いろいろと間に挟まって中断されていましたが、
スミソニアン博物館展示の航空シリーズの続きをやります。
これも途中までになっていた黒人ばかりの航空隊、
タスキギー・エアメン展示から、黒人で初めて将軍までなった
ベンジャミン・O・デイヴィスJr.についてもう一度お話しします。
「Into Combat」(戦闘への投入)としてまず、
「デイビスは、第二次世界大戦中、北アフリカ、
そしてイタリアにおける空中戦において
ナチスドイツから味方の長距離爆撃機を援護する任務で
タスキギー・エアメンを率いました」
とあります。
■ ベンジャミン・O・デイヴィスJr.
タスキギー・エアメンの物語は、ベンジャミン・O・デイヴィスJr.の生涯と
そのキャリアなしで語ることはできません。
ベンジャミン・オリバー・デイヴィス・ジュニアは、
1912年ワシントンDCで、ベンジャミン・O・デイヴィス・シニアと
エルノーラ・ディッカーソンの3人の子供の2番目に生まれました。
父のデイヴィス・シニアはアメリカ陸軍で最初に黒人将校になった人物です。
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なぜこの時代、デイヴィス・シニアが将官になれたのか、
不思議に思われる方もおられるでしょうか。
それには、フランクリン・ルーズベルトのニューディール政策時代当時、
つまり1940年ごろは、黒人ばかりの航空隊を結成するのに
ルーズベルト妻が一役買ったことでもわかるように、
アフリカ系アメリカ人に対して寛容であった時期があったからでした。
戦争前夜ということもあって、政府はアフリカ系の役割拡大を画策しており、
分離された黒人部隊の司令官に黒人を任命することも行われました。
そんな中、バッファロー・ソルジャー(黒人陸軍部隊)出身で、
優秀だったため、戦術学の教授まで務めた経験のあるデイヴィス・シニアは、
ごく限定的な責任を負う権限しかなかったとはいえ、
黒人で初めて准将にまでなることができた人物でした。
ちなみにデイヴィス・シニアの最初の妻(デイヴィス・ジュニアの母)は、
3人目の子供が産まれてすぐ合併症で世を去り、シニアは再婚しています。
デイヴィスJr.がパイロットになったきっかけは、
彼が13歳の1926年夏、ワシントンD.C.で開かれた航空ショーで、
バーンストーミング(航空ショー)パイロットの操縦する飛行機に
搭乗したという経験でした。
当時、多くのアフリカ系アメリカ人の若者が、航空の世界を知った時、
まだそこには伝統的な階層階級が存在せず、
自分たちも自由に羽ばたけるかもれしれないと希望を持ちましたが、
彼もまた、この世界に可能性を見出したのかもしれません。
【ウェストポイント入学】
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普通大学を卒業した後、彼は陸軍士官学校、ウェストポイントに入学します。
士官学校を受験するには、国会議員の推薦が必要となるので、
彼は当時唯一の黒人議員であったシカゴ選出の
オスカー・デプリースト下院議員(イリノイ州選出)の後援を受けました。
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公民権運動を行い、反リンチ法などを提出した人
4年間の在学中、デイヴィスはクラスメートから完全に孤立しており、
必要なこと以外で声をかける者は、ほとんどいなかったといいます。
ウェストポイントのドミトリー(宿舎)は二人一部屋が普通ですが、
デイヴィスだけは一人部屋で、食事も一人で取らされていました。
黒人が同じ士官候補生であることを疎ましく思う同級生たちは、
当初彼が士官学校から追い出されることを期待していたかもしれません。
しかし、彼はその重圧の中、より課題に懸命に取り組みました。
そして4年後、1936年の年鑑「ハウザー」(榴弾砲の意)掲載の
彼の写真の下には、このように記されていました。
「プリーブ(1年生)の年とは比べものにならないほど
難しい課程を克服した勇気、粘り強さ、知性は、
クラスメートの心からの賞賛を得た。
そして、自分の選んだキャリアを諦めないその一途な決意は、
彼が将来どんな道を選ぼうとも、尊敬を集めないわけがないだろう」
