「宇宙開発戦争」(Space Race)というテーマであるスミソニアン展示から、
これまで、まずは先んじたソ連のボストーク計画、
そして追いつけ追い越せのアメリカがマーキュリーとジェミニ計画で
着実にソ連の後を追ってきたところまで紹介しました。
今日は、ソ連の最後の頑張り?となった月探索計画についてです。
1958年から1976年まで、ソビエト連邦は、宇宙に自動探査機を送り込み、
月を周回、着陸させ、探査機を実際に歩かせることができました。
3機の探査機が月の土サンプルを採取し、地球に持ち帰ったこともあります。
しかし、ソ連は宇宙飛行士を月面に着陸させる、とは表明しませんでした。
アメリカが、ジョン・F・ケネディの目標で月に人を送る、と宣言しても、
ソ連はそれまでわかりやすくアメリカに勝つことに挑戦してきながら、
それでもその目標を言明することがなかったのです。
これはなぜだったのでしょうか。
徹底した秘密政策のため、それらがわかったのは冷戦終結後となりました。
そのとき、ソ連の月探査計画の実態もまた明らかになったのです。
新たに公開された日記、技術文書、宇宙機器などから、後世の人々は
ソ連の野心的な有人月探査計画の一端を垣間見ることになりました。
人類の月着陸を言明しなかったにもかかわらず、その資料の中には
月着陸のための宇宙服のプロトタイプなどが見つかったのです。
これは、ソビエト連邦が月着陸に本気で取り組んでいたことを意味します。
■ ミーシン日記
ソ連のトップ技術者だったセルゲイ・コロリョフが急死した後、
後任となったのは、実験設計局でコロリョフの副官であるロケット科学者、
ヴァシリー・パブロビッチ・ミーシン
Vasily Pavlovich Mishin
Васи́лий Па́влович Ми́шин (1917 – 2001)
でした。
コロリョフの下で彼は多くの宇宙プロジェクトを共に手掛けていたので、
1966年に彼が亡くなると、ところてん式に主任設計者に就任し、
ソ連の有人月探査計画の責任を引き継ぐことになったのです。
ミーシンは第二次世界大戦末期に、やはり
ナチスドイツのV-2施設を視察しています。
そして、コロリョフの副主任時代、ソ連初のICBMやスプートニク計画、
ボストーク計画にももちろん参加しています。
主任としてL1、N1-L3有人月探査計画、ソユーズ有人宇宙船、
サリュート宇宙ステーション、さらにMKBS軌道基地をはじめとする
いくつかの無名の計画の飛行試験段階において、同局を率いました。
コロリョフが大腸癌摘出手術中に死亡、つまり急死したので、
ミーシンがコロリョフ主導でやりかけていた開発を引き継いだのですが、
これは全体的に、ソ連の、とにかく世界初ならあとはどうでもいい的な、
拙速で人命を軽視した計画であったと言われています。
ソ連は、1961年にケネディの人類月着陸宣言が行われる前から、
アメリカに先んじることだけを目標に、人類の月着陸計画を進めました。
しかし、そのN1ロケットプログラムとは、
主に資金不足からなる致命的な欠陥をはらむものであり、
ミーシンはその負の遺産を引き継ぐ形で責任者となったのです。
全てに失敗したN1(エーヌ・アヂーン)計画
(横に倒してお見せしております)
N1の開発はミシンが指揮を執る10年前の1956年から始まっていました。
そのミッション目的は月着陸。
しかし、コロリョフの下では、資金不足で適切な設備にお金が回らないため、
そして試験飛行を少しでも早く行うという目的のため、
通常の地上試験の多くを省くという、
どう考えても拙いんでないかい的な前例が始まっていました。
ミーシンはそんな状態のプロジェクトを引き継いだのですから、就任後、
技術的失敗に直面したとしても、必ずしも彼のせいではないともいえます。
ミーシンの名誉のために付け加えておくと、
彼が非常に優秀な技術者であったことに間違いはなく、
例えばエンジンの故障に対処するため、KORDシステムといって、
もしモーターが故障した場合、自動的に反対側のモーターを
ロケット基部で停止させて(バランスのため?)
