「大西洋横断飛行」。
大西洋とは縁もゆかりもない我々日本人にはピンときませんが、
欧米の国々にとって大西洋は「横断すべきもの」でした。
少なくとも、航空機というものが発明されて以降、欧米の人々は
ヨーロッパ、アフリカ、南アジア、中東から北米、中米、南米へ、
またはその逆方向へ大西洋を横断することに夢中になりました。
大西洋を横断する=トランスアトランティックという「造語」ができ、
達成のためのコンテストが行われ、実業家は賞金を出し、
野心のある飛行家たちが名を挙げようと次々とこの課題に挑戦しました。
太平洋横断飛行には、固定翼機、飛行船、気球などが用いられたわけですが、
初期の航空機のエンジンは信頼性に乏しく、無給油で何千キロも続く
特徴のない海域を航行するのは困難を極めました。
特に北大西洋の天候は予測不可能で危険でもありましたが、
科学技術の発展と何人かの勇気あるパイオニアたちのおかげで、20世紀中頃から、商業、軍事、外交などの目的で
大西洋横断飛行が日常的に行われるようになりました。
さて、スミソニアン博物館の、ミリタリーエアのコーナーを飾る
黎明期の軍パイロットたちの写真を今一度見てみましょう。
ベッシー・コールマンを除く全員が軍人であるわけですが、
(というかなぜここにコールマンがいるのか謎)上の段の真ん中の6人のパイロットたちは陸軍航空隊メンバーで、
彼らは1923年に大西洋横断を成し遂げたということで有名です。
が、軍で言うと、大西洋横断を先に達成したのは海軍なのです。
なのになぜ、世界初の太平洋横断飛行を行った海軍ではなく、
陸軍の写真なのかはよくわかりませんが、
このパネルに収める軍人の陸海の数のバランスの関係でしょうか。
■ 大西洋初横断
リンドバーグが大西洋単独無着陸横断に成功する8年前に、
海軍は水上機による大西洋横断飛行を史上初めて成功させていました。
その二週間後、イギリスのジョン・アルコックとアーサー・ブラウンが、今度は航空機による史上初大西洋ノンストップ横断に成功しました。
アルコックとブラウンの像
ちなみにアルコックはこの年1919年の12月に参加した航空ショーで
飛行機が墜落し、若くして死去しています。
命の危険を重々承知で飛んでいたとはいえ、
世界記録を出した直後に死ぬというのは何とも気の毒です。
ともかく史上初めて航空機と名のつくもの、水上機で大西洋横断したのは、
アルバート・クッシング・リード中佐率いる3機のNC-4海軍チームで、
ニューヨークからプリマスまで23日で到達しているのですが、
かかった時間と横断に複数の飛行機を使用したということで、
「大西洋横断」と言う公式記録にはカウントされませんでした。
しかし、このときの海軍は、記録を作ると言うよりは、大洋横断兵器としての飛行機の性能と技術を証明するため、
軍を挙げて大西洋横断に挑戦したのだといわれています。
という意気込みの割に驚くほどのんびりとした出撃風景なんですが・・・。
1919年5月8日、ロングアイランドのロッカウェイビーチ。
(どこから撮った写真なんでしょうか)
この挑戦は6名の乗員を乗せたカーチス飛行艇3機で行われました。
使用されたのはNC-1、NC-3、NC-4でと番号が振られたカーティスNCと言う最新式の水上飛行機でした。
大西洋横断メンバー
当時の海軍の軍服が全く陸軍風なのに驚かされます。
長靴に乗馬のジョッパーパンツなんて海軍要素ゼロですよね。
NC-4艇のメンバー、左から右に向かって:
操縦士;エルマー・ストーン中尉Lt. Elmer F. Stone, 沿岸警備隊
機関士;ユージーン・ローズ上等兵曹Eugene S. Rhodes
機関長;ウォルター・ヒントン大尉Lt. Walter Hinton
副操縦士;ハーバート・ロッド少尉 Ensign Herbert C. Rodd
通信&機関長;ジェイムズ・ブレッセ大尉 Lt. James L. Breese,
司令官;アルバート・リード 中佐Lt. Cmdr. Albert C. Read
アゾレス諸島海軍司令官;リチャード・ジャクソン少佐
