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Channel: ネイビーブルーに恋をして
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沿岸警備隊「マクレーン」が撃沈した呂32〜USS「シルバーサイズ」潜水艦博物館

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ざっと駆け足で五大湖沿いの海軍施設巡りについて概要をお話ししました。
新しい住処での生活も落ち着いたので、さっそく詳しい解説に入ります。
事情があって、2番目に訪れたミシガン州マスキーゴンの
潜水艦「シルバーサイズ」に併設されていた博物館の展示から始めます。

■ 「シルバーサイズ」潜水艦博物館


USS「 シルバーサイズ」 サブマリンニュージアムは、
ミシガン州のマスキーゴンにあります。


マスキーゴンは赤い印の部分で、ミシガン湖の東岸となります。

博物館は2階建てのミュージアムビルと常設展示室、
そして岸壁にはガトー級潜水艦USS「シルバーサイズ」、
その隣に禁酒法時代の沿岸警備隊のカッター、USCGC「マクレーン」、
大きくこれらのの3つの施設から構成されています。


USS「シルバーサイズ」Silversides(SS-236)
は、第二次世界大戦時の「ガトー」級潜水艦です。

「シルバーサイズ」はアメリカの当時の潜水艦の命名機基準に倣った魚名で、
別名「スメルト」(smelt)、「ホワイトベイト」(whitebait)ともいい、
これは日本語だと「ワカサギ」となります。

等級の名前になっている「ガトー」gatoはトラザメの意味です。
トラザメ基準だとワカサギは体が小さすぎることから、
潜水艦の等級は魚の大きさ別というわけではないことがわかりました。

潜水艦「シルバーサイズ」は4回の哨戒活動で12の戦功を挙げ、
大統領単位勲章を授与されています。

その戦歴において23隻、90,080トンを沈めたとされ、これは、
現存するアメリカの潜水艦の中で最も多い記録とされています。

USS「シルバーサイズ」は内部と外部を全て公開されており、
砲から食堂に至るまで、見学箇所は「慎重に復元した」とのことです。

また、団体で予約すれば、キャンプで一泊することも可能です。
艦長や士官の個室はもちろん、魚雷横のバンクで寝る体験ができるわけです。
(ということはトイレやシャワーも使えるようになってるんだろうか)

ちなみにHPでは(一体どういう効果を狙っているのかわかりませんが)
ライブカメラで四六時中潜水艦の映像が流れています。

「シルバーサイズ」ライブカメラ
5分ほど流しっぱなしにしていると自動的にストップします。

このページの下の方を見ていただくと、通過する船の現在状況がわかる
「チャンネル・シッピング・マップ」も見られます。



わたしがこれを見て初めて気がついたのは、マスキーゴンというところが、
「ミシガン湖沿岸の(さらに)内陸のマスキーゴン湖」沿いにあり、


この博物館はその二つを繋ぐ運河沿いにあったということでした。

うーん、アメリカってやっぱり広い。
■潜水艦「ドラム」艦橋


それでは博物館の前庭部分の展示から順にご紹介していきましょう。
USS「ドラム」の艦橋部分だけが展示されています。

USSドラムDrum (SS-228) 
はアメリカ海軍のガトー級12番艦ですが、最初に完成し、
第二次世界大戦で最初に戦闘に参加したため、
「ガトー級の実質1番艦」であり、現存する同級の中では最も古い艦です。

ただ、ちょっと不思議なことに、「ドラム」の本体は
1969年から戦艦アラバマ記念公園に展示されているはずなのです。

現地は2005年のハリケーン・カトリーナで被害を受けたものの、
その後ベテランのコミュニティなどの寄附によって修復されたとか。

その艦橋だけここにある理由がなんなのか、それは分かりませんでした。



■沿岸警備隊カッター、USCGC「マクレーン」



冒頭写真は、沿岸警備隊のカッター「マクレーン」です。

実はこの内部も公開されていたのですが、我々は
潜水艦と博物館を隈なく見た後、気力が尽きてしまっていて、
「マクレーン」に乗艦することなく次の場所に移動してしまいました。


現地にある説明を後から読んで、わたしは、しまった、見ておけばよかった、
と後悔したのですが、もちろんそれは先に立たず。

残念ですがこれはもう仕方がありません。

それではその現地の看板の説明です。

US Coast Guard Cutter
McLane W-146
アメリカ合衆国沿岸警備隊のカッター、「マクレーン」へようこそ!
この船は1927年4月8日ニュージャージー州カムデンで就役しました。
「マクレーン」は当初、禁酒令を施行するために建造されましたが、
第二次世界大戦が始まると、アラスカ沖チャタム海峡の警備に就きました。
現役当時の「マクレーン」
1942年7月9日、海軍の哨戒艇を伴って航行しているとき、
「マクレーンは」日本海軍の潜水艦呂32を撃沈しています。
ここを読んで、わたしは乗船をパスしたのを後悔したわけですが、
調べてみると、現地の看板に書いてある情報は、正確ではなさそうです。

