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タスキギー・エアメンの父 ノエル・パリッシュ准将〜スミソニアン航空博物館

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今まで何度か黒人ばかりの航空部隊、タスキギー・エアメンについて
彼らを描いた映画を取り上げつつお話ししてきましたが、
今回はスミソニアン航空博物館展示からになります。

ちなみに、日本語では「タスキーギ」と書かれることが多く、
わたしも今まで「タスキーギ」と書いてきたのですが、
アメリカ人の発音とスペルを見て、「タスキギー」が正確かなと思い、
今後はそのように表記することをお断りして始めたいと思います。



航空の黎明期に人種偏見を跳ね返し、空を飛ぶ夢を叶えてきた
アフリカ系飛行家の先駆となった人々を紹介する
「ブラック・ウィングス」のコーナーの最後は、なんと言っても
タスキギー・エアメンを持ってこなくてはいけません。

このパネルには、タスキギー出身でのちに将軍にまでなったデイビスと、
タスキギー創設の立役者となったパリッシュをバックに、
モニターではタスキギー航空隊の動画がエンドレスで流れています。

「多くの若いアフリカ系アメリカ人が軍航空に参入することを熱望しましたが
ことごとく人種的な理由で拒否されることになりました。

アメリカ陸軍航空隊はついに1941年、アラバマ州タスキギーで
黒人のための訓練プログラムを開始し、
その中でずば抜けて才能のあったノエル・F・パリッシュが
基地司令になりました。
戦争中、パリッシュは訓練課程に対し、
創造的なリーダーシップを提供することになります。

ベンジャミン・O・デイビスJr.は、陸軍士官学校卒。
黒人ばかりの第99戦闘飛行隊の指揮官となります。デイビスはその後ヨーロッパの戦場でタスキギーエアメンを率いました」

■ 国土防衛〜ノエル・F・パリッシュ



ノエル・フランシス・パリッシュ
Noel Francis Parrish 1909-1987

なぜこの白人さんがアフリカ系パイロットの指揮官に?
と誰しも思うわけですが、当時の飛行隊は黒人の部隊でも
指揮官まで黒人が務めるわけではなかったということです。
パリッシュはタスキギー航空隊の白人指揮官として、
プログラムをうまく運営し、成功させたという功績を持ちます。
映画「レッドテイルズ」の白人指揮官は、記憶に残る限り
それほど黒人たちの側に立っていなかったような印象ですが、
おそらく映画より実物の方が、黒人航空隊の司令官として
彼らにシンパシーを持っていたのではないかという気がします。

というのは、彼は以前紹介した黒人パイロット&教官、
コーネリアス・コフィーと個人的に親しく、
シカゴで開催されたチャレンジャーズ・エアパイロット協会のプログラムを
非常に評価していた人物の一人と言われているからです。

【なぜ”タスキギー”だったのか】

陸軍に生活のために入隊後は騎兵隊から出発して
下士官として航空パイロットの資格を取ったパリッシュは、
飛行教官、飛行学校監査官、訓練部長と順調に飛行畑で出世しました。
そして、1941年、アラバマ州のタスキギー基地に黒人だけの飛行部隊、
タスキギー陸軍飛行学校のが爆誕したとき、
大尉であったパリッシュは、指揮官に就任することが決まりました。

黒人部隊創設を後押ししたのは、公民権団体や黒人記者たちの圧力であり、
ここが「タスキギー実験」の実験場として軍に選ばれたのは、
タスキギー研究所が元々航空訓練に力を入れていたためでした。

施設、技術者、教官、そして年間を通じて飛行できる気候、と、
実験を行うための好条件が揃っていたこともあります。


スミソニアンに残された1941年の陸軍航空隊のプレスリリースですが、
こちらを全文翻訳しておきます。

「ニグロからアメリカ航空隊へ」
歴史上初めて、来週空軍は飛行士官候補生として黒人を募集します。
(最終的な計画はまだ未定、正確な日付は月曜に確認)

有色隊員は白人と全く同じ条件で採用されます。
身体テスト、適正テストも同じに実施されます。
黒人隊員の選択は空軍が現在白人に使用しているシステムと同じ条件で行われ
募集は軍団管区、特にその管区の飛行場で行われます(場所は未定)

