けていた頃、航空ショーを見て、
航空工学に興味を持つようになったコロリョフは、勉強の傍ら、
気晴らしに独学でグライダーの設計を始め、自分でも乗っていました。
1924年にキエフ工科大学航空分校に入学したころ、彼は
グライダーで墜落し、肋骨を折る大怪我をしています。
ちなみに指導教官はあのアンドレイ・ツポレフだったということです。
【初期のキャリア】
卒業後は実験課航空機設計局 OPO-4 でソ連の優秀な設計者と共に働き、
1930年、ツポレフTB-3重爆撃機の主任技師として働きながら、
液体燃料ロケットエンジンの可能性に興味を持つようになります。
パイロット免許を取得したコロリョフは、自分の操縦する飛行機の
高度限界の先には何があるのか、どうすればそこに到達できるのか、
その限界を探っていたのです。
これが彼の宇宙への興味の始まりであったと考えられています。
1931年。
コロリョフはソビエト連邦で最も早く国営ロケット開発センターとなった
反応運動研究グループ (GIRD) の設立に参画し、
そこで3種類の推進システムを開発し、それぞれ成功を収めました。
1933年にソ連で初めて液体燃料ロケットGIRD-Xを打ち上げます。
コロリョフはその後 ジェット戦闘機、巡航ミサイル、そして
乗員付きロケットエンジン搭載のグライダーの開発を指揮しました。
ちなみにコロリョフの奥さんも科学者で、最初の彼のプロポーズを
勉強に多忙という理由で断ったそうですが、コロリョフは
その後めげずにトライして結婚に漕ぎ着けています。
ちなみにこの奥さん、子供ができた後も、夫とは全く別に研究者として
バリバリキャリアを積んでいたそうです。
コロリョフも優秀なエンジニアリングのプロジェクト・マネージャーでした。
部下に対する要求は高く、勤勉で、規律正しい管理スタイルを持ち、
最初から最後まで自分の責任で作業を監視し、細部にまで細心の注意を払う。
実にカリスマ性のあるリーダーとして各方面からの信頼を集めていました。
しかし・・・・。
【逮捕・収監】
なんと、戦後の米ソ宇宙技術者のトップは、かつてどちらも
祖国の手で逮捕される経験をしていました。
コロリョフの逮捕は、ソ連を席巻した「大粛清」によるものです。
コロリョフは研究所の仕事を故意に遅らせたという疑いで逮捕され、
拷問を受け、裁判にかけられて死刑の判決を受けました。
しかしこれは表向きの嫌疑で、逮捕された本当の理由は、
ロケット研究所の専門家同士の技術的な齟齬からくるものでした。
どういうことかというと、当時国内で
多連装ロケットを推していた専門家筋が計画した
弾道ミサイル派に対する粛清と言われているのです。
この説が本当なら、中世の魔女裁判のように、大粛清というパージを利用して
自分の対立するグループを消そうとする計略にかかったということですね。
何人かの同僚が処刑された後、コロリョフはシベリア極東の収容所にやられ、
金鉱で労働をさせられる身分になりました。
収監中は心臓発作を起こし怪我を負い、壊血病で歯の大部分を失う、
という壮絶な目に遭いながらも、労働収容所にあった
昔の恩師であるツポレフの技術施設で働き、なんとか生き延びます。
彼に対する「容疑」が最終的に晴れたのは1957年のことです。
これはとってもおそロシア。
その後の人生で、コロリョフは収容所での体験をほとんど語りませんでした。
自分が知る軍事機密のために処刑される恐怖に晒され続ける日々。
長かった収容所での生活は、彼を極端に控えめで慎重な性格に変えました。
後にコロリョフは、自分を告発したのが設計局の局長だったことを知ります。
それを知ったとき、彼はその局長の下の副設計長として
一緒にロケットの設計を行なっていたのだそうですが、
コロリョフがそれを知ってどうしたかはわかっていません。
【弾道ミサイル】
左:コロリョフ
戦争が終わると、コロリョフはドイツのV-2ロケットの技術回収のため、
他の多くの専門家とともにドイツに連行されています。
ソ連とアメリカとの間に「ドイツの技術争奪戦」が起こったわけですが、
ソ連は2000人以上のドイツの科学者と技術者を確保しました。
スターリンはロケットとミサイルの開発を国家の優先事項とし、
コロリョフは特別設計局の長距離ミサイルの主任設計者に任命されました。
彼らはV-2ロケットを分解して作った設計図をもとにレプリカを製作し、
R-1ロケットとしてとテストを行いましたが、このテストでは
11発のうち5発しか目標に命中せず、V-2の信頼性の低さが証明されました。
ちなみにコロリョフ自身は、ドイツ人専門家と仕事をすることを拒否し、
実際に会うことさえしようとしなかったそうです。
2年後、コロリョフのチームはR-2をV-2の射程の2倍にし、
独立した弾頭を利用して、計算上イギリスを射程に入れることに成功します。
その後、世界初の本格的な
大陸間弾道ミサイル(ICBM)セミョールカ
(Семёрка, Semyorka)-7
を開発しました。
【宇宙開発】
コロリョフは、ICBMとして設計されているロケットの軌道上に
R-7で人工衛星を宇宙に上げる提案をしましたが、共産党に却下されます。
宇宙開発?なにそれ美味しいの?
そんなことよりアメリカにミサイルぶち込む方が先だろうが!みたいな?
