潜水艦「シルバーサイズ」シリーズ、
第二次世界大戦中の「ガトー」旧潜水艦「シルバーサイズ」の
第3回目の哨戒戦果なし、という結果になったところまでお話ししました。
少なくともこれまで艦内とセイルに誇らしくペイントされた、
彼らの思っていたところの「やっつけた敵艦」の数と現実は
戦後の双方の照合から実際とは大きく違っていたことがわかったのですが、
まあ、その齟齬そのものは「シルバーサイズ」に限ったことではなく、
全世界的な傾向にあるということも理解して、
この際暖かい目で見てあげることにした当ブログです。
しかし、
彼らの主張と現実の戦果を検証するという作業を
止めるわけには行かないのだった。
というわけで、今日は4回目の哨戒からです。
■ 第4回目の哨戒
第4回哨戒は、この地図でいうブルーの矢印で、
前回の第3回哨戒の終了したブリスベーンから真珠湾までの航路です。
そして、よくよく見ると、ブリスベーンからニューギニアまでの間に、
赤い赤十字マークが付けられていて、説明にも
+ Appendectomy(盲腸)
とあるではないですか。
【盲腸と手術と駆逐艦と敵機】
「シルバーサイズ」の勤務日誌が見つかりました。
これによると、
12月22日
午前中、消防士のジョージ・プラッターが痛みで倒れ、
虫垂炎の疑いがあることが報告されました。
彼は午後3時に急性発作を起こしたので、
2100、緊急手術が行われることになります。
2152、「より安定したプラットフォームを得るために」
潜水艦は潜水を行い、当潜水艦の医療係(軍医は潜水艦に乗っていない)
一等薬剤師であるトーマス・ムーアは手術を開始。
麻酔の代わりにエーテルを使い、ほとんど台所用品を使って
盲腸の切除手術を行いました。
医師ではないムーアにとって、この手術は大変な大手術となりました。
結局5時間後に終了していますが、さぞ冷や汗をかいたことでしょう。
手術が終わったので「シルバーサイズ」は午前4時に浮上しましたが、
すぐに日本の駆逐艦に発見され、再び急いで潜水。
駆逐艦からは爆雷を雨霰のように落とされ、それに耐えることになります。
盲腸の患者の発生、手術が終わったばかりでこの展開。
潜水艦映画でもこんなスリリングなストーリーはそうないだろう、
ともしかしたら乗員は思ったかもしれません。
爆雷に耐えることしばし、静かになったので
もう大丈夫だと思って浮上したら、
駆逐艦はまだそこにいました。
しかも、航空機の救援まで駆けつけて、爆雷を落としてくるではないですか。
落とされた3発の爆弾のうち1発は艦首部分を大きく損傷しましたが、
「シルバーサイズ」は限界までの深度ギリギリまで深く沈んでそこで耐え、
最終的に敵が現場を去ることで危機を脱することができました。
そこで彼女はバッテリーの充電と緊急修理のために浮上したのでした。
【マーフィーを招待したのは誰?】
さて、盲腸の手術に敵駆逐艦の攻撃と、盛りだくさんなイベント。
潜水艦「シルバーサイズ」博物館には、
上記のような嘆きがタイトルになった日記風の文章があります。
この時のことが書かれています。
何もかもが一度に降りかかってくるという言葉が当てはまるとしたら、
それはまさに第4回目の哨戒のことでした。
まず『シルバーサイズ』は盲腸の手術のため
ほとんどのバッテリーを使い果たしてしまっていました。
手術を終えたジョージ・プラッターを回復のためベッドに押し込むや否や、
「シルバーサイズ」は充電のために航走しなければなりませんでした。
そのため浮上すると、敵の駆逐艦が突然霧の中から突進してきて、
わたしたちの艦尾に爆雷を浴びせてきました。
色々あって()やっと静かになったと思ったら、
飛行機が上空を旋回して爆雷を落としてくるではありませんか。
この日は何もかもが悲惨なことばかりで、
修理が必要な損傷がいくつもできてしまいました。
プラッターはといえば、手術が終わったばかりなのに
この騒ぎで寝かされていたバンクから投げ出されて気の毒でした。
ちなみに「シルバーサイズ」はこの時駆逐艦に対し反撃を試みたようで、
南緯06度30分 東経154度00分の地点で魚雷を2本発射した後、
数度にわたる爆雷攻撃が終わるのを待った、と日誌には書かれています。
ガスケットが緩んだり、第二潜望鏡のプリズムにクラックが生じたものの、
奇跡的に「シルバーサイズ」は任務を続けることができました。
4回目の哨戒で「シルバーサイズ」が沈めた・撃破したとする
5隻の艦船も、戸棚に描かれているものと日本、アメリカの記述を
比較していきます。
● 伊号1潜水艦 損傷