優先される入隊者はCAAトレーニングを受けたことのある者です。
これまでのCAAはKomingニグロパイロットを訓練してきました。

彼らはタスキギー研究所近くの飛行場で訓練を受けます。

陸軍省はフィールドの建設をまだ開始していないので、
おそらく来年の秋まで実施はできないでしょう。

入隊者は現場で基本から高度なトレーニングを受けます。
予備訓練は承認された契約校で行われ、
地上要員はシャヌート飛行場で訓練を受ける予定です。
パイロットの最初の受け入れ人数は33名。
訓練を行うのは白人教官です。

卒業した者は少尉に任官することになります。

カラード・トレーニングプログラムを継続する場合は、
有色人種の士官としてインストラクターを務めることになります。

黒人の士官候補生は、毎年40人から50人になる予定で、
彼らの先頭中隊は、白人部隊から分離されます。
航空隊の関係者はその考えにうんざりしているようで、
皆あまり良い感触を持っていないようです。
なぜなら彼らはニグロの飛行能力に疑問を持っているからで、
特に軍の航空は民間とは違う、という指摘もあるようです。

黒人たちはもちろんこれを歓迎しています。
最後に何やら不穏な報告がされています。
後述しますが、黒人飛行隊については、各方面から
反対意見があらゆる時点で巻き起こることになります。



1941年、エレノア・ルーズベルトがタスキギーの視察中、思いつきで
チャールズ・"チーフ"・アンダーソンが操縦する飛行機に乗り、
基地周辺を40分間遊覧飛行したときの写真です。

ルーズベルト夫人がこの「古代から飛行機に乗っていた人」
とあだ名される超ベテランチーフの飛行機に乗ったことは、
後世の人が思うように偶然や気まぐれの産物ではなかった、と、
わたしは今回確信しましたので、その理由を説明します。
まず、戦争の激化に伴い、飛行要員に有色人種を採用するという案は、
おそらく国家単位の組織から生まれてきたものだと思うのです。

飛行要員の訓練は、長期間を要し、人員の確保が難しく、
しかも本格的に戦争に投入されるとなると、当然予想される、
激しい消耗をどう補うかという問題が起きてきます。
「ブラック・ライブズ・マター」は黒人の人権問題ですが、
本音で言うと、当時二流市民であった黒人の命ならば、
多少の権利を付与したとしても、戦争に投入させるのは
十分見返りがあると考えた結果ではないでしょうか。

しかし、その「多少の権利」というのが問題でした。

それまでの彼らに対する社会的な扱いの低さが酷すぎたため、
この計画は、まず入り口に立ちはだかる人種差別の印象を
なんとか跳ね除ける必要があったわけです。
そこで、大統領夫人が突如気まぐれを起こし、
黒人パイロットの操縦する飛行機にのってフライトを行い、
大統領夫人は大変ご満悦であった、というカバーストーリーを
誰かが描いたのではないか、というのがわたしの想像です。

この事件が、世間の印象を変え(たように報じられ)、
その後、タスキギーのプログラムは拡大され、
第二次世界大戦中のアフリカ系アメリカ人の航空の中心となり、
部隊のメンバーはタスキギー・エアメンとして知られるようになりました。

黒人部隊を創設したい上層部にとっては、
その道筋をつけたこの事件は(もし仕組んだものであったら)成功でした。

だからこそわたしはエレノアの事件が「やらせ」だと信じるわけです。
おそらくこの事件がなければ、創設に漕ぎ着けるのは不可能だったでしょう。

しかしながら、創設の道筋がついた後も、
黒人ばかりの飛行隊に対する反発は凄まじく、
我々が思う以上に問題が山積していました。まず、当初から起こってきた問題を見ていきましょう。

【初期の問題】

タスキギーに黒人航空要員養成学校ができるというニュースが広がると、
案の定、この地域の白人たちは、猛烈な反対を唱えました。

黒人の憲兵が白人を取り締まったり、軍用武器を振りかざして(と見える)
町をパトロールしていたことも、彼らの「癪の種」だったようです。

これに対し、初代指揮官ジェームス・エリソン少佐は(勿論白人)、
黒人憲兵を保護する立場でしたが、そのせいですぐに指揮を解かれます。

その後に来た大佐は完璧な分離主義者で、早速分離政策を取りました。

黒人系のメディアがこれに抗議すると、上層部は大佐を昇進・異動させ、
ノエル・パリッシュが「訓練部長」として指揮を執ることになったのでした。

タスキギー基地はこの間のゴタゴタで配属が滞り、そのせいで、
任務を持たない黒人士官が過剰になる事態となっていました。

着任したパリッシュは、結果として大規模な人種差別撤廃を断行します。
しかしそれは「逆差別」的な甘やかしではありませんでした。

人事はプロ意識と個人の能力、技術、判断力を基準としたもので、
黒人の訓練生に白人と全く同じように高い水準のパフォーマンスを求め、
その基準に達しない者は遠慮なくプログラムから外されるというものでした。

