USSシルバーサイズ潜水艦博物館の展示より、
個人寄贈のものからご紹介します。
説明がないのですが、男性用のコートだと思います。軍帽のトップにバッテンの模様があるので、
海兵隊のヘビーウールのトレンチコートでしょうか。
この全身白の軍服が、前回紹介した海兵隊パイロットの
ウォルター・スプロール中佐のものであることから、
コートも同じ人の寄贈であると想像します。
それにしても、海兵隊グッズを何から何までここに寄贈したのですね。
海兵隊というと、黒に赤のトリミングの入ったジャケット、
パンツはブルーに赤いストライプというのが典型的なスタイルですが、
ちゃんとドレスホワイトも用意してございます。
海軍だけにドレスホワイトでいいカッコさせてたまるか、
という意味ではないと思いますが、やっぱり
白の詰襟は各方面から人気が高かったのだと思います。
海軍のドレスホワイトとの違いは、肩章も白であること。
海軍は黒に金線で階級をあらわしますが、海兵隊は
白の肩章のネックにボタン、そして葉っぱのようなマークがつきます。
そして、ネックから前ポケットに向かって斜めにダーツが2本入ります。
スプロール中佐パイロットだったので、胸には
ウィングマークが誇らしげに飾られているのでした。
これも説明が一切なし。
イギリス軍ぽいの(最上段左)とか、陸軍の(上から二段目)とか、
これもしかしてドイツ軍の?(上から三段目左)とか。
R・ロバートソンと名前の書かれたシーマン制服一式。
こうしてみると、ダンガリーシャツにジーンズ(ベルボトム)という、
日本では戦後のヒッピー文化以降根付いたファッションも、
実はアメリカではこれが原点だったらしいことに気付かされます。
右側の水兵用ピーコートも、いまではこのスタイルのまま、
なんなら女子も着用できそうな変わらないスタンダードですが、
実はピーコートの「pea」は豆と言う意味ではなく、
錨の爪部分の呼称が「pea」(これは豆が語源でしょうけど)
だからそうなったといわれているのです。
これ豆知識ね。←誰うま
トレンチコートも塹壕戦のファッションが起源だし、
詰襟、セーラー服はもちろんのこと、ミリタリーがその時代のファッションに
与えてきた影響は非常に多いものです。
最近どこぞの共産党議員(女)が、「自衛隊員は街中を迷彩服で歩くな」と発言したというニュースを目にしましたが、サヨク系子育てママさんの、子供にカモフラージュ柄を着せないで、なんて発信を見ると、
セーラー服は娘に着せないんだな?トレンチコートを夫に着せないんだな?
あなたはチノパンツ(イギリス陸軍の作業着由来)も履いたことないの?
そしてモッズコート(米軍のM-51,MK-65シェルパーカのデザイン)
を子供の送り迎えに着たりすることもないんだな?
と、こまめにつっこんでやりたくなります。
■ 海の男たちの戦争協力
戦時プロパガンダポスター(バナーなので曲がってしまってすまん)
は、船舶事業者、漁業事業者たちの協力を求めるもので、
アメリカは船を欲している
敵に戦争を与えるために
さあ行こう!
とあります。
ここから先は、戦争に協力した海の男を讃えるものになっています。
ここマスキーゴンからミシガン湖丸沿いにちょっと下がると、
そこはサウスヘブンという漁港だったところがあります。
「魚はファイティングフードだ!」
というこの戦時ポスターは有名で、今でもプリントが取引されています。
なぜ魚が「戦いの食糧」なのか。
ポスターの啓蒙するところは、つまり自給自足でした。
当時のアメリカ政府は、同じ理由で園芸や缶詰を奨励していましたが、
戦争を遂行するため、日本政府が「贅沢は敵だ」(敵の前に『素』を落書きした人がいたそうですが)
と言ったのと方向性においてはおなじような理由で、
各家庭が自給自足に励めば、それだけ戦争遂行に費用が回せるという訳です。
「仕事を済ませようぜ!」
というこのポスターは、熟練のシーマン募集用。
それにしてもこの手のポスターの黄色使用率高し。
やっぱりアイキャッチーな色とされているからですかね。
「呼びかけに応えて」
というテーマで紹介されているこの人物は、ミシガンの
サウスヘブンで漁業を営んでいたクリストファー・ジェンセン。
愛国者のジェンセンは、早速政府の呼びかけに応答して行動を起こしました。
彼にできるのは魚を採ること。
そして広くそれを配布することです。
その対象は一般家庭にとどまらず軍隊にも及びました。
デンマークからの移民だったジェンセンは、
元々ここマスキーゴンで事業をしていましたが、
政府の呼びかけに応えてサウスヘブンで商業漁業を始めました。
最初は家族でタグボートによる釣りをして、
嵐によりそれを買い替えたりしていたとき、偶然ミシガン湖では
トラウト(マス)が大量に揚がるようになったのです。
このビッグウェーブに乗るしかない、とジェンセンは
戦時中の国に食糧を供給する事業を拡大させていきました。
1942年当時の彼の写真の前には、
彼が漁で使ったフックや擬似餌、トラウトの標本が飾ってあります。