自動計算によって欠けたモーターを補うと言う装置を導入したりしています。
このシステムは、1969年の最初のテスト飛行で早速正常に作動し、
配管が原因で火災が起きたにもかかわらず、大ごとになることを抑えました。
しかし、N-1ロケットは結局4回の試験打ち上げ全てに失敗しました。
その失敗は、全て引き継ぎが行われた段階で、ミーシンがもし
さらなる試験を行っていれば、回避できたかもしれないものでした。
ミーシン日記
さて、ここスミソニアンには、そのミーシンが
多忙な仕事の合間に残した日記が展示されています。
日記と言ってもこれらは1960年から1974年までにミーシンが残した
ソ連の宇宙開発における日々の動きと、決定されたことなどのメモ、
会議のメモ、To-Doリスト、プレゼンテーションのアウトライン、
そして技術的な計算メモなどで、完全な文章はほとんどありません。
メモなので略語も多く、原文はロシア語が読めても理解不能だそうですが、
略語の専門家による解釈が入った「完全版」が2015年に発行されています。
ちなみに解読チームはここまで漕ぎ着けるのに何年もかかっています。
それによると、ミーシン日記は、ソ連の宇宙開発をめぐる
多くの謎と論争に洞察を与えてくれるものだそうです。
また、これにより、ソユーズ有人軌道シリーズ、
ソユーズ・コンタクト・ドッキングシステム実験、月着陸船Ye-8、
ソユーズ-Sなど、不可解なプログラムの根拠が明らかになりました。
ここに経年劣化で破損しそうな手帳のページのコピーが展示されています。
この、1965年の記述で、ミーシンは、今後のソ連の宇宙活動は
設計局が主導的な役割を果たすであろうとその根拠を要約しています。
そして、軍事衛星、宇宙ステーション、宇宙飛行機、
月での様々な活動について言及し、また、月への有人着陸に必要な道具、
地図、宇宙服などの品目、そしてそこで行う作業も数多く列挙しています。
ナンバーが項目ごとに振られていますね。
1967年、ボルシェビキ革命50周年記念のために計画された
宇宙開発の概要、月周回有人飛行とN-1の実験がリストアップされています。
1968年の日記で、ミーシンは3つの主要な宇宙飛行計画のため、
宇宙飛行士候補の名前をリストアップしています。
地球軌道、周回軌道、月着陸の3つの宇宙飛行計画の候補者には、
アレクセイ・レオーノフ、コンスタンチン・フェオクティストフ、
その他エンジニアやソビエト空軍のパイロットの名前が書かれていました。
このページは他のと違い、日記の体をなしているように見えます。
この1960年の時点で、ミーシンはこんな爆弾発言をしています。
「コロリョフは、月や火星への有人飛行を含む
長期的な科学的宇宙探査の基本計画を採択するための議論と、
政府の遅れに非常に失望していた」
結局、ソ連が有人月探査を決定したのは、
アメリカが宇宙開発競争の究極の目標である月面着陸を実現した後でした。
その他、ミーシン日記にはこのようなことが書かれていました。
「我々はもはや、ソ連の有人周回飛行では、乗組員を着陸船と切り離して
別に打ち上げなければならなかったことは間違い無いだろう」
「ソ連の有人月面着陸は、N1スーパーブースターを2回打ち上げ、
2回目の打ち上げでホーミングビーコンを月面に着陸させ、
バックアップの月面着陸船も一緒に打ち上げるというものであっただろう」
果たしてその方法が可能だったのかどうか。
アメリカに初の月面着陸を奪われて以降、ソ連はその研究を中止したので、
それは永遠の謎となってしまいました。
ミーシンに対する評価
ミシンはロケット工学者としては優秀な人物でしたが、行政官、
リーダーとしては有能とはいえず、月面着陸計画の失敗の責任者とされます。
仕事のストレスのせいか、元々そうだったのかはわかりませんが、
アルコールを大量に摂取したため、それも非難される原因となりました。
ついにはソビエト首相のニキータ・フルシチョフが
「(彼は)彼の肩にかかっている何千人もの人々もの管理に対処する方法、
かけがえのない巨大な政府の機械(ロケットのこと?)を
なんとかして働かせるための方法を全く考えていない」
と詰るまでになります。
非難の声は現場からも上がりました。
1967年5月、ユーリ・ガガーリンとアレクセイ・レオノフは、
ミーシンの
「ソユーズ宇宙船とその運用の詳細に関する知識の低さ、
飛行や訓練活動において宇宙飛行士と協力することの欠如」
を批判し、ガガーリンにとってはこれが一番の理由だと思いますが、
確実に失敗すると分かっていたのに決行して、
ウラジーミル・コマロフが亡くなったソユーズ1号の事故
に関する公式報告書に彼の責任を書くべきだと言いました。
ソユーズ1号とその事故現場、そしてコマロフ
また、 レオーノフはミーシンについてこうも断罪しました。
「いつもためらっていて、やる気がなく、決断力に欠け、
リスクを取ることを過度に嫌がり、宇宙飛行士の管理が下手」
