「我々を飛ばせてください!」
アフリカ系アメリカ人搭乗員が訴えているのは
War Bond、つまり戦時国債を買おうという呼びかけ。
「ヴィクトリー・ボンド」とも呼ばれていた戦時国債とは、
政府が発行する負債証券で、つまり国民に買わせて
戦争に必要なお金を集めるための方法です。
いうならばアメリカ国民が戦費のために
政府に資金を貸し付けて、政府がそれを運用するわけです。
プロパガンダとして行われる戦時国債の購入の呼びかけには、
必ず愛国心や良心へのアピールが伴いました。
アメリカで戦時国債を推し進めたのは、ヘンリー・モーゲンソーです。
1940年の秋、プロパガンダを専門とする政治学者に協力を求め、
財務省は以前成功した「赤ちゃん国債」を「防衛債」に替えて販売しました。
1941年12月7日に日本軍が真珠湾を攻撃し、米国が参戦すると、
債券の名称は最終的に戦時国債に変更されることになります。
宣伝のために、あらゆるアート関係が動員されました。
Warner Brothers | Any Bonds Today | 1942
「国際を買おう」と踊るバックス・バニー。
以前当ブログでも詳しく説明したことがある、
ノーマン・ロックウェルの「四つの自由」とか。
面白い?のは、アメリカは国債を買わせるために、例えば宗教の教義で
戦争を遂行することに協力することを禁じられている
クェーカーやメノナイト、ブレザレン教徒のための代替として、
「War」と書かれていない国債を販売していたことです。
冒頭のアフリカ系パイロットを使ったポスターも、
ある意味そういった役割を担っていたかもしれません。
アフリカ系が航空分野に進出し、剰え士官になることに反発していた
当時のKKK寄りの白人はこれを見て面白くないかもしれませんが、
流石にこれを見て国債を買わないというくらいの黒人嫌いより、
これを見て国債を買おうと思う黒人の方が多いに違いないからです。
国債はその辺うまくできていて、例えば「戦時国債」と書かれた
10セントの切手もあって、これは何枚か集めて
財務省公認のアルバムにコレクションするなどということもできました。
子供でもお小遣いで買うことができるのがミソです。
国債を集めるための宣伝活動として、
軍楽隊がコンサートに回ったり、あるいは地元の野球チームと
タスキギー飛行隊のメンバーとの親善試合、なんてのもあったようです。
ちなみにこのポスターの飛行士にはモデルがいて、
タスキギー・エアメンのウィリアム・ディアスWilliam Diezだそうです。
実物の方が明らかにイケメン
■ 防衛隊(On The Home Front)
さて、アラバマ州タスキギー航空基地は、お話ししてきた通り、
アフリカ系アメリカ人の戦闘機ならびに爆撃機パイロット養成のための
Vital Center、中心となりました。
タスキギー航空基地で、主任飛行教官の
C・アルフレッド「チーフ」アンダーソンの操縦する飛行機に乗る
エレノア・ルーズベルト大統領夫人の図。
またこれか、と言わず、今日は別の話ですので我慢してください。
エレノア・ルーズベルトのこの時の「気まぐれ飛行」が
本当に気まぐれだったのか、実はそうではなかったのかはともかく、
大統領夫人が飛行機に乗るのが好きだったことは間違いありません。
そして、アメリカ軍の中の人種平等を公然と推進していたのも事実でした。
無邪気な天性のリベラルであったらしい彼女は、
「他民族に対する愚かな偏見」を嫌い、真珠湾攻撃直後には
わざわざカリフォルニアの日系アメリカ人たちと一緒に写真を撮ったりして、
多くの「保守派」アメリカ人の怒りを買ったりしています。
「本当に忠実なアメリカ市民のために」
という信念のもと、日系アメリカ人の権利も守られるべきだとし、
政府によって凍結された日系人の資産から生活費を引き出せるように、
ワシントンの政府高官に直々に掛け合ったりもしています。
日系人たちとは手紙をやりとりし、収容所を訪問し、資材を寄付、
奨学金の設立と、彼女は考えられる限りの方法で支援を行いました。
そのせいで、彼女は有形無形の脅迫も受けていたらしく、
いつの間にかピストルを携帯するようになっていたと言われます。
あるとき「最も恐れていることは何か」と問われた彼女は、
「恐れること・・・それは、
肉体的、精神的、道徳的な恐れの結果、
自分の正直な信念からではなく、
恐怖によって及ぼされる影響に甘んじること」
と答えました。
「ホームフロント」とタイトルされたコーナーの写真より。
アフリカ系アメリカ人の男女が航空機の組み立て工場で作業しています。
パイロットやエンジニアだけでなく、当時アフリカ系は
あらゆる防衛産業に労働力を提供していました。
■ INTO COMBAT〜 実戦への投入
リンクウッド・ウィリアムズ Linkwood Williams
練習機の横に立つウィリアムズ。