また、これまでレクリエーションが顧みられない状態だったので
パリッシュは有名人の訪問や公演を手配するなどということもしています。


ジャズシンガー・レナ・ホーンとパリッシュ(右)
左も多分有名な人

タスキギーに慰安のため招聘されたアーティストは、アフリカ系が中心で、

レナ・ホーン、ジョー・ルイス、エラ・フィッツジェラルド、
レイ・ロビンソン、ルイ・アームストロング、ラングストン・ヒューズ

などジャズに詳しい人が見たらレジェンド級の眩い顔ぶれでした。


【タスキギー陸軍飛行場司令官 パリッシュ】
左から2番目:パリッシュ
右へ:飛行教官ルーク・ウェザーズ大尉、
ベンジャミン・O・デービスJr.少佐
タスキギーインスティチュートプレジデント フレデリック・パターソン博士

陸軍航空隊は、1941年、アラバマ州タスキーギ研究所近くに
ついにタスキーギ陸軍飛行場を設立しました。

タスキギー陸軍飛行場(TAAF)の開発と建設などにも
黒人系の建設・施工・土木業者が選ばれたということです。
(これはもしかしたら白人系が引き受けなかった可能性もありますが)
1941年1月にはついに黒人航空部隊の編成が発表され、
すぐに部隊は活動を開始しました。

1942年末にタスキーギ陸軍飛行場司令官に昇進したパリッシュは、
プログラムの成功に重要な役割を果たすことになります。

まず、最初のクラスから5人の生徒が1942年3月に卒業しました。
彼らのうち最初に将校飛行士候補者となった12人は、黒人記者によって

「この国の有色人種の若者の頂点」

と称されるなど、このプログラム自体が黒人の身分にとって画期的でした。

おいっちにーさーんしー
ほとんどの訓練は白人教官が指導することになりましたが、
この体育の授業らしきものは、黒人教官がおこなっているようです。

250名を越える入営者は、訓練を受ける最初の黒人のグループとなり、
2年後には地中海作戦地域に戦闘配置されることになりました。

「タスキギーエアメン実験」を構成したのは黒人パイロット、教官、
整備・支援スタッフ、そしてそれを統率する指揮官でした。


【タスキギー飛行士実験の成果】

「タスキギー飛行士実験」は、黒人が、指導者としても戦闘員としても、
優れた能力を発揮できることが最終的に証明されることになりましたが、
この成果を得ることができたのは、パリッシュの功績でもあります。

この計画が軌道に乗るまで、黒人飛行士官の育成には
人種偏見からくる大きな抵抗があったことは先ほど書きましたが、
司令官として、パリッシュがこれに苦しまなかったわけがありません。

人は人種ではなく、能力によって判断されるべきだと考えていた彼は、
しばしばワシントンDCから落ち込んで帰ってくることがありました。
彼がタスキギーエアメンの直接の指揮を執ったのは、
実は1945年の第二次世界大戦の終わりから1946年8月まで、
わずか1年間にすぎません。

この間、戦争は終わり、その代わり、今度は
アメリカ軍の人種統合の闘いが加熱していました。

そして、事実上すべてのアメリカ軍の部隊司令官が、

「黒人は白人に比べて訓練に時間がかかり、成績が悪い」

とする報告書を提出していたことはあまり知られていません。

これは公民権運動が勃興する何年も前でもあり、白人ばかりの軍上層部は
相変わらず拭いがたい分離の壁をほとんどが築いていました。

しかし、ノエル・パリッシュはそうではありませんでした。

彼は、繰り返しますが、黒人の能力を黒人というだけで切り捨てず、
公平な報告書を提出した数少ない司令官のうちの一人でした。

例えば、パリッシュの報告書には、次のように記されています。

「ヨーロッパで爆撃機のパイロットが不足したとき、
戦闘機の操縦には、爆撃機の操縦とは全く違う技術が必要なのに、
十分に訓練された黒人の爆撃機のパイロットがいるにもかかわらず、
代わりに白人の戦闘機のパイロットが送り込まれたことがあった」