Capt. Richard E. Jackson, Commander U.S. Naval Forces Azores
アゾレス諸島は、彼らが大西洋横断の際に中継点として離陸した
大西洋の島であり、ジャクソン少佐は現地司令官です。
先にフライトエンジニアとしてE・H・ハワードというメンバーがいましたが、
5月2日、ハワードは回転するプロペラとの距離を見誤り、
手を失ったため、ローズ上等兵曹が代理で乗り込むことになりました。
超余談ですが、この中の唯一の沿岸警備隊からの参加者、
ストーン中尉(左端)は、のちに海軍の飛行船「アクロン」の沈没事件の時、
沿岸警備隊の飛行艇のベテランとして、嵐の中、外洋に着水し、
果敢にも救助活動を行ない、賞賛されることになります。
この時の「アクロン」の生存者は76名の乗員のうちたった3人でした。
このときのリード隊のコースが図になっています。
ニューヨーク・ロングアイランド
マサチューセッツ・チャタム(アメリカ)
ハリファックス、セントジョンズ・ニューファンドランド(カナダ)
ホータ、ポンタ・デルガーダ(アゾレス諸島)
リスボン、フィゲイラ(ポルトガル)
フェロル(スペイン)
プリマス(イングランド)
(赤字は予定外の緊急着陸地)
水上艇での横断というのが記録として公認されなかったのは、
固定翼機と違い、墜落による命の危険がない乗り物だったからでしょう。
おまけにこのとき、海軍は作戦成功のためにルート上に駆逐艦を配備して、
逐一カーチス飛行艇を誘導していたと言いますから、
のちのリンドバーグやイヤハートと違い、言うては何ですが
比較的イージーモードな挑戦だったから、と言えるかもしれません。
1919年5月8日、アメリカ海軍の大西洋横断飛行探検が始まりました。
参加したカーチスはNC-4はNC-1とNC-3と言いましたが、
なぜ2がないかというと、この出発前、NC-2は、NC-1を修理するため
重要なスペアパーツを取られて飛べなくなったからです。
3機はロッカウェイ海軍航空基地から出発し、一週間後となる
5月15日には、ニューファンドランドのトレパシーに到着しました。
カーチスNCの航行支援と万が一の際の乗員救出のため、
アメリカ海軍の軍艦8隻がアメリカ東海岸北部と大西洋カナダに配備され、
全軍挙げて成功させる気満々です。
USS「アルーストック」
支援のための全艦艇の旗艦である「ベース・シップ」は、
カーチスNCの飛行直前に海軍が水上機テンダー(補給船)に改造した
旧機雷掃海艦USS「アルーストック」でした。
「アルーストック」は排水量3,000トン強で、
大西洋横断飛行支援に配備された海軍のどの駆逐艦よりも大型です。
「アルーストック」は、カーチスNCがニューヨークを離陸するより前に、
ニューファンドランドのトレパシーに待機していました。
NC-1、NC-3、NC-4が到着すると、給油、再潤滑、整備作業を行い、
のみならずその後、大西洋を横断してカーチス隊を追いかけ、
イギリスに到着した一行と合流して至れり尽くせりの援護を行いました。
海軍全面支援ならではのゴーヂャスなバックアップ体制です。
5月16日、3隻のカーチスNCは、ニューファンドランドを出発しました。
大西洋中部のアゾレス諸島までは今回最も長い距離飛ばなくてはなりません。
しかし、ご安心ください。
先ほども言いましたように、この航路には、主に駆逐艦からなる
22隻の海軍艦艇が約50マイル(80km)間隔で配備されていました。
この過保護っぷりよ
この駆逐艦配置をして「真珠の首飾りのよう」と評されたと言います。
配置されたすべての駆逐艦は「ステーションシップ」として機能するべく、
夜間には煌々と光を放って、迷える飛行艇を導きました。
乗員はサーチライトを空に向けて照らし、また、
飛行士が予定した飛行経路を外れないように、星空弾を発射しました。
NC-4の乗員
が、
ここまでやったのに、やはりアクシデントは起こり、
三機全部、というわけにはいかなかったのです。
NC-4は、翌日の午後にアゾレス諸島のファイアル島のオルタに到着し、
約1,200マイル(1,900km)の飛行を無事に終えることができましたが、