🇯🇵北緯07度06分 東経151度17分のトラック南西海域で
伊一型潜水艦型と思しき大型潜水艦を発見し、
魚雷を3本発射して1本を命中させて損傷をさせたと評価される
日本側の記述は、基本「シルバーサイズ」の日誌をもとにしています。
●GEWYD MARU 10,000 トン
🇺🇸 1943年1月18日
トラック沖で「シルバーサイズ」はこの哨戒で最大の目標である
10,022トンの石油タンカー「東栄丸」を魚雷で沈めた
🇯🇵1月18日未明
北緯06度21分 東経150度23分の地点で
護衛艦1隻を従えた特設運送船(給油)東榮丸(日東汽船10,023トン)
を発見し、艦尾発射管から魚雷を4本発射して3本命中させて撃沈した
「シルバーサイズ」には、「東榮丸」の名前は不明だったらしく、
哨戒中ということで全く違う(しかも日本語でもない)
船名としてペイントされていますが、後の情報は正確です。
【特設給油船東榮丸】
特設給油船とはタンカーのことです。
現場は普通にタンカーと呼んでいたと思うのですが、英語なので
公式にはこのような名称が使われたのではないかと思われます。
海軍所有の給油艦では手が足りなくなったため、
戦争が始まると徴用されて民間タンカーが原油輸送や
燃料・物資輸送、泊地内での燃料備蓄や輸送、洋上補給を行いました。
当時(今でもそうですが)石油の供給を輸入に頼るしかない日本にとっては
「石油一滴は血の一滴」。
そもそも日本が戦争に踏み切ったのも、石油の禁輸が堪えたからです。
それだけに特設給油船の働きは日本にとっての命運を握っていましたが、
それは同時に敵からの攻撃目標になるということでもあります。
タンカーを撃沈することは、連合軍の戦艦にとって「大金星」。
そのためタンカーの受ける攻撃は熾烈を極めました。
おそらく、当時、特設給油船として徴用された民間船の乗員は、
戦地に赴く際には任務で命を落とす覚悟だったと思われます。
そして、事実、大東亜戦争ではほとんど全ての特設給油船が失われました。
「東榮丸」は1933〜43年の間に川崎造船所、および川崎重工業で建造された
タンカーで、「川崎型油槽船」と呼ばれることもあります。
海軍艦艇建造で実績があった川崎が海軍からの要求を盛り込み、
有事の際の弾火薬庫を想定したスペースなどが設けられ建造された 1万トン級タンカー13隻は、 戦争突入前に整備され、
戦争が始まると軍に徴傭されてすべてが失われました。
「東榮丸」は昭和13年4月に川崎造船所で起工され、
昭和14年2月に竣工し日東鉱業汽船に引き渡されます。 竣工翌年には帝国海軍に徴傭され、特設運送船(給油船)に編入されました。11月26日に単冠湾より出撃、真珠湾攻撃をこれから行わんとする
帝国海軍南雲機動部隊への補給を行いました。
つまり「東榮丸」は真珠湾攻撃に参加しているのです。
その後はトラック島を根拠とする作戦、
第一次印度洋作戦の機動部隊に随伴、
ミッドウェー海戦においては、主力部隊に随伴しました。
「シルバーサイズ」に発見されたとき、「東榮丸」は、 シンガポールからトラック島へ重油等を輸送する任務遂行中で、
トラック島の南西100浬を航行していました。
「シルバーサイズ」の魚雷は「東榮丸」機関室に2発命中、
彼女は乗組員36名と共に沈没しました。
■はねかえされて帰ってきた魚雷のかけら
この「快挙」のことを、「シルバーサイズ」の英語版ウィキには
「哨戒の最大の目標」と記していますが、
日記風の回想録にはこんな記述もあります。
「タンカーを沈めて何日か経ったとき、
潜航中やたら爆雷が投下される現象が続きました。
不思議に思っていたのですが、ようやく謎が解けました。
あのタンカーの護衛艦が我々を攻撃した時、
燃料タンクを破損させて小さな漏れを起こさせ、
それが海面に明らかな油膜(潜水艦の痕跡)を残していたのです。
その後、発電機の一つが発火してしまいます。
数時間後、海面に浮上し、エンジンのために
エアバルブを開きましたが、それだけなのに
肝心のエンジンはプスンと言ったきり死んでしまいました。
それからはまるでカモにしてくださいと言わん状態のまま、
(We were sitting duck.=座っているアヒルになって)
動かないエンジンの原因を必死で探し、そして見つけました。
「クリーム・オブ・ウィート」(朝食用のインスタント粥)の箱が、
落ちてパイプを詰まらせていたのです。
ようやく出発できるという時に、ダベンポート副長が点検していると
甲板で金属片が光っているのが発見されました。
