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マクリーディ&ケリー陸軍中尉の北米大陸初横断飛行〜スミソニアン航空博物館

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スミソニアン博物館の「ミリタリー・エア」のコーナーには、
古色騒然とした単葉機が展示されています。

胴体に
「ARMY SERVICE NON STOP
COAST TO COAST」
と書かれた飛行機は、実はオランダのフォッカー社製です。
フォッカーT-2は、北米大陸を初めて無着陸で横断した飛行機になりました。



フォッカーT-2の下には大陸横断を成し遂げた
二人のパイロットの姿がパネルとなって立っていて、
その前で写真を撮っている少年と老年がいました。

ちなみにこの二人は全く無関係の間柄です。
うっかりパネルの文字を写真に撮ることを忘れたのですが、この二人が

ジョン・マクリーディ大尉 Lt. John MacReady
オークリー・ケリー大尉 Lt.Oakley Kelly

であり、大陸横断を成し遂げたパイロットであることはわかります。


このパネルの中段左から三番目にケリー、
上段右端がマクリーディとなります。

これで下段の海兵隊パイロット、クリスチャン・シルト将軍(最終)
以外は全員紹介しましたが、シルトについては以前取り上げたので、
今回は書くことがなくなったらにします。
■ 北米大陸横断飛行

1923年5月2日。

オークリー・G・ケリー中尉とジョン・A・マクリーディ中尉は
ニューヨーク州ロングアイランドを離陸し、
26時間50分余り後の5月3日、カリフォルニア州サンディエゴの
ロックウェル・フィールドに着陸するという快挙を達成しました。

Lieutenants Oakley G. Kelley and John A. Macready land in San Diego, California (1923)

ガソリンを入れるところから始まって、二人が飛行服を着て乗り込み、
ニューヨークの上空を飛び、航路が示されたビデオです。
T-2の前に立つマクリーディとケリー

ケリーが離陸、マクリーディが着陸を担当し、
飛行中に5回ほど操縦を交代しています。
ケリーとマクリーディが操縦した初の大陸横断無着陸飛行のルート
■ フォッカーT-2


大陸横断飛行の成功は、航空局の準備と技術だけでなく、
機体の設計にも大いに関係がありました。

1922年、オランダのフォッカー社とその主任設計者、
ラインホルト・プラッツの手によって、オランダの現地で
大陸横断用の飛行機が製造されました。

この飛行機は、フォッカー社の商業輸送機シリーズの第4弾で、
「エア・サービス・トランスポート2」(T-2)

と名付けられ、簡単にT-2というのが名称となります。
生産されたT-2、2機は1922年6月にアメリカ陸軍航空局に売却され、
当初はF-IVと呼ばれていました。

それまでのフォッカー機の中で最大の機体であるT-2は、
全長25m近い片持ち式の木製単葉主翼と、15m弱の胴体が特徴です。

アメリカ製の420馬力のリバティV型12気筒エンジンを搭載し、
標準仕様はエンジンの左側にある前方開放型のコックピットに
パイロット一人が乗るようになっており、
機内には8~10人の乗客と手荷物を乗せることができました。

陸軍航空局によって早速初期の受け入れテストが始まり、
T-2は重量を搭載することができ、彼らの目標である、
東海岸から西海岸までの長距離飛行に適応できることがわかりました。

しかし、そのためには改造する必要がありました。

航続距離を伸ばすために搭載燃料タンクを大きくすると、
重量に耐えられるように主翼の中央部分を補強する必要があります。

主翼前縁にある標準的な492リットルの燃料タンクに加え、
主翼中央部に1552リットルのタンク、さらに胴体キャビン部には
700リットルのタンクがこれでもかと搭載されることになりました。

また、機内には、2人のクルーが操縦を交代する際、
機体を安定し易くするための第2コントロール・セットも設置されました。
1924年、陸軍航空局はT-2をスミソニアン博物館に寄贈し、
1962年から1964年にかけて完全修復が行われ、現在の姿は
1973年に改装をおこなった時のものとなります。


【2回の挑戦失敗】

最初の2回の出発地にサンディエゴが選ばれたのは、二つ理由があって、
一つは偏西風を利用するため、そして、西海岸からなら、
カリフォルニア産のオクタン価が高い精製燃料が使えるから
というものでした。