1936年6月、彼は級友から心からの尊敬を集める存在として、
276名のクラスの35番という成績で卒業します。
しかしながら、3年生になり、航空隊の配属を志願した彼は、
アフリカ系アメリカ人であることから不合格を言い渡されています。
彼が少尉に任官した当時、陸軍に存在したチャプレン以外の黒人将校は、
ベンジャミン・O・デイヴィスSr.とベンジャミン・O・デイヴィスJr.、
この二人のデイヴィスだけ、そう、つまりデイヴィス父子だけでした。
彼父の配属は分離された黒人歩兵連隊、バッファローソルジャー部隊であり、
当然のように将校クラブに入ることはできませんでした。
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デイヴィスJr.は卒業後、ウェストポイントでの士官候補生時代に出会った
アガタ・スコットと結婚しました。
【タスキギー航空隊へ】
1937年、デイヴィスはアラバマ州タスキギーの黒人大学である
タスキギー・インスティテュートで軍事戦術を教えることになりました。
彼の父デイヴィスsr.も数年前に全く同じコースをたどっています。
これは決して偶然ではなく将校になってしまった黒人の「行き場」として
陸軍が考えた、最も無難な配置というべき措置でした。
白人兵を黒人が指揮するということは人種的にあってはならないので、
黒人将校は、黒人の訓練機関で指導をさせるしか使い道がなかったのです。
1941年初頭、ルーズベルト政権は、戦争が近づくにつれ、
黒人の軍への参加拡大を求める国民の圧力に応え、
ついに陸軍省に黒人の飛行部隊を創設するよう命じました。
そして、その頃大尉となっていたデイヴィス大尉は、
タスキーギ陸軍飛行場での最初の訓練クラスに配属されることになります。
(これがタスキーギ・エアメンという名前の由来)
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タスキーギで最初にウィングマークを獲得したクラスは、
新しく創設された第99戦闘飛行隊の中核をなすことになりました。
AT-6訓練機の前に立つ、
(左より)チャールズ・S・ロバーツ大尉 Charles Roberts
ベンジャミン・O・デイヴィスJr.大尉 Benjamin Davis
チャールズ・デボーJr.中尉 Charles Debow
マック・ロス中尉、Mac Ross
レミュエル・R・カスティス中尉 Lemuel Custis
1942年3月、ともに航空士官学校の訓練を修了したメンバーです。
デイヴィスJr.と4人の同級生は、アメリカ軍創設以来初めての
アフリカ系アメリカ人戦闘機パイロットとなったのでした。
のみならず彼らは陸軍航空隊の航空機を操縦した
最初のアフリカ系アメリカ人将校でした。
【第99戦闘航空隊司令】
その後中佐に昇進した彼は、初の黒人だけの航空部隊である
第99追跡飛行隊の司令官に任命されました。
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カーチスP-40戦闘機を装備したこの飛行隊は、
1943年春に北アフリカのチュニジアに派遣されました。
そして、コークスクリュー作戦の一環として、ドイツが支配する
パンテレリア島に対する急降下爆撃の任務で、初めて戦闘を行います。
コークスクリュー作戦は、第二次世界大戦中、シチリア島侵攻に先立ち、
イタリアのパンテレリア島(シチリア島とチュニジアの間)侵攻作戦です。
島を防衛するイタリア軍守備隊に対しイギリス海軍の機動部隊と共に
アメリカも戦闘機、中型機、重爆撃機による5,285回の爆撃が行われ、
タスキギー航空隊もこれに参加したということになります。
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爆撃された燃料倉庫の横を走るイタリア軍兵士
ただし、この時、イタリア軍の守備隊長は前夜、
ローマに降伏の許可を求め、その日の朝に許可を受けており、
イギリス軍の最初の上陸のときには、既に降伏したあとでした。
つまり戦闘する必要はなかったということです。
ヘタリア伝説かな。
ただしこの時の空爆で直撃された砲台は2門だけで、17門がニアミス、
34門が破片や破片で損傷。