「陸軍航空隊の将校は、その科学的な解決力も卓越しているとされる。
工学的人事問題についての知見はなんら問題はないとされるのに、
彼らは得てして人種や少数派の問題に対して、最も非科学的な独断と
偏見を持った態度でアプローチするのにはがっかりさせられる事実だ」

「我々が黒人を好きであろうと嫌いであろうと、
彼らは他の市民と同じ権利と特権を持つアメリカ合衆国の市民である」


戦争が終わり、公民権運動の嵐も過ぎ去った数十年後のある日のことです。
タスキギーでタスキギー飛行隊の同窓会が行われました。

会場でノエル・パリッシュ准将の名前が呼ばれると、
そこにいた全員がスタンディングオベーションで彼を迎えました。

黒人である彼ら自身が、この司令官の公平性をよく知っていたのです。


戦後、第二次世界大戦中はあくまでも実験的だった
AAF(アフリカ系航空隊、アフリカンエアフォース)
ですが、軍はその経験から、運用方針を見直す必要があると考えました。

AAFの指導者たちは、黒人と白人の両方のグループを共存させ、
討論し調整することで、積極的な取り組み、リーダーシップ、機会の平等、
より費用対効果の高い軍隊を生み出すという結論に至ったのです。

つまり、タスキギー飛行隊実験は成功しました。

それを受けて、1948年、ハリー・トルーマン大統領は、
軍隊における待遇と機会の平等に関する大統領令に署名します。


【ノエル・パリッシュ准将】
The Rice University alum who became part of history with the Tuskegee Airmen 
パリッシュが卒業し、PhDを取ったライス大学が製作した
「パリッシュなくしてタスキギーエアメンなし」のビデオです。
ちなみにこのビデオでは「タスキーギ」と発音されていました。
だからどっちやねん。


パリッシュは2度結婚しており、2度目の妻は
フローレンス・タッカー・パリッシュ=セント・ジョン博士。
詳しいことは分かりませんが、どうも医師だったようです。

パリッシュはペンネームで雑誌記事を書き、音楽と絵にも関心を持ち、
40歳にして大学で博士号を取るなど向学心にもあふれた知的な人物でした。外見も魅力的で機知に富み、好感の持てる男性で、
年齢よりも若く見え、女性に大いにモテてもいたようです。

彼はタスキギーに赴任するまでは、黒人の運動などに関わっていません。
が、彼の生まれは全くその問題とは無縁な土地ではなく、少年時代、
3マイル歩いて黒人がリンチされた場所を見に行ったりしています。

後年、黒人のパイロットや整備士を訓練するプロジェクトについて
彼が関わることになった時、その話を聞いた白人たちが、
しばしば「奇妙で心配そうなある種の笑い」を浮かべるのを目にしたり、
ヨーロッパでは、イギリスの飛行エースが、

"Messerschmitt on his tail than to try to teach a Negro to fly".
「黒人に飛行を教えるくらいならメッサーシュミットに追われる方がマシだ」

とまで言い放ったのを実際に耳にしたと告白しています。

ノエル・パリッシュは1964年10月1日に空軍を退役し、准将となりました。

博士号を取得した母校ライス大学の歴史学教授として教壇に立っていましたが
1987年4月7日、心停止によりメリーランド州で死去しています。

彼の葬儀で、黒人将官、デイヴィス・ジュニア中将はこう述べました。
「パリッシュ准将は、黒人が飛行機の操縦を学べると信じていた
当時唯一の白人だったかもしれない」



1948年、ハリー・トルーマン大統領政権下、
アメリカ軍の差別撤廃が決定しました。



タスキギー・エアメンの最高賞は、その名を冠して、
「ノエル・F・パリッシュ准将賞」と名付けられています。

ノエル・パリッシュが、その賢明なリーダーシップと、
黒人士官候補生に対する厳正で公平な扱いによって変えたものは、
軍隊における人種的分離状態だけではありませんでした。
それは、黒人飛行士たちの士気、彼らの生活条件、軍内の黒人と白人の関係、
および黒人と軍隊との関係全てにとどまらず、タスキギーの町における黒人と白人の関係さえも改善したといわれます。


続く。


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