1回目の飛行では、サンディエゴの東80kmの峠に霧が発生し、
ケリーとマクリーディは引き返さざるを得なくなりました。

しかし、この時、彼らは可能な限りの時間上空に止まって、
機体の性能をあれこれと試すことで、次に備えました。

2度目もサンディエゴから出発しましたが、インディアナポリス近郊で、
冷却水タンクのひび割れが原因でエンジンが焼き付いたため、
この挑戦も失敗に終わりました。

この西東横断の準備と2回の失敗の間に、新しいエンジンが数台搭載され、
T-2にさらに多くの小さな改造が繰り返されることになります。

これらのこの作業はすべて、オハイオ州デイトンの
マクックフィールドにある陸軍航空局の施設で行われました。
【三度目の正直】

3度目の挑戦は、東から西への飛行と決まりました。

大陸横断飛行は、5月2日午後2時36分、
T-2がルーズベルト・フィールドを離陸した時に始まりました。

離陸時の機体総重量は4,932kgで、T-2の限界である4,990kgより
わずか68kg少ないだけ、つまり限界まで燃料を積んでいました。
飛行機が高度を上げるまで20分かかったくらいでした。

ケリー中尉が最初に操縦し、インディアナ州リッチモンドまで飛行。
その後ケリー中尉はマクリーディ中尉と交代し、深夜まで飛行。

パイロットは基本的に6時間交代です。
コックピットはオープンで、うるさいリバティエンジンのすぐ後ろ。
上空で二人はおそらく互いの声が聞こえなかったに違いありません。

夜間飛行では激しい嵐や雨に見舞われ、コクピットはほぼ吹き曝し。
アーカンソー川に差し掛かったところで飛行を終了しました。

「横断飛行」の定義としては、乗員が二人いても寝る時間は別で、
一応夜は着陸してもいいというルールになっていたようですね。
おそらく陸軍の「俺ルール」だったんだと思いますが。

(だからこそ、大西洋をたった一人で無着陸横断飛行したリンドバーグは
世紀の英雄とされたのだと思います。
ちなみにリンドバーグの大西洋無着陸横断はこの5年後でした。)

翌朝6時、ニューメキシコ州サンタローザで再び操縦を交代し、
さらに高度3,110kmで再び交代。

この結果、T-2は現地時間5月3日午後12時26分にサンディエゴに着陸し、
26時間50分38秒5という公式タイムで
(寝ている時間以外)ノンストップの大陸横断飛行を完了しました。

この時のT-2は3,950kmを平均地上速度147kphで飛行しています。


この時の飛行のことをマクリーディは、

「大陸無着陸横断では、暗闇の中を13Vk時間飛行し、
非常に悪い天候を経験し、一睡もせずに飛行した」

と述べています。
「限られた燃料の中で、コースを外れると西海岸にたどり着けなくなる。
鉄道はもちろん、航空路も郵便路も確立されていない。
嵐と暗闇から抜け出したとき、コンパスだけでコースを確認し、
サンディエゴに到着するのに十分な燃料があることを知った。
私たちは、この航法に大きな誇りを感じています」
と。

サンディエゴのロックウェルフィールドに着陸するT-2

T-2がサンディエゴ上空に到着すると、多くの航空機が
マクリーディとケリーという2人の勇敢な飛行士を出迎えるために
空へ飛び立ちました。(危なくないのかと思ったのはわたしだけ?)

5月3日12時26分、T-2がカリフォルニア州コロナドの
ロックウェル・フィールドに着陸すると、大勢の人が詰めかけました。

このフライトは、全米、全世界の注目を集め、
ニューヨーク・タイムズ紙をはじめ、一面の見出しを飾りました。



■ ジョン・マクリーディ中尉
マクリーディらはこの挑戦のために、何度かテスト的に
条件を加えた飛行を行なって機体を試しています。

1921年9月28日の高高度飛行に先立ち、ルペール複葉機の右翼の前で
ヘルメット、マスク、ゴーグル、パラシュートとフル装備の
高高度飛行服を着て立っているジョン・A・マクリーディ中尉。

当時の飛行機はオープンコクピットですから、
全身をこうやって皮で包み、さらには顔周り、
風を受ける手首周りに毛皮があしらわれています。


ジョン・アーサー・マクリーディ中尉
John Arthur Macready 1887-1979

は、第一次世界大戦後の数年間、陸軍最高のパイロットの一人であり、
マッケイ・トロフィーを3度受賞した唯一のパイロットです。
カリフォルニア州サンディエゴ生まれで、
スタンフォード大学を1912年(25歳で?)卒業しています。