この、15時間18分の夜間飛行の間、一行は濃い霧に遭遇し、
水平線を見失う状態に見舞われたため、危険回避のために
NC-1とNC-3は大西洋に着陸せざるを得なくなりました。
飛行艇だからよかったものの、飛行機なら墜落ですね。
しかもNC-1は荒波にもまれ、再飛行が不可能となり、
NC-3はメカニカルトラブル(操縦線断裂)で棄権を余儀なくされます。
このNC-1には、後に提督となるマーク『ピート』ミッチャーが乗っており、
ミッチャーら乗員6名は、配備された駆逐艦ではなく、
通りすがりのギリシャの貨物船SS「イオニア」号によって救助されました。
NC-1には「ナンシー」と言う愛称がつけられていましたが、「イオニア」に発見されるまで、ミッチャーらは波に揺られる
「ナンシー」の翼の上にずっと座っていたということです。
当ブログではおなじみ、ミッチャー
若き日、イケイケの飛行機野郎だった頃のミッチャー
「イオニア」号は、乗員を「アルーストック」に移乗させた後、
NC-1を曳航していたらしいのですが、気の毒に、3日後に沈没し、
深海で行方不明となってしまいました。
もし飛行艇の曳航などしなければ、というか、たまたま
駆逐艦より先に遭難した飛行艇を見つけていなければ、
「イオニア」もきっとこんな目に遭わずに済んだと思われます。
(-人-)
さて、もう1機の遭難艇NC-3には、やはりのちに提督となる
ジャック・タワーズが乗っていました。
グレーの矢印(見にくくてごめん)というか
一人だけズボンに皺のないのがタワーズ
さて、タワーズを乗せたNC-3は、約200海里(370km)を航行して、
(つまり飛ばずに船のように海路を進んで)アゾレス諸島に到着し、
そこからアメリカ海軍の艦船に本国までドナドナされていきました。
NC-4はアゾレス諸島に到着して3日後の5月20日、
リスボンに向けて再び離陸しましたが、機械的な問題が発生し、
わずか240km飛んだところで、アゾレス諸島のサン・ミゲル島、
ポンタ・デルガダに着陸を余儀なくされました。
スペアパーツと修理のために数日滞在後、(これってセーフ?)
NC-4は5月27日に再び離陸しました。
そして、またしても海軍は、特に夜間の航行を助けるために
艦艇をみっちりと配備して備えました。アゾレス諸島-リスボンのルート上には13隻の軍艦が配置されています。
当時は戦間期で、海軍も暇っちゃ暇だったのでしょう。
その後は大きなトラブルもなく、9時間43分でリスボン港に着岸成功!
この瞬間、NC-4は、「初めて大西洋を横断した航空機」
また、「初めて『海洋上』を横断飛行した航空機」となったのです。
また、マサチューセッツやハリファックスからリスボンまで飛んだことで、
NC-4は「北米やヨーロッパの本土から本土まで飛んだ初めての飛行機」というタイトルを得ることにもなりました。
かかった日付のわりに、実際の飛行時間は26時間46分でした。
ついでに言えば、リスボンからスペインのフェロール、
そしてフェロールからプリマスという最後の飛行区間には、
さらに10隻のアメリカ海軍の軍艦が航路上に配置されていました。
結局、ニューヨークからプリマスまでのルートのために、
合計53隻のアメリカ海軍の艦船が配備されていたことになります。
やっぱり暇(略)
ヨーロッパ(のどこか)を意気揚々と滑走するNC-4
NC-4の乗員ははプリマスでNC-1、NC-3の乗組員と再会し、
成功組失敗組、一緒に列車でロンドンに向かい、そこで歓迎を受け、
次にフランスのパリを訪れ、そこでも熱烈に喝采を浴びました。
しかし、そのわずか二週間後、最初にも書いたように、
ジョン・アルコックとアーサー・ウィッテン・ブラウンが
ニューファンドランドからアイルランドまでヴィッカーズ・ヴィミー複葉機による初の大西洋無着陸横断飛行に成功。
所要時間も16時間27分と海軍の飛行艇の時間を大幅に上回り、
この壮挙にはちょっと曇りが生じることになります。
せめてこの何ヶ月か後ならもう少し勝利感に浸れたと思うのですが。
この成功によって、アルコックとブラウンは、