タスキギー飛行士の中でもインストラクターを務めるほど、
才能のある黒人飛行士の一人でした。
そうして創立され、訓練を受けたタスキギー航空隊のメンバーが
いよいよ実戦に投入される時がやってきました。
戦闘に投入されたタスキギー・エアメンの紹介です。
コカコーラの瓶を持って
チャールズ・B・ホール
Charles Blakesly "Buster" Hall 1920-1971
「バスター」というあだ名をつけられたホールは、第二次世界大戦中、
アフリカ系メディアによって最も評価されたパイロットでした。
彼はまた、敵機撃墜した戦闘機パイロットとしての、
初めてのアフリカ系アメリカ人という称号を持っています。
インディアナ州の窯焼き職人の家に生まれた彼は、
学業、フットボール、陸上競技で優秀な成績を収め、
イースタン・イリノイ大学では、医学部予科を専攻しました。
大学在学中は学費を稼ぐため、勉強しながらボーイをしていたそうです。
1941年、航空士官候補生としてアメリカ陸軍航空隊に入隊し、
タスキギー軍飛行場で上級飛行士候補生の訓練をうけ、
ウィングマーク取得と同時に、士官任官を果たしたホールは、
その後第332戦闘航空群第99戦闘航空隊に配属されました。
「バスター」(やっつける人みたいな意味)というあだ名は
彼が戦闘機パイロットとして実績を上げてからつけられたものです。
第99戦闘機隊のメンバーとして北アフリカ、イタリア、地中海、
ヨーロッパで通算198のミッションをこなしました。
初撃墜は1943年7月、シチリアのカステルベトラノ飛行場を爆撃する
B-25中型爆撃機の護衛任務に就いた彼は、
P-40でドイツのフォッケウルフFw190 Würgerを初撃墜し、同時に
敵機を撃墜した最初のアフリカ系戦闘機パイロットとなったのです。
その日の帰投後、初勝利を祝って、第99戦闘飛行隊は、
シャンパンの代わりに、最後に冷えたコカ・コーラのボトルを
「バスター」ホールに与えました。
この写真で、ホールが持っているのはその時の「勝利のコカコーラ」です。
しかもこの撃墜は、1943年に99戦闘飛行隊が唯一獲得したものでした。
彼はこの功績により、殊勲十字章を獲得しましたが、
もちろんこれもアフリカ系アメリカ人で初めての快挙でした。
彼はすぐにアフリカ系マスコミのスターになり、
いくつものアフリカ系新聞がホールの勝利を大々的に報じました。
例えばピッツバーグ・クーリエ紙には、
「99戦闘機隊のパイロットがナチの飛行機を落とす」
という文字が大見出しに踊り、彼の似顔が早速描かれました。
また、連合国最高司令官ドワイト・アイゼンハワー将軍は、
ジミー・ドーリトル将軍やカール・スパッツ将軍などの将官とともに
北アフリカの部隊を訪問した際、第99戦闘飛行隊の基地を訪れて
バスター・ホールを個人的に祝福しています。
彼の活躍に牽引された黒人飛行隊第99部隊はさらに快進撃を行いました。
1944年、イタリアのアンツィオではFW190の大編隊を迎撃した際、
11機のドイツ軍機を撃墜し、国内を驚かせます。
すでに大尉となっていたホールは、この空戦で2機のFW190を撃墜し、
空中戦での勝利を3に伸ばし、またしても殊勲十字章を獲得しました。
第二次世界大戦中、第332戦闘機隊パイロットのうち、
9人が、3機撃墜を記録していますが、ホールはその一人となります。
アンドリュー・D・ミッチェル中尉 Andrew D. Mitchell
写真は、ギリシャ上空で撃墜されたあと、無事に基地に帰還をして、
メディアのインタビューを受けるミッチェル大尉です。
彼が撃墜されたのは、第51兵員輸送航空団の護衛任務でのことでした。
敵地に降りた彼を、現地のパルチザンが匿ってくれ、
連合国に逃げ延びる手伝いをしてくれたことなどを語っています。
額の包帯はそのときの怪我がまだ癒えていなかったということでしょう。
アーウィン・B・ローレンス大尉 Erwin B. Lawrence
ローレンス大尉は1944年ギリシャのドイツ空軍基地への爆撃任務中、
戦死したタスキギー航空隊員です。
タスキギーの最初の卒業生であったローレンスは、この時
第99戦闘機隊を率い、北アフリカ、次いでイタリアで任務を行いました。
1月27日、ドイツ軍のアンツィオを急襲の際、少尉だったローレンスは
FW-190と交戦して、これを撃墜し初勝利を挙げました。
3ヵ月後、ローレンスは大尉に昇進し(スピード昇進がすごい)
第99戦闘飛行隊の指揮官として、いくつかの護衛任務を指揮しました。
ローレンス大尉は、P-40とP-51に乗って、
1年半の間に100回近い任務を遂行し、戦死しました。
イタリアのフィレンツェにあるアメリカ人墓地に埋葬されています。
リー・A・アーチャー大尉 Lee A. Archer
第二次世界大戦中の第332航空隊の中で、