この撃沈時の状況が、別のサイトで詳しく述べられています。


1942年6月7日、アラスカとブリティッシュ・コロンビア間で哨戒中、
日本海軍の潜水艦が目撃されたとの報告を受けた「マクレーン」は、
その海域での継続的な捜索を開始しました。

1ヶ月後の7月8日、「マクレーン」はカナダ空軍の哨戒機が、
潜水艦を爆撃し損傷させたという報告を受けます。

そこで、海軍哨戒艦USS YP-251、カナダ海軍掃海艦HMCS「Quatsino」
とともに本格的な潜水艦の探索を開始しました。
「マクレーン」の報告が詳しく残されているので箇条書きにしていきます。

0800 潜水艦の音信を得たが、その後失う

水深91mにセットした深度爆薬は不発

「潜水艦がジグザグに走り、回避しようとした」

1540 音信を探知

1553 46mと76mにセットした2つの深爆を投下
1556 61mと91mにセットした2つの深爆を追加

「泡が表面に上がってきた」と報告

1735 潜水艦が発射したらしい魚雷が「マクレーン」の前方を通過

YP-251、潜望鏡を視認 その地点に深爆を投下
「マクレーン」続けて2つの深爆を投下

両艦は油膜が浮上したことを確認

1935 YP-251は潜望鏡を視認、深爆を投下

「マクレーン」は2つの爆雷を投下

油と泡とロックウール(潜水艦の消音に使用)らしきものが浮上したと報告

7月10日早朝まで早朝まで潜水艦の痕跡がないか捜索を続けたが、
何も発見できなかった

潜水艦を撃沈したという確たる証拠は得られなかったと、
こういうわけですね。

にも関わらず、「マクレーン」、YP-251、哨戒機の指揮官たちは
潜水艦を撃沈した功績でレジオン・オブ・メリットを受賞し、
陸海軍合同評価委員会は、潜水艦を日本の潜水艦呂32と特定したのでした。

ところが、です。

日本側の記録によると、呂号32はその時期そこにはいませんでした。

♩そこに〜わたしは〜いません〜沈んでなんか〜いません〜〜♪

いられるわけがありません。
なぜなら呂32は1942年の4月1日付で(この日付がいかにも日本ですね)
退役しているのです。

彼らが呂号潜水艦らしき敵と格闘したのは、
本物の呂32が退役してから3ヶ月も後のことになります。

まあ、敵の軍艦について何も分からないのは戦時中のあるあるですが、
1967年になって、戦闘記録と呂号の情報「を照合したアメリカ海軍は、
「マクレーン」が撃沈したのは、呂32ではなかったことを知りました。


というわけで、1942年7月9日に沈没したとされる潜水艦の身元は
いまだに未確定のままになっています。

これって、日本の潜水艦だったかどうかもわかっていないってことですね。
まさかとは思うけど実は敵ではなかったとか・・いや何でもない。


現地の解説の続きです。
さらに、「マクレーン」は、1943年、アラスカへの航行中に、
墜落したロッキードエレクトラ10B航空機の乗員二人を救助しました。


「マクレーン」は1960年代にはカリフォルニア州アラメダ、
そしてテキサス州ブラウンズビルでも勤務を行なっています。

1970年代にはシカゴ地域に移動して、沿岸警備隊カデット隊の
若い隊員のトレーニングプログラムに使用されていましたが、
それを最後に、1993年、シルバーサイズ潜水艦博物館に買収されました。


というわけで、これが現地にあった看板の説明となりますが、
「マクレーン」が撃沈したのが呂32でないことが明らかになって、
もう半世紀は有に経過しているのだから、
いくら何でもこの情報は書き換えておくべきだと思うんだな。
というか、「マクレーン」が撃沈したと思ったのが呂32でなかったどころか、
実は逃げられていたっていう可能性はないですか?

油膜だって防音材だって、映画でよくあるあの話みたいに、
「潜水艦死んだフリ作戦」で放出してたかもしれないじゃないの。

それに、潜水艦が沈没した痕跡は結局何も見つからなかったんでしょう?