そこでコロリョフらは、一計を案じました。
まず、ソ連の新聞に宇宙計画について派手に書かせ、餌を撒き、
それにアメリカの新聞が食いつけばアメリカ当局は興味を示すはず。
目論見通り、アメリカがソ連に触発されて衛星を上げることを思いつき、
予算獲得のために議会で騒ぎだしたのを確認すると、
コロリョフらはおもむろに共産党にこう提案します。
「アメリカより先に衛星を打ち上げることが国際的な威信につながる」
そしてまんまとプロジェクトを承認させることに成功しました。
策士やのう。
ところで、どうしてこの頃の宇宙開発戦争でソ連が圧勝だったかですが、
こんな説もあります。
アメリカは、当初、宇宙事業技術者の血筋にこだわって、
「100%アメリカ人」であることを優先し、
最も「近道」であるはずのフォン・ブラウンを
意図的に設計の根幹から遠ざけ、宇宙飛行学の講義をさせたり、
ウォルト・ディズニーと遊ばせたりしていたので、
ロケット設計作業をスピード優先でやってのけたコロリョフに勝てなかった。
わたしはかなりこれは正しいと思います。
現に、フォン・ブラウンらが関わるようになってから、アメリカはじわじわと
ソ連に追いつき、最後についに月面着陸で追い抜いたのですから。
さて、コロリョフがスピード優先で自ら慌ただしく組み立てを管理し、
わずか1ヶ月で完成したビーチボールほどの大きさの金属の球体、
スプートニク1号は、無事に完成し、1957年10月4日、
史上初めての衛星として宇宙へ飛び立ちました。
この快挙に対する国際的な反応はかつてないほど衝撃的であり、
政治的な影響は数十年にわたり続いたとされています。
コロリョフは実用宇宙工学の父と称されています。
この後、スプートニク2号による犬のライカの打ち上げ、続くスプートニクとボストーク計画の初期の成功を監督し、
1961年、ガガーリンの人類初の地球周回ミッションを成功させました。
しかしコロリョフの人生の最後は壮絶なものでした。
コロリョフはシベリアでの収容所生活の間に体(特に腎臓)を悪くしており、
これ以上仕事をしたら死ぬと医師からも忠告されていましたが、
休むことなく無理をし続けました、
その理由は、彼はフルシチョフが真に宇宙開発の意義を理解しておらず、
大掛かりな宣伝としか考えていないことを知り尽くしており、
もしソ連がアメリカに主導権を奪われ始めたら、
宇宙開発を完全に中止するだろうと恐れていたからと言われています。
腸の出血で入院、心臓の不整脈、胆嚢の炎症と彼の体はボロボロでした。
さらに重なる仕事のプレッシャーから疲労が蓄積し、また、
大音量のロケットエンジン実験に何度も立ち合い難聴にもなっていました。
コロリョフは突然死去しましたが、死因は明らかにされませんでした。
大腸の出血性ポリープの切除手術中出血し、挿管を行おうとするも、
収容所時代に痛めた顎のせいで呼吸チューブの取り付けに支障をきたし、
このせいで亡くなった、と推測されているそうです。
合掌。
しかも、スターリンの政策により、コロリョフの存在は世間から隠され、
ソ連国民は彼の功績を死後まで知ることはありませんでした。
■手品師の杖
コロリョフとヴェルナー・フォン・ブラウンは、
宇宙開発競争の立役者としてしばしば比較されます。
フォン・ブラウンもそうでしたが、コロリョフはソ連国内において
月への飛行計画を持つライバルと絶えず競争しなければなりませんでした。
しかもアメリカに渡ったフォン・ブラウンとは異なり、彼はまた、
特に電子機器やコンピュータなどの多くの面でアメリカに立ち遅れた技術で
仕事をしなければならず、また極度の政治的圧力に耐え続けていました。
コロリョフ死後の後任は、彼の右腕として活躍した優秀なエンジニア、
ヴァシリー・ミーシンVasily Pavlovich Mishin
(Russian: Васи́лий Па́влович Ми́шин) (1917 – 2001)でした。
設計責任者ととして欠陥だらけのN1ロケット計画を受け継ぎますが、1972年、打ち上げに失敗して解雇され、
ライバルのグルーシコに任務を譲り渡すことになります。
しかもその頃、アメリカがすでに月へ到達するという目的を達したため、
白けた?ブレジネフ書記長によって宇宙計画は中止されてしまいました。
政治のトップは変わっていましたが、アメリカが先を越したら
ソ連は宇宙開発に興味を失うだろうというコロリョフの予言は当たりました。
スミソニアンには、二人の名前とそれぞれの計算尺が展示されています。
まず、上のがフォン・ブラウンのもので、下のがコロリョフの
「スライド・ルール」であると説明されています。
フォン・ブラウンのは勿論ですが、コロリョフのものもドイツ製です。
コロリョフを知る人たちは、この計算尺のことを
「The Magician's Wand」(手品師の杖)
と呼んでいました。
フォン・ブラウンは、共にV2を開発したドイツのロケット工学者、
ヘルマン・オベルト(Herumann Oberth)から大きな影響を受けています。
実験中の爆発で右目を失ったというこの科学者について、彼は、
「ヘルマン・オベルトは、宇宙船の可能性について考えるとき、
スライド・ルーラー(計算尺)を手に取り、数学的に分析した
コンセプトとデザインを提示した最初の人でした。
私自身、彼のおかげで人生の道標ができただけでなく、
ロケット工学や宇宙旅行の理論と実践に初めて触れることができたのです。
科学と技術の歴史において、宇宙工学の分野における
彼の画期的な貢献に対して名誉ある地位が確保されるべきです」
と語っています。
続く。