1918年にアメリカ空軍に入隊し、サンディエゴの
ロックウェル・フィールドでパイロットのウィングマークを取得しました。

テキサス州ブルックス飛行場の陸軍飛行学校で教官をしていた時に書いた本は
米軍航空初期の飛行学生の基本マニュアルになりました。

戦後は、オハイオ州マクック飛行場の航空局実験試験センターに配属され、
チーフテストパイロットとして活躍しています。
大陸横断飛行の前年である1922年、マクリーディ中尉は
のちに横断飛行のパートナーになる同僚のオークリー・ケリー中尉とともに、
サンディエゴ上空で35時間18分半という世界飛行耐久記録を樹立。

この耐久飛行をきっかけに、初の空中給油装置の実験が行われました。
そして1923年5月、マクレーディ中尉とケリー中尉は
フォッカーT-2で米国初の無着陸大陸横断飛行を達成するのですが、
マクリーディは、高高度飛行でも、ルペールLUSAC-11複葉機
(オープン・コックピット)で40,800フィートの高度記録を達成しています。
そのほかにも、

初の夜間パラシュートジャンプ
初の飛行士用メガネの発明
世界初のクロップダスター(農薬散布機)実験
初の日食写真撮影
アメリカ初の航空写真測量
初の与圧式コックピット試験

などの実験的飛行を成功させており、
優れた航空功績に与えられるマッケイ・トロフィーを
最初で唯一3度も獲得したなどの偉業を成し遂げました。

これが世界初の農薬散布機だ



試験飛行で使用した高所作業用機器と共に

彼は、オハイオ州デイトンの航空殿堂と、
サンディエゴの国際航空宇宙殿堂にその名前が刻まれています。

■ オークリー・ケリー中尉

マクリーディ中尉があまりにも凄すぎるパイロットだったせいで、
一緒に記録達成をしたにもかかわらず、ほとんどその資料がない
ちょっと気の毒な同僚のケリー中尉です。
オークリー・ジョージ・ケリー中尉
Oakley George Kelly(1891-1966)

彼が凡庸というより、たまたまレジェンドと一緒に記録を立てたので
それで歴史に名前が残されることになったというべきかもしれません。
オークリー・ケリー中尉は、ペンシルベニア州で生まれ、1916年から1919年まで、カリフォルニア州の
陸軍ロックウェル・フィールドで教官を務めていました。

この時同僚にいたのがマクリーディ中尉です。そして二人は横断記録を打ち立てるわけですが、その後の彼の人生は、
記録を打ち立てたのと同じ飛行機(フォッカーT-2)を使って、
歴史的山林ルートの保全と保存のための支援を呼びかけをした他は、
観測飛行隊の飛行隊長を務めていたくらいしか記述がありません。
■ のちの評価

時の大統領、ウォーレン・ハーディングは

「あなたたちのの記録破りのノンストップ飛行、
海岸から海岸への飛行の成功に心からの祝意を表します。
あなたがたはアメリカ航空界の勝利の新しい章を書きました。」

そしてアーノルド "ハップ "将軍は、

「不可能が可能になった」
フォッカー航空社長でT-2型機の開発者、アンソニー・フォッカーは、

「あなたの偉業に心からの祝福を。あなたの飛行は、民間航空の発展における画期的な出来事です。10年後には、あなたが征服し飛行したルートを多くの旅客と貨物便がたどることでしょう」

そして飛行家マクリーディ自身は、

「栄誉はそれ自体で報われる。
この飛行には多くの栄光が約束されていた。
兵士としての義務を果たし、
多くの人が不可能と考える偉業を成し遂げることに大きな満足がある」
とそれぞれ語っています。

■ マクリーディとケリーの晩年

ケリーは1948年大佐として軍務を退き、
1966年にカリフォルニア州サンディエゴで74歳で死去しました。

マクリーディは第二次世界大戦で現役に戻り、
大佐として陸軍航空隊のグループを指揮したほか、
監察官として北アフリカに派遣されました。

1948年に現役を退いてからは活動の記録はなく、
1968年に全米航空殿堂、そして1976年には国債航空宇宙殿堂入りしました。
1979年、91歳で亡くなっています。


オーヴィル・ライト(中央)と歩くマクリーディ(左)とケリー今では考えられない歩きタバコに注目
続く。


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