攻撃側の重爆撃機の精度は 3.3%、中爆撃機は 6.4%、
軽戦闘機は 2.6% ということで決して高い練度ではありません。
【第332戦闘機群〜”レッド・テイルズ”】
1943年9月、デイヴィスはアメリカに帰国し、海外進出を準備していた
より大規模な黒人部隊、第332戦闘機群の指揮を執ることになります。
この時、デイヴィスは黒人飛行部隊に対する人種偏見と
真っ向から戦うことになったのです。
アメリカに到着後すぐに、黒人パイロットを航空戦闘に参加させるのを
やめさせようという動きが、どこからともなく起こってきました。
陸軍航空部隊の某上官が、陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル将軍に、
第99飛行隊の成績が悪いとして作戦から外すことを勧告したのです。
確かに先ほどの数字によるとイタリアでの攻撃精度は高くありません。
それはデイヴィスの部隊に限らず全体的な傾向に過ぎなかったのですが。
もちろんデイヴィスJr.はこれに激怒しました。
これまで部隊に欠陥があるなどとは言われたこともなかったからです。
デイヴィスは早速ペンタゴンで記者会見を開いて部隊を擁護し、
陸軍省の黒人軍人の活用を検討する委員会に弁明を行いました。
これを受けてマーシャル将軍はあらたに調査を命じましたが、
その間第99師団の戦闘行為を中止させることはしていません。
そんな1944年1月、アンツィオ防衛を行なっていた第99飛行隊が
2日間で12機(11機という説も)の敵機を撃墜するという成績を挙げます。
この時彼らが乗っていたP-40Lは、フォッケウルフFW−190より
80マイルも速度が遅かったにもかかわらず。
このことは国内に向けて、この部隊、ひいては
黒人パイロットの適性についての証明となりました。
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ハーバート・クラーク少佐(のちに被撃墜、地上でパルチザン活動を行う)
レオン・ロバーツ中尉1機撃墜(のちに墜落、戦死)
ウィリー・フラー中尉
ウィリアム・キャンベル中尉(戦後空軍で活躍)
アーウィン・ローレンス中尉(煙幕ケーブルに激突、戦死)
デイヴィス大佐の率いる第332戦闘機隊は、イタリアに到着します。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/82/76d20d6c849026075c0fff618304f966.jpg)
イタリアのアドリア海沿岸に位置するラミテッリ空軍基地は、
1944年から5年にかけて、デイヴィスの指揮する
第332戦闘機グループの本拠地となりました。
パイロットは第15空軍の戦略爆撃作戦を支援するために
P-51マスタング戦闘機をドイツの上空奥深くまで飛行させました。
時には彼らはベルリンへの長距離護衛任務で、
1600マイルの往復飛行を完遂していました。
映画「レッド・テイルズ」では、黒人に護衛されることを嫌悪する
白人爆撃機パイロットが、自分の身の危険を顧みず
爆撃機を守って撃墜されていくのに感動して泣くシーンがあります。
そして、映画のラストに現れる字幕には、確か、
「護衛した爆撃機を一機も失わなかった」
とあった記憶があります。
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P-51マスタングのコクピットに座って
ウィリアム・トンプソン(中央)らと話しているデイヴィスJr.。
4個飛行隊からなるこのグループは、機体の特徴的なマーキングから
「レッドテイルズ」と呼ばれました。
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これは映画のポスター
1944年夏には、マスタングからP-47サンダーボルトに移行しました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/85/ae815672d6b4919686a43584ce5f447d.jpg)
「200」と書かれた紙の前で、エスコートミッション、
掩護任務が200回を超えたということを
第332ファイターグループのエアメンに告知しているデイヴィス。
