スミソニアン航空宇宙博物館のメインコーナーでは、
アメリカと、アメリカが追い求めたソ連の宇宙科学技術を表す展示が
実にわかりやすいパネルにされております。
ただの写真解説ではなく、何と言ってもスミソニアンですから、
普通にロケット本体とか、宇宙服をその目で見ることができるのです。
例えば、この冒頭の写真、これは、
ユーリ・アレクセイビッチ・ガガーリン少佐
Yuri Alekseyevich Gagarin / Юрий Гагарин
のトレーニングスーツです。
スーツは密閉された空間で呼吸を可能にする圧力層を可能にするもので、
この下には防寒着を着用していました。
このスーツの目的は、宇宙飛行の最後を締めくくる
高高度パラシュート降下で生存するためでした。
スペーススーツヘッド部分。
素材は金属のようですが、さぞ着用したら重かったでしょう。
ブーツは意外すぎるくらい普通だなと思ったり。
ガガーリンは1961年4月12日のボストークでの飛行のために、
このSK-1与圧スーツで訓練を行いました。
注目すべき機能として、この重たそうなバイザー付きヘルメットは
スーツから取り外しできなかったということです。
着水するようなことがあったら膨張し、展開させるゴム製の襟
(兼フロート)がついた明るいオレンジ色のナイロン製スーツです。
袖に付いているのは鏡だよね?と思ったら本当に鏡でした。
これは、動きが取れない船内で、スイッチやゲージを見るのに役立ちます。
(こんなものがないと見られない状況って一体・・・)
圧力をかけるためのライナー(内側の層)にこれでもかと繋がれた
各種コネクターは、生命維持とコンタクトのために必要な各種機器。
手袋は革製、重たそうなブーツも革製、ラジオヘッドセットも革張りでした。
■ガガーリン
ユーリ・アレクセーエヴィチ・ガガーリン (1934年3月9日 - 1968年3月27日)
は、人類初の宇宙飛行士となったソビエト連邦のパイロット、宇宙飛行士です。
1961年4月12日、「ボストーク1号」カプセルで地球を1周することに成功し、
宇宙開発競争におけるこの重要なマイルストーンを達成しました。
労働者階級の家に生まれたガガーリンは鋳物工として働きだし、
その後、ソ連空軍のパイロットであった時、初の宇宙開発計画に選抜されます。
宇宙計画の主任だったウラジーミル・コロリョフは、
ボストーク・カプセルの限られたスペースに収まるように、
候補者は体重72kg未満、身長1.7m以下と指定しました。
この時空軍から選出された候補者が154人でしたが、
その中から5人が最終選考に残りました。
人に好かれるタイプで(自分以外で誰を最初に飛行させたいか、という
匿名の投票をさせたら、ガガーリンが圧倒的に多かったらしい)
集中力があり、自分にも他人にも厳しく、肉体的・心理的な耐久性に優れ、
控えめで調子に乗らず、記憶力があり、鋭い注意力と洞察力を持ち、
想像力豊かで、反応は機敏、忍耐強く、活動や訓練のために丹念に準備をし、
天体力学や数式を簡単に扱い、高等数学にも長けており、
自分が正しいと思えば、自分の意見をはっきりと主張する。
史上初の宇宙飛行士として、ソ連が選び抜いたのはこんな人物でした。
決して「ラッキーボーイ」というレベルの人物ではなかったのです。
ボストーク2号に乗ったゲルマン・チトフも超優秀な人物でしたが、
彼の両親は知的階級で、そこそこ裕福な家庭の出身でしたから、
ガガーリンのような貧しい労働者出身の方が、
国家事業第一号のヒーローとして「映える」とされたようです。
あと、チトフのファーストネーム「ゲルマン」は、
つい最近までドイツとドンパチっていたソ連的にはいまいちで、
「ユーリ」という典型的なロシアンネームの方が
これも英雄としては大衆に受け入れられると考えられました。
Comrade Gagarin the first man in space
ボストーク1が人類初の宇宙旅行者となったガガーリンを乗せて
バイコヌール宇宙基地から打ち上げられた時、
コールサインはケドル(Кедр、シベリアの松または杉)でした。
Radio communications between Yuri Gagarin, Sergei Korolev and Ground Control
英語訳字幕に「Cedar」とあるのがお分かりいただけるでしょう。
発射管制室とガガーリンの無線通信
コローリョフ:予備ステージ...中間...メイン...。
リフトオフ! 良いフライトをお祈りしています。すべて順調です。
ガガーリン: 出発です!さようなら、近いうちに【会う】まで、親愛なる友よ。
非公式なのでこの音声には残っていないようですが、ガガーリンは最後に
「ポイエカリ!」(Poyekhali! Поехали!, 'Off we go!')