彼もまた最も優れた戦闘機パイロットの一人と称賛されます。
第二次世界大戦中、アーチャーは爆撃機の護衛、偵察、地上攻撃など、
169の戦闘任務をこなし、4機の敵戦闘機を撃墜したと主張していましたが、
彼の死後、この主張には論争が起こっているそうです。
(撃墜数に疑義が起こるのは当時のあるあるですが)
しかし、彼が1日の戦闘で3回の空戦勝利を収めたのは確かです。
ちなみに、タスキギーエアメンには、アーチャーと同じく、
一回の出撃で3機を撃墜したパイロットが4名もおり、
他の3人は、ジョセフ・エルスベリー、クラレンス・レスター、
ハリー・T・スチュワート・ジュニアであることもわかっていますが、
残念ながら他戦闘機パイロットほど彼らは有名ではありません。
■ スコードロンマーク
第99戦闘機隊 第100戦闘機隊(レッドテイルズ)
第302戦闘機隊 第301戦闘機隊
左から時計回りに、全てアフリカ系航空隊のマークです。
どれもキャラが心なしか「黒人ぽい」気がします。
左下のにゃんこ?は画力が微妙すぎてなんとも言えませんが。
人種差別撤廃と共に黒人だけの部隊は無くなりました。
第100戦闘機隊は冷戦後縮小された結果、不活性化されましたが、
「レッドテイルズ」の遺産を尊重するという意志から、
アラバマ州立空軍の戦闘機部隊としてイラクにも遠征をしています。
ファイティングファルコンを使用していましたが、
2023年以降はF-35ライトニングIIを装備することになっています。
第301、302戦闘機隊は現存し、いずれもF-22を装備する空軍部隊です。
そしてその上に立つ第332戦闘機群、「スピットファイア」のマーク。
戦地から手紙を書くエアメン
■ フリーマン・フィールドの反乱
最後に、本日紹介したバスター・ホール中尉も関わっていたという、
黒人将校のある反乱についてご紹介して、この章を終わります。
1945年、インディアナ州のフリーマン陸軍飛行場で事件は起こりました。
それは、黒人に使用を許されない将校クラブを、
黒人爆撃隊のメンバーが解放しようとして起こった事件でした。
第二次世界大戦は終わり、戦争への貢献を認められた黒人航空部隊でしたが、
そもそも人身から差別が撤廃されたわけではないので、
相変わらず軍には白人と黒人の分離を厳格に行う基地司令が存在し、
全ての人種に解放されるべきとされていた将校クラブも、
そんな司令の下では黒人将校のしようを禁じるといった状態のままでした。
反乱の起こったフリーマン基地の司令セルウェイ大佐は、「分離派」。
まあ平たくいうとバリバリの「差別派」で、移転先のこの基地に
将校クラブを最初から二つ、白人黒人専用と分けて作りました。
そこで黒人将校グループはこの隔離に異議を唱える行動計画を決定しました。
抗議方法は強行突破あるのみ。
まず、二組の黒人将校がクラブに入り、サービスを拒否されますが、
彼らはあえて、何回もクラブへの着席を試みました。
そのうち白人の将校が銃をむけて退席を求めるも、彼らは拒否。
ついには逮捕命令が出されても、何人かは抗議行動を続けました。
騒ぎは二日間つづき、合計61名の黒人将校が逮捕される騒ぎになりました。
基地司令セルウェイ大佐は、一旦彼らを釈放してみせ、
分離規則を受け入れるサインをすれば逮捕はしないよー、と迫りましたが、
1001人の黒人将校は、誰一人としてサインをしなかったため、
結論として162人が逮捕(そのうちの何人かは2度逮捕)されました。
逮捕された黒人将校たち
軍法会議の結果、3人は比較的軽い罪でしたが1人は有罪になりました。
ロジャー・テリー中尉(Rodger”Bill"Terry)の罪状は、白人中尉を「もみくちゃにした」というもので、150ドルの罰金、階級剥奪、
さらには不名誉除隊という厳しい判決を受けました。
驚くべきことですが、この騒動が起こったのは1945年6月。
いくらもう勝ちが見えていたとはいえ、一応日本との戦争中です。
戦争中の軍隊が、こんなことでいいのか。いやよくない。
しかし、当時はまだ公民権運動も起こる前のアメリカ、
結局この判決は覆ることなく、そのまま騒動は収められてしまいました。
その後、1995年、空軍は公式にこの時のアフリカ系将校の行動について
有罪となったテリー中尉のの軍法会議の判決を無効とし、
15人の将校を免責としました。
ちなみにたった一人有罪とされてしまったロジャー中尉ですが、元々カリフォルニア大学で法律の学位を取っていたため、
除隊後は、ロスアンゼルスの地方検事となることができました。
そして映画「レッドテイルズ」が制作されたときには、
当事者としてアドバイザーを務め、2009年に87歳で亡くなりました。
後世の公民権評論家は、この反乱について、
「軍隊の完全統合に向けた重要な一歩であり、市民的不服従を通じて
公共施設を統合しようとする、後の努力の模範である」
と評価しています。
続く。