1945年イタリアのラミテッリ航空基地にて。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/eb/71a74ba2bfb5a82dce20806bd72e0a60.jpg)
下の可愛らしい絵は、第332戦闘機隊のメンバーの描いたもので、
基地のあったラミテッリの風景だそうです。
1945年夏、デイヴィスはケンタッキーにあった
黒人だけの第477爆撃隊を引き継いで指揮を執りました。
戦争中、デイヴィスJr.の指揮する飛行隊は、
ドイツ空軍との戦闘で素晴らしい記録を残しました。
出撃回数 15,000回以上
撃墜 12機
地上での撃破 273機
損失、戦闘機66機爆撃機 25機。
デイヴィス自身はP-47とP-51マスタングで67回のミッションを指揮。
彼はオーストリアへのストラフリングランで銀星章を、
ミュンヘンへの爆撃機護衛任務で殊勲飛行十字章を受章しました。
■ 軍隊の人種差別撤廃
1948年7月、ハリー・トルーマン大統領は、
軍隊の人種統合を命じる大統領令9981号に署名しました。
このときデイヴィス大佐は大統領令を実施するための
空軍計画の起草に直接携わっています。
アメリカ陸海空軍の中で空軍は、最初に完全統合されることになりました。
1949年、デイヴィスは空軍大学に入学し、
その後20年にわたり国防総省や海外赴任先で勤務を行いました。
1953年、朝鮮戦争が開始されると、デイヴィスは
第51戦闘機迎撃飛行隊(51FIW)の指揮官として再び戦闘に参加し、
朝鮮半島の戦闘ではF-86セイバーに搭乗しています。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/f4/1e19d6f28ca8b5e7824d5ef227773391.jpg)
デイヴィスはこの時期、日本に赴任しています。
1954年から1955年まで東京の極東空軍本部で作戦・訓練部長を務め、
東京滞在中に一時的に第13空軍副司令官として准将に昇格したのです。
その後米国に戻り、米国空軍本部での勤務を経て少将に昇進を、
そして4年後の1965年中将に昇進し、1967年、
フィリピンのクラーク空軍基地で第13空軍の司令官に就任しました。
もちろんこの頃には、軍における人種分離策は撤廃されており、
デイヴィス司令官の部隊には普通に白人がいたことも付け加えておきます。
デイヴィスJr.の現役での最終配置は、アメリカ打撃司令部副司令官。
さらに中東・南アジア・アフリカの司令官としての任務も担い、
1970年に現役を退きました。
■四つ星
1998年12月9日、デイヴィスJr.はビル・クリントン大統領政権下、
アメリカ空軍大将(退役)に昇進し、四つ星記章を獲得しました。
![](http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/a7/495f9927e50f10a4c344838b4dfd5ba8.png)
クリーブランドのO・A・チルドレス博士(自由人権委員会委員長)から
フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領への書簡で、
ベンジャミン・O・デイヴィスを准将に任命することを賞賛しています。
アメリカ合衆国大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルト閣下
拝啓
我々は、最近閣下が決定されたベンジャミン・O・デイヴィスの
アメリカ陸軍准将への任命に感謝の意を表します。
これはあなたがニグロアメリカンのために行なってきた
多くのことの中でも、特筆すべきことであります。
実際、我々はそれがその中でも最高のものであり
彼の優秀さと功績に対するあなたの認識を非常に光栄に思っております。
2002年、デイヴィスJr.の妻アガサが3月10日、94歳で死去すると、
その4ヶ月後の7月17日、デイヴィスも後を追うように亡くなりました。
デイヴィスは一足先にアーリントン国立墓地に眠っていた妻と並んで葬られ、
葬儀の際には、彼が第二次世界大戦の時乗っていたのと同じ、
レッドテイル仕様のP-51マスタングが上空を飛行したということです。
続く。