葦の漁網を作るジェンセン
しかし戦争が進行するにつれ、ミシガン湖の商業漁師は
次第に漁獲量が減少していきました。
レイクトラウトを捕食するウミヤツメ(うなぎに似ている)が増え、
そのため大規模にトラウトが減ってしまったのです。
しかし、ジェンセンは業界を離れることを全く考えず、
戦後も数十年に渡り漁を続けました。
「アンサー・ザ・コール」シリーズ二人目。
1940年、ルイス・アベルはミシガンのロビンソンマリーンに入社しました。
彼がここでやった仕事は、「船が欲しい」という国の声に答えて、
プレジャーボートやタグボートを戦時仕様へ改装する工事でした。
彼は、同じ時代、同じように国のために立ち上がり、
自分の仕事で奉仕しようとした多くの若者たちの一人です。
1920年、カナダに生まれたアベルは幼少期に家族と米国に移住し、
家族はミシガン州のハーバーで果樹園を経営しました。
ロビンソン社ではサブチェイサーを建造するチームに加わりましたが、
彼はリギングの仕事にをエキサイティングだと感じ興味を持ちます。
リギング=索具の係はクレーンとウィンチを使用して
それだけで大きな船をシップヤードで動かし、
完成したボートをミシガン湖に出して対岸のシカゴに届け、
その後はバスか列車でまた戻ってくるのです。
1942年初頭、アベルはロビンソン社の向かいにあった
タスコットボート製造会社に就職(よかったのかこれ)し、
ここでも柵具作業員として働きました。
彼はここで今までの会社では見なかった、
女性のシップビルダーを見ることになります。
そのときまでにアメリカは戦争に突入しており、
すでに男性が入隊したり徴兵されたりして抜けた職場に
女性が必要され、実際に現場に投入されていたのでした。
この造船工具の数々は、当時の造船会社で使われていたものです。
左上から時計回りに、
●両刃のリーミングフック
●メタルホイール刃 木製ハンドル
●カーブのあるところをコーキングするアイロン
●リーミング(拡孔)リッピング(縦引き)フック
●パンチ穴あけ
●コーキング(小さな部分用)ツール
●ベントコーキングアイロン
戦線に送る物資を積み込むドックワーカーたち。
ミシガン湖のここマスキーゴンの港での光景です。
湖をパトロールするコーストガード。
今日のメインテーマは、「コーンベルト・フリート」です。
この写真は、そのテーマに深く関係しています。
この写真でミシガン湖で建造されているのは、五大湖で稼働する、
2隻目の航空母艦になる予定です。
そして海軍は、その2隻の航空母艦で艦隊を形成しようとしていました。
その名も「コーンベルト・フリート」。
コーンベルトは読んで字の如く、トウモロコシ生育地帯。
本来海がないコーン生育地域に不自然に存在する艦隊、
それが、五大湖で建造された2隻の空母(だけからなる)艦隊でした。
そこでこんなコーナーが現れます。
まず、左側の「スチームボートが空母に」と言うのを見てみます。
サイドホイール蒸気船『シーアンドビー』
1912年、デトロイト造船会社が建造した「C&B」として知られる
この500フィートの蒸気船は、510室のプライベートキャビン、
24のパーラー、正式なダイニングホールを備え、定員は1500人、
という豪華客船として稼働していました。
彼女は最初から最後まで「淡水生まれの淡水育ち」。
現役時代は、オハイオ州クリーブランドとニューヨーク州バッファローの間、
つまりエリー湖の中をぐるぐる周航していましたが、
1940年にシカゴに転勤することになりました。
そのときには、エリー湖からデトロイト経由でヒューロン湖、
それからミシガン湖を下るというコースを辿ったでしょう。
その後、客船として働いていた「シーアンドビー」に
とんでもない話が持ち込まれるのです。
航空母艦「ウルヴァリン」への転身
なんと、蒸気汽船を空母に改造するという、海軍の計画です。この作業は、1942年5月10日に始まりました。
「亀の甲の虫のように、千人以上の労働者が
シーアンドビー号を空母として完成させようと急いでいる。
これは五大湖を航行する史上初の空母である」
「この巨大な旅客船は、湖で最も速く、
内陸の水路ではおそらく最も速い蒸気船で、
改造作業が始まってから約70日で完成し、
海軍のために準備されるだろう」
船体が大きすぎて乾ドックでは作業ができないので、
異例ですが、停泊させたまま改造が行われました。
ピーク時には1,250人の船員たちが24時間体制で作業したといいます。
バッファローの住人たちは、この造船所で
何か特別なことが起こっていることを知っていましたが、
現場には沿岸警備隊の駐屯地があり、周辺は武装した沿岸警備隊員であふれ、
車は近寄れないし、歩行者は誰何されるという厳戒態勢でした。
ところで、なんだって海軍はこんな戦争と関係のない湖に
外洋に持ち出すつもりもない空母など作ろうとしたのでしょうか。
工事が完了し、8月12日に就役した空母「ウルヴァリン」。
全長550フィート、艦隊空母の約3分の2の長さの飛行甲板を持っていました。