なんて疑うのは、ここアメリカではベテラン様に対して失礼!
ってことになってしまうのでタブーなんでしょうか。



■ 触雷沈没した潜水艦「フライアー」


さて、その次は本当に沈んだ潜水艦についてです。

博物館に入館すると窓口がこの展示の右側にあり、
入館料は大人は17ドル50、支払うと手首にバンドを巻いてくれます。
ここでも売り場の人に、「あなたはミリタリー関係者か」と聞かれました。

現役の軍人なら入場料が無料になるからですが、
どこにも「アメリカ軍」という規定が書かれていないので、
もし自衛官だったら、タダで見学できるのだろうと思います。

自衛官の方、こんな機会があればぜひお試しください。
おそらくベテランでも何らかの割引があると思います。


入り口にあったこの稲妻と潜水艦の艦首の描かれたバナー。
大変ドラマチックですが、何が書かれているかというと。

1944年8月13日日曜日の午後10時近く、曇天の暗い空。
西に稲妻が点滅しました。

USS「フライアー」は、フィリピンのバラバク海峡に向かって
南南西に17ノットの速度で航行しています。

潜水艦は目立たないように静かに航走を行います。
暖かく、穏やかなうねりがデッキ全体を洗い流していきます。

9人の乗員がスピードを上げる潜水艦のブリッジと見張り台に立っています。

彼らが目標とするのは、南シナ海における日本の護送船団です。
海面を航走しながら「フライアー」は「絶好調」でした。
(makes good time.)
夜間でも発見されるリスクはあるので、さらなる見張りが
敵の哨戒に備えて海と空をどちらも警戒するのです。
ここで終わりです。「フライアー」がこの後どうなったのか、
輸送船団を沈めることができたのかについては書かれていません。

これだけ見た人にはこの後の「フライアー」の運命はわかりませんが、
実は「フライアー」は、2回目の哨戒でバラバク海峡を浮上して航行中、
つまりこの後、

日本軍の機雷に触雷して2〜30秒ほどで沈没しているのです。


在りし日の「フライアー」
艦橋で見張りを行っていたジョン・クローリー艦長を含む数名は、
触雷の衝撃で艦体から海中に放り出されました。
また、別の資料によるとこのように書かれています。
「艦長はブリッジの後部に投げ出されたが、しばらくして正気を取り戻した。
油と水と瓦礫がブリッジに溢れかえっている。

燃料の強烈な臭いがし、コニングタワーのハッチから
ものすごい勢いで空気が抜け、下からは浸水音と男たちの悲鳴が聞こえた。」


USS「レッドフィン」(SS-272)に収容された生存者8名のうち7名
後列真ん中がおそらくクローリー艦長

燃料油の臭いが立ち込める暗闇の海で立ち泳ぎをしながら、
艦長は点呼を取り生存者を集めました。
その結果、艦橋にいたクローリー艦長以下14名が生き残り、
その他72名の士官と兵員は、艦と運命を共にしたことがわかりました。

沈没地点は陸地からわずか3マイルでしたが、空が暗く曇っていたため、
艦長は明るくなるまでその場で立ち泳ぎをすることを命令しました。

「この間、ケイシー中尉は油で目が見えなくなり、目が見えなくなっていた。
4時頃、彼は疲れ果て、他の隊員は彼のもとを去らざるを得なくなった。
クローリー中佐は、最速で泳ぐことが唯一の希望であることを悟り、
全員に対して、見えてきた陸地に向かって最善を尽くすように指示した。
マデオは遅れをとり始め、5時過ぎには見えなくなった。」

その後何人かが脱落していき、海岸にたどり着いたのは艦長以下8名でした。

その後、生存者たちは、たどり着いた島での壮絶なサバイバルの末、
現地にいたフィリピン人ゲリラと接触し、なんとか生還を果たしました。
「フライアー」が触雷したのは、日本の伊123が
1941年12月7日、つまり開戦の日に敷設したものでした。

その後、アメリカ海軍内で、これに触雷した責任問題をめぐって
諮問委員会で送り込まれた上層部の間に対立が引き起こされ、
ちょっとした内輪揉めの騒動になったという後日譚が残されています。
(でも割としょうもない話なので割愛します)

海底の「フライアー」
2009年2月1日、「フライアー」は北緯7度58分43.21秒、
東経117度15分23.79秒の地点に眠っていることが確認されました。

この調査はフライアーの生存者が残した情報に基づいて行われ、
Naval History and Heritage Command の調査の結果、
この潜水艦の身元が特定されるに至ったものです。

水中で撮影された映像によれば、艦体の位置は海深100m地点。
砲架とレーダーアンテナからガトー級であることが確認されました。


その隣にあるのが、USS「レッドフィン」の時鐘です。

潜水艦「レッドフィン」は第二次世界大戦中、第4回目の哨戒で、
特別任務として「フライアー」の生存者の収容を命じられました。

「レッドフィン」による生存者救出作戦は慎重に行われました。

敵の目に止まらないように、まず無線でクローリー少佐らと連絡を取り、
予定日に会合予定地点で浮上して、そこに停泊していた
200トン級海上トラックを砲撃で撃破してから人員収容を行っています。

その後「レッドフィン」は現地のフィリピン人ゲリラに対し、
「フライアー」生存者を保護してくれたお礼として、食物、潤滑油、
医療用品、携帯兵器、弾薬および予備の靴、衣料を与えたということです。

その後オーストラリアのダーウィンに到着して
「フライアー」乗員を上陸させたあと、本来の任務の哨戒を再開しました。



続く。





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