そこでローランド・フルニエに拾いに行かせたところ、
なんとその正体は我々が撃った魚雷の破片でした。
我々が発射し、タンカーに当たった魚雷の破片が跳ね返され、
4分の3マイルの距離を飛んで戻ってきたものだったのです。
つまらなさそうな顔で、戻ってきた機雷の破片
(想像していたのより大きかった)を持つ乗員、ローランドさん。
写真には、
魚雷の破片は「アメリカ産隕石」と名付けられました
とキャプションがあります。
もしかしたら、この博物館のどこかには、
「東榮丸」で炸裂してから奇跡的に「シルバーサイズ」まで跳ね返されて
甲板に落ちた魚雷の破片が展示してあるかもしれません。
【ビューティフル・コンボイ(見事な船団)】
「その後、私たちはきれいに並んで攻撃もよりどりみどりな、
見事な船団を発見しました」
こんな文章で始まるこの日の船団攻撃。
相変わらず当時の「シルバーサイズ」には船名まで確認できなかったらしく
実際のものとは全く違っていますが、逆に珍しく、
自分自身が評価した攻撃の効果より、実際のダメージは甚大でした。
まず、艦内のペイントによると、戦後まで乗員たちは、
この時攻撃した船団の貨物船は撃破だったと信じていたようです。
● セイワマル 7,300トン 撃破
●パラオマル 5,270トン 撃破
●ベルギーマル 5,822トン 撃破
しかし、実際は3隻のうち2隻が撃沈されていました。
🇺🇸 日中、輸送船団に並走した後、日没とともに先回りして
待機(エンド・アラウンド・ポジション)した
目標が射程内に入ると、「シルバーサイズ」は重なった目標に魚雷を発射し、
貨物船「スラバヤ丸」「染殿丸」「メイオウ丸」の3隻を沈めた
アメリカの戦後の記録だと、これが3隻全部撃沈となりますが、
日本の記録だとこうなります。
🇯🇵 1月20日午後北緯03度24分 東経154度13分のモートロック諸島近海で、
第六師団(神田正種中将)の将兵を乗せて
ブーゲンビル島に向かっていた六号輸送C船団[60]を発見
C船団に沿うように追跡し、日没近くにC船団の前部に出て待機した。
17時57分、「シルバーサイズ」は魚雷を6本発射し、
2隻の陸軍輸送船、「すらばや丸」(大阪商船、4,391トン)と
「明宇丸」(明治海運、8,230トン)に命中
「すらばや丸」は船首部に魚雷が命中して左舷に傾斜後間もなく沈没し、
同船への魚雷命中と相前後して船倉に魚雷が命中した「明宇丸」も、
左舷側に長く傾斜した後沈没していった
【詰まった魚雷の処理方法】
この時の「ビューティフルな攻撃」についてですが、
こんなことにもなっていたようです。
私たちは彼女らに忍び寄り、狙いを定め、
6本の魚雷を発射して5回の爆発音を聴きました。
もちろん護衛艦からの「お仕置き」が待っていましたが、
それも我々のやったことを考えれば、当然予想されることでした。
ただ、6番目の魚雷が飛んで行かなかった件は想定外でした。
装填した6番目の魚雷は発射管の途中で止まって動かなくなり、
護衛艦の爆雷を受けている間もずっとそこにあったのです。
我々がこの状態で生き残ったのは神のご加護としか言いようがありません。
さあ、魚雷チューブに詰まった魚雷をどうやって処理するか。
あなたならどうしますか?
「シルバーサイズ」は、次の朝、志願した6名の乗員を
問題の発射管のある全部魚雷室に閉じ込め、じゃなくて隔離しました。
魚雷を解除することは不可能であったため、
艦長の下した決断は、魚雷を再点火して発射することでした。
これは大変危険な行為でしたが、魚雷が詰まったまま
爆雷を受けでもしたら、それこそ全員がおしまいですし、
艦長は一か八かで逆進しながら魚雷を発射することにしたのです。
さらに、発射管から出た途端爆発する可能性もあったので、
6人だけを前部発射管に隔離して、被害を最小に止めようとしたのでした。
残りのメンバーは潜水艦を全速力で後進させ、
十分速度が出たところで魚雷が発射されました。
幸運なことに魚雷は無事発射され、水平線に向かいながら消えていきました。
「ありがたいことに、その夜私たちは新しいオイル漏れを発見しました」
これはもちろん皮肉というか自嘲というやつです。
「シルバーサイズ」の艦体からは深刻な油漏れと空気漏れがあったため、
予定より二日早く哨戒区域を離れて真珠湾に帰港しました。
最後の最後まで色々あった第4回目の哨戒。
「マーフィー」というのはもちろん、あの法則のマーフィーです。
文章化するとこんなところでしょうか。
「哨戒中、最悪これだけは起こって欲しくないアクシデントは必ず起こる」
続く。