といい、これは、後に東欧圏で
宇宙時代の始まりを意味する表現として使われるようになります。
打ち上げ後、宇宙船は108分間周回してカザフスタンに着陸しました。
こうしてガガーリンは人類初の地球周回飛行士となったのです。
ちなみに搭乗前中尉だったガガーリンは飛行中に2階級特進し少佐になりました。
これは、本来ならば名誉の戦死に対して行われる昇進ですが、
宇宙飛行中に昇進したことを本人が知っていた方が、
その後何が起こってもおそらく本望だろう、という配慮からと思われます。
本来の2階級特進の事態がいつでも起こりうると考えられてたんですね。
国家どころか人類の英雄となったガガーリン。
彼は母について、こんな孝行息子なことを述べて世界を感動させました。
「私は母を非常に愛しており、達成したすべてのことは母のおかげです」
ガガーリンの筆跡。
几帳面で丁寧で、書き手の明晰さも窺えます。
ガガーリンは歴史的な飛行の二日前に、宇宙飛行に関するスピーチを
ソビエト国家委員会において行っています。
その中で、彼は同僚のパイロットたちが
「私が最初に宇宙に飛び立つにあたり信頼をしてくれたこと」に感謝し、
「ソビエト人がそうであるように、私は嬉しく、また誇らしく、幸福だ」
と付け加え、さらにまた、
「飛行の成功の結果を疑っていない」
とその場の聴衆に力強く保証して結びました。
ここに展示されているのは、この時に行ったスピーチのために
ガガーリンが書いた自筆原稿の複製です。
ともあれ、ソ連は最初に人類を宇宙に送ることになり、
それは世界に・・・とりわけアメリカに衝撃を与えました。
ガガーリンの飛行は、アメリカの宇宙飛行士、アラン・シェパードが
初の弾道飛行を行う1ヶ月前でしたし、
宇宙飛行士ジョン・グレンが地球をアメリカ人として初めて周回した
10ヶ月前にすでに行われていたということになります。
これは、ソ連が宇宙開発競争において、圧倒的にアメリカの先を行くことを
あからさまに示す出来事になりました。
フルシチョフに花束を贈られるガガーリンを表紙にした
1961年4月21日発行のライフ。(ちなみに値段は20セント)
このIDは、スミソニアンがロシアのスターシティにある
その名も「ユーリ・ガガーリン宇宙飛行士訓練センター」の
博物館のものをコピーさせてもらったもの、と説明があります。
まず、こちらはガガーリンが訓練中の宇宙飛行士であるというID。
そしてこちらは共産党のメンバーであるというIDつまり党員証です。
アメリカ人にはこういうのが地味にショックかもしれません。
しかし、歴史的な宇宙飛行の間、彼が帯同していたのは
もちろん宇宙飛行士としてのIDでした。
■ソ連の連続”初めて”
ボストークとボスホートというコーナーです。
1961年から1965年の間に行われたボストーク、ボスホート計画は、
宇宙におけるソビエトによる「史上初」となる一連の任務を成功させました。
ボストークVostokという名称は、ロシア語で「東」を表す一般名詞です。
1961年から最初2年間での6回のミッションで、
ボストーク宇宙船は宇宙飛行士を長時間地球軌道に乗せることに成功しました。
その後、ボストーク宇宙船は、2〜3人の飛行士を収容するサイズになり、
名前もボスホートVoskhodと変えました。
今度は「日の出」を意味する単語です。
そして3人の宇宙飛行士が、1964年10月、ボスホート1号による
1日の軌道周回に打ち上げられ、成功します。
これは、アメリカが二人乗りのジェミニ計画を成功させる5ヶ月前でした。
そして、1965年には、ボスホート2号の宇宙飛行士アレクセイ・レオーノフが
軌道を回る宇宙船の外に出て、世界最初の人類による宇宙遊泳を達成します。
ちょっとここで、ソ連のボストークによる「初めて」5連打を表にしておきます。
1961 初めての有人飛行打ち上げユーリ・ガガーリンの1周回飛行(ボストーク)
1961 初めての1日周回飛行ゲルマン・チトフ(ボストーク2)
1962 初めての2機打ち上げ
ボストーク3と4
1962年 初めての長期耐久ミッション
宇宙船で5日滞在(ボストーク5)
1963年 初めての女性宇宙飛行士打ち上げ
ワレンティナ・テレシコワ(ボストーク6)
もうこうなったら、次はどんな初めてにしよっかなー、と