うーん、これは決定的にリーダーシップに欠けるってことですかね。
彼の任期中の失敗は、ソユーズ11号のコマロフの事故死以外には、
3つの宇宙ステーションの損失、
火星に送った4つの探査機のコンピュータ障害などがあります。
4回のN1テスト打ち上げがすべて失敗し、その責任を取らされる形で、
1974年5月15日、おりしも入院中だったミーシンは主任を解雇されました。
後任となったのは彼のライバルだったヴァレンティン・グルーシコでした。
その後、ミーシンはモスクワ航空研究所のロケット部長として
教育・研究を続け、宇宙開発における功績により、
社会主義労働英雄の称号を授与されています。
そして、2001年10月10日、モスクワで死去、享年84歳でした。
■ソ連の月着陸計画
さて、話をまだミーシンが主任だった頃に戻します。
コロリョフは在任中月面着陸のための宇宙船の設計にも着手していたので、
ミーシンが指揮をとるようになってからハードウエアの製作が引き継がれました。
ソ連は数種類の異なるプログラムを月探索のために立ち上げていました。
以下それを列記します。
【ルナ】 1959〜1976
各種自動軌道周回機、着陸機、土壌サンプルリターンカプセル
Luna2
【L-1/Zond】1965~1970
自動周回飛行、『有人月周回飛行』の試運転
2人の宇宙飛行士を乗せて月面を1周する有人宇宙船L-1は、
度重なる機器の故障により、クルーを乗せずに飛行しました。
しかし、有人月探査に必要な宇宙船と操縦方法をテストするため、
L-1の無人宇宙船がZond(プローブ)という名前で5回月面に飛んでいます。
1968年9月、ゾンド5号は初めて月を周回し、地球に帰還しました。
【ソユーズとコスモス】1966〜1969
月探査機とマヌーバをテストするための
地球軌道上での有人および自動ミッション
ソユーズ1号のコマロフ、ソユーズ11号では宇宙飛行士3名が酸欠で死亡
【ルノホード Lunokhod】1970~1973
自動月探査機
1970年と1973年の2回のルナ・ミッションでは、
着陸地点周辺を歩き回るロボット探査機「ルノホード」が搭載されました。
乳母車じゃないよ
ルノホードは、写真撮影や岩石・土壌サンプルの分析など、
宇宙飛行士が月で行うのと同じような作業を行うことができました。
このようにソ連のロボット探査機は成功を収めていたのにもかかわらず、
アメリカの有人探査の影に隠れてしまいました。
【L3 】1968年末予定
「マン・オン・ザ・ムーン」実行されず
アメリカのに似ているような
有人月面着陸計画(L-3)は、軌道船と着陸船で構成されていました。
(ミーシン日記に書かれていた通り)
月着陸船のプロトタイプは、1970年と1971年に3回、コスモスという名前で、
乗員を乗せずに地球周回軌道上で実験に成功しています。
ソ連の月着陸船は、アポロ月着陸船の半分の大きさ、重さは3分の1でした。
月面に降り立つ宇宙飛行士は一名、
もう1人は月周回軌道に留まることを想定していたそうです。
しかし、度重なるロケットの不具合により、
有人飛行に至らず計画は中止されることになりました。
スミソニアンには、ソ連が開発していた月探査用の宇宙服があります。
「クレシェット(黄金の鷹)」と呼ばれるこの宇宙服は、
アポロの宇宙服とはいくつかの点で異なっています。
まず、バックパックの生命維持装置がドアのようにヒンジ式になっていて、
宇宙飛行士がスーツに足を踏み入れて着用する仕組みです。
展示されていない後ろから見たスーツ。
宇宙服というよりもはや人体用カプセル。
手足は柔軟に動かすことができますが、胴体は半剛体のシェルとなっており、
胸部のコントロールパネルは、使用しない時は折りたたんで収納できます。
そしてブーツは柔軟なレザー製。
ヘルメットはアポロのものと同じような感じで、
ゴールドコーティングされたアウターバイザーは、
明るい日差しから身を守ります。
生命維持装置のバックパックも同様で、酸素供給、スーツ内圧、
温度・湿度調整、通信のためのシステムが搭載されています。
同様の宇宙服を、ロシアの宇宙ステーション「ミール」で
外部活動する宇宙飛行士が使用しました。
しかし、ソ連が人類を月に打ち上げる日は来ませんでした。
月着陸船、月探査船、そしてこんな高性能な宇宙服まで持っていたのに。
それはなぜか。
彼らに欠落していた重要な部分は、ただ一つ。
有人宇宙船を月に送るのに十分協力で信頼性に足るロケットの存在
でした。
コロリョフが死なず、ミーシンが上に立たなければ、
あるいは共産党政府が資金をふんだんに出し、
目先の「初」にとらわれず、人命を重視した宇宙開発をしていれば、
結果はあるいは逆転していたのかもしれません。
誰もが考えずにいられませんが、所詮歴史に「もし」はないのです。
ちなみに1959年から1976年までにソビエトが打ち上げた
約60機の月探査機のうち、成功したのはわずか20機だったということです。
続く。