『デイリー・メール』紙がスポンサーとなって出した条件、
「アメリカ、カナダ、ニューファンドランドのいずれかの地点から、
イギリスまたはアイルランドのいずれかの地点まで、
飛行中の飛行機で72時間連続して初めて大西洋横断を行った飛行士。
各試行に1機のみを使用できる」
をクリアし、1万ポンドの賞金を獲得しましたが、そもそも海軍は
このコンペに参加して賞金を得ることには全く無関心でしたから、
時間制限とか、1機使用などというルールを守ろうなどとは
ハナから思っていませんでしたし、また守る必要もなかったのです。
アメリカに輸送するためプリマスで解体されるNC-4
この後機体は「アルーストック」に積み込まれた
しかしこの壮挙は賞金には変えられない栄光を海軍にもたらしました。1929年2月9日、議会は公法を可決し、
「最初の大西洋横断飛行を考案し、組織し、指揮した」
ジョン・H・タワーズ中佐と、
「1919年5月にアメリカ海軍飛行艇NC-4に乗り、
最初の大西洋横断飛行に成功したという驚くべき業績」
を挙げた搭乗員の6名に連邦政府金メダルを授与し、
海軍は新たにNC-4勲章という軍事勲章を創設することになったのです。
これはミニチュア版の議会ゴールドメダルでしたが、
海軍や軍服への着用が許可されるメダルは非常に稀なものでした。
本作戦指揮官を務めたリード中佐は搭乗員番号25、
つまり海軍始まって以来25番目に資格を得たパイロットです。
1919年、挑戦を終え、アメリカに帰国したリードは、こう予言しました。
「まもなく人類は、高度6万フィート、時速1,000マイルの飛行機で
世界を一周することが可能になるだろう」
現代の我々には、そりゃそうなるよね、くらいにしか思えない発言ですが、
翌日のニューヨークタイムズ紙は、社説で真っ向から反発しています。
「飛行士の資格と預言者の資格は全く別物だ。
中佐の予測を裏付けるものは、今となっては何もない。
6万フィートの高さにある飛行機は、
真空の中でプロペラを回しているようなもので、
星間空間の凍てつくような寒さの中では、
どんな飛行家も長くは生きられないだろう 」
と。
NYT紙といえば、預言者となったロケット工学の父、
ロバート・ハッチングス・ゴダードに対する当時の暴言を
人類の月着陸の翌日誌面で大々的に謝罪したことで有名ですが、
この暴言に対しては誰をも責任をとっておらず、
少なくとも誰もリードに謝っていないように思われます。
アルフレッド・リードは1967年まで生きていましたから、ジェット機の登場も
音速超えの飛行機も、人類が宇宙に行ったことも当然知っていたわけです。
彼は自分の預言というより、実体験からの「予測」を貶したNYTに対し、
後年そらみたことかと思っていたに違いありません。
History of Naval Aviation - NC-4, Aircraft Carrier 21720
前半はつまらないので8:00くらいからご覧になるとよろしいかと思います。
この時代の水蒸気カタパルトが結構すごいのに驚かされます。
NC-4は、帰還後に海軍からスミソニアン博物館に寄贈されたため、
スミソニアン博物館の所有物ということになっています。
しかし、この機体は大きすぎて、ワシントンD.C.にある
ここ旧スミソニアン芸術産業館にも、その後継で1976年に完成した
国立航空宇宙博物館本館にも収容することができません。
というわけでNC-4の小型模型は、国立航空宇宙博物館のマイルストーン・ギャラリーに
1903年の初代ライトフライヤー、
1927年のチャールズ・リンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス」
1947年のチャック・イエーガーのグラマラス・グレニスX-1ロケット機、
X-15ロケット機とともに、名誉ある機体として展示されています。
模型ですが。
1974年現在、組み立てられた本物のNC-4はスミソニアンから
フロリダ州ペンサコーラの国立海軍航空博物館へ貸し出されています。
このままスミソニアンに帰ってくることはなさそうです。
続く。