皆で目を輝かせて「初めてネタ」を協議してたって感じですね。
ゲルマン・ステパノヴィッチ・チトフ
Герман Степанович Титов、Gherman Stepanovich Titov
ボストーク2で地球周回軌道より遠い軌道での飛行を行ったチトフ。
史上初めて宇宙で乗り物酔いをした人物としても名を残しました。
史上初めて宇宙船を操縦し、史上初の宇宙でものを食べた人物でもあります。
また、史上初めて宇宙から地球を撮影した人物にもなりました。
この写真はチトフが撮影した地球。
左上にサインがありますね。
2000年、チトフは65歳で亡くなっていますが、これがまた、
サウナに入っている時、心筋梗塞になったのが死因だそうで。
おそらくですが、サウナで死んだ史上初の宇宙飛行士となったと思われます。
最初の女性宇宙飛行士となった、
ワレンチナ・ヴラディミロヴナ・テレシコワ(1937〜)
Валенти́на Влади́мировна Терешко́ва
Valentina Vladimirovna Tereshkova
ガガーリンが「シベリア杉」チトフが「鷲」だったように、
テレシコワのコールサインは「チャイカ」(Ча́йка、かもめ)だったため、
打ち上げ後に
«Я — Чайка» ヤー・チャイカ=「こちらチャイカ」
と言ったのがその後世界でバズりました。
この写真は、飛行中のモーションピクチャーのキャプチャですが、
なんかすごく可愛らしいというか・・。
「お黙り!」とか言われそう(ちなみに空軍少将)
こういうイメージとは全く違う表情ですね。
これがボストークだ
当時のことなのでフライトプランは全て手書きとなります。
これはボストークのフライトプラン。
初のガガーリンによる有人打ち上げに関するチェックリストのドラフト。
前回ご紹介した技術者であるフェオクチストフの手によるもので、
打ち上げ前、軌道上、および降下中、従うべき特定の手順が指示されています。
これもオリジナルのコピーです。
■負けを認めたアメリカ
「ケネディ:我々は立ち遅れている」
こんな見出しが目につきます。
どんなことが書いてあるでしょうか。
記者会見の記録から
問:大統領は本日、宇宙分野でアメリカがロシアの幸甚を配しているのに
うんざりしているとおっしゃいました。
今大統領は宇宙計画をスピードアップするために議会に予算を要求しました。
我々がロシアに追いつき、追い越せるという見込みはなんですか。
大統領:そうですね。
ソ連はより大きなブースターで重量を支えることで利点を獲得しました。
そしてしばらくはそれが役に立つでしょう。
誰もがどんなに疲れていても・・・私ほど疲れてる人はいないと思いますが、
そう言ったことに時間がかかるのは事実です。
それを認識しなければならないと思います。
彼らは大きなブースターでスプートニクによって最初を手に入れ、最初に宇宙に人を送りました。
今年も関係者の生活の問題に気を配りながら頑張っていきたいですが、
とにかく私たちは遅れています。
彼らは先に行くために集中的に努力をしているでしょう。
土星にさらに重点を置き、ローバー(探査機)を計画しています。
私たちはより強力な地位を与える他のシステムを改善しようとしています。
しかしそれらは非常に効果であり全てに数十億ドルがかかります。
その上であなたの質問に答えると、一般教書演説で言ったことですが、
私たちが追いつくまでにはしばらく時間がかかるでしょう。
私たちは、「最初」になることができて、おそらく人類に
より長期的な利益をもたらす分野に行くことを望んでいますが、
とにかく今は遅れているんです。
記者会見の別の時点で、大統領は宇宙開発競争についてこう述べた。
「”宇宙の最初の男”が自由主義の弱体化の兆候であるとは考えていませんが、
過去数年間行われた共産主義者の宇宙への動員は、
私たちにとって大きな危険の源であるとは考えています。
そして、私たちは今世紀の残りの大部分を通して
その危険を抱えて生きていかなければならないだろうと考えています。
(略)
私たちの仕事は、自分達の優れた資質がより効果的に発揮されるまで
自らの力を維持することです」
アメリカはどうやってこれから巻き返していくでしょうか。
続く。