格納庫、エレベーター、カタパルトまではありませんが、
調理室と寝室はありました。(これって当たり前のような・・)
就役式は一般に非公開で、乗組員とともに数人の要人が出席したのみ。
初代艦長ロス・P・シュラバック少佐は、
乗組員に向かってこんなスピーチをしました。
「もし、君たちがこの船を改造するために働いてくれた人たちと同じように、
一生懸命に、そして断固として働いてくれれば、
我々海軍は究極の効率を手に入れることができるだろう」
しかも、アメリカ海軍は、もう一隻同じ空母を調達しようとしていました。
この就役式の少し前のことです。
喫水線から80フィートもある3層のデッキをそのままにした
SS「グレーター・バッファロー」号が造船所に到着しました。
「グレーター・バッファロー」号
「グレーター・バッファロー」は、「シーアンドビー」号より少し若く、
少し大きな船で、1923年に建造され、2,127人の乗客を乗せることができ、
625の客室が備えられて車両を103台デッキに搭載することができました。
海軍はこの船で鋼鉄製の甲板をテストすることを希望し、
そのため、就役の準備に時間がかかりましたが、工事が完了すると、
「グレーター・バッファロー」は「セーブル」と名前を変え、
8本のアレスティングケーブル、主甲板の講義室、21人の飛行士の寝台、
病室、手術室、洗濯室、仕立屋、乗組員室、
乗組員のためのカフェテリア式調理室、士官食堂が完備していました。
ちなみに「セーブル」に配属された乗組員の中には、
珊瑚海海戦で大破して廃艦となった
USS「レキシントン」の生き残りが何人もいたということです。
「セーブル」を建造する作業はその優秀さを認められ、
E賞を与えられましたが、その式典で海軍提督はこう訓示しました。
「かつて、五大湖で外洋の船乗りを訓練することを提案した大胆な男は
皆に笑われたものですが、しかし、今、そのアイデアは
戦争で最も偉大なものの1つであることが証明されようとしている」
引き渡される「ウォルバイン」
USS「ウォルバイン」
バッファローを出港した「ウォルバイン」は、
石炭焚きのボイラーから煙を上げて、
飛行士と水兵の訓練を待つシカゴに向かいました。
その横櫂船型航空母艦は、異様な光景を作り出していました。
そして、アメリカ海軍念願の「コーンベルトフリート」は始動しました。
そう、すっかり言い忘れていましたが、コーンベルト艦隊の使命は、
海軍の艦載機パイロットの訓練育成だったのです。
ミシガン湖に到着した2隻で早速パイロットの訓練が行われます。
海軍はこの2隻を、空母パイロットの離着艦訓練のために作り、
外洋より安定した練習場と思われたミシガン湖に据えたのです。
さすがアメリカ、やることのスケールが違う。
訓練中のパイロットは、近くのグレンビュー海軍航空基地から離陸し、
空母に着艦して再び離陸、という行程を繰り返します。
空母パイロットの資格を得るには、10回の離着陸成功が条件でした。
これは後に8回に減らされています。
訓練は夜明けから夕暮れまで、もちろん厳しい冬も行われました。
このときの訓練で空母のパイロットになった17,800人の中には、
後に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュも含まれていました。
当時海軍で最年少でウィングマークを取り、最初の任務に就くブッシュ父。
子ブッシュに似てる・・・って親子だから当たり前か。
ブッシュの語る、コーンベルト艦隊訓練の思い出とは。
「あの冬のオープンコクピットでの五大湖の飛行はよく覚えている。
人生で一番寒かった」
普通に地面にいるだけでも死ぬほど寒いのに、
五大湖の上をオープンコクピットで飛ぶって。
当時の空母着艦(特に訓練中)はウィンドウが閉められなかったのね。
そして、空母への着艦訓練では、事故も当然起こります。
墜落で命を落としたパイロットもたくさんいました。
今から墜落します
この頃、激しい訓練が日夜行われたミシガン湖には、
軍用機が多数墜落して、長年そのままになっていました。
1980年台にある篤志家が、ミシガン湖の軍用機を回収する、
というユニークなビジネスを思いつきました。
その結果、彼らは訓練が行われていた南側の流域で
数十機の墜落機体を特定し、引き揚げの作業にかかりました。
海軍はこれに、民間の寄付者が関連費用を払うならば、
軍用機の回収、さらにその機体の復元展示を許可するとしました。
「ウルヴァリン」と「セーブル」。
この2隻の空母が全く戦史において注目を集めたことがないのは、
彼女らが淡水戦闘艦であり、会敵したことがなく、怒りの発砲もなく、
ただパイロットの訓練だけで終わったからです。
しかし、何千人もの海軍飛行士に、実戦に出る前に
ピッチングやローリング中の飛行甲板に着艦するというような
限りなく本番に近い状況を作り訓練の場を与え、
彼らの育成に寄与したことは、海軍から高